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■ 獣人王のお手つきが身ごもりまして
あとがき
獣人は強い体を持つ。それは力というだけでなく、病に対してもだ。そのため、デルバイアでは薬学や医学が遅れがちで、新しい知識が入りづらい。医療に限ったことではなかったが、少しでも多くの知識に触れ、見聞を広めることがそのときの俺の責務だった。
ただ、最初は呆然とした。
薬師の夫婦の家……そこにいた幼い子を遠目に見た瞬間に、ぐわりと大きな熱に飲み込まれた。咄嗟に走り出そうとした自分に驚く。
ドクドクと波打つ心臓。
油断すると獣化しそうなほど高ぶる感情。
目を閉じて大きく息を吸う。こんなふうに感情が乱れることなど久しくなかったことだ。
獣人の能力は、ほぼ血筋で決まる。王家に生まれた俺はその瞬間から強者であり、叶わない望みはないといってよかった。俺は首を縦に振るか横に振るかというだけで、すべてを意のままにしてきたのだ。心を乱すものなどあるはずもなく、今、初めてそれと出会ったような気がした。
「小さいな」
俺の、番。
まだ子供じゃないか。あれが結婚できる年齢になるまでどれくらいだ?
二歳か三歳……違うな。あれは人間の子だからもう少し年齢は上のはず。けれどせいぜいが五、六歳か。成人までは……。
「十年以上だと」
体を駆けめぐる熱とは反対に頭だけが冷えていく。
咄嗟に自分の立場を考えた。二十歳になり、王太子の座についたばかり……次は結婚だと周囲は動き始めている。強い力を持つ者は強い子を成すことが義務のように求められる。
あれは少女のような外見をしているが男だろう。きっと子は望めない。宝玉を得る、なんていうのはよほどの幸運だ。一か八か賭けて次代がいないなんてことがあってはならない。
少年が成人するまでの間、仮の妻を娶るのはどうだろう。強い子を欲しがる傾向の一族からであれば十年という契約的な婚姻も認められるかもしれない。その間に子を成し、次代を得る。そう考えるとそれが最善のような気がしてきた。
そのためには接触を持ってしまうのはまずい。今はこの距離だから耐えられるが、これ以上近づいてしまえば俺は流されてしまうかもしれない。大きな感情に支配されて、身動きが取れなくなるだろう。
離れるべきだ。
いますぐここから離れて、計画を実行しなくてはならない。そう思うのに、気がついたら、体が動いていた。
考えていたのとは逆の方向へ……。それは本能のままの行動だったのだろう。
デルバイアの深い森のような緑の瞳が俺を見上げる。突然、知らない大きな男が現れれば怯えるかとも思ったが、そんな様子はなく、少年はにっこりと笑った。
「こんにちは」
大きな声で彼が言う。
「あ……あぁ、こんにちは」
戸惑い気味に俺が答えると、金色のふわふわの髪を揺らしてまた笑う。なにがおかしいのか尋ねると、彼はまっすぐ俺を指さした。
「お兄さん、変な顔」
「え?」
「だってぜんぜん笑ってないもん」
「笑ってなければ変な顔なのか?」
尋ねる俺に、少年は胸を張って答える。
「そうだよ。挨拶すると嬉しくならない? 嬉しくなったら人は笑うものでしょう?」
そんなことは考えたこともなかった。挨拶は儀礼的なものでしかない。誰かを楽しくさせるようなものでは……。
「笑って!」
「は?」
「笑ってよ、ほら」
いーっ、と少年が自分の頬を引っ張ってみせる。
必死なその姿に少しだけ目を細めると、少年は腕を組んで難しい顔をした。
「だめだめ。そんなんじゃあ笑ってるなんて認めない!」
そう言って少年は俺に手を伸ばす。必死に背伸びする様子に、身をかがめるとその小さな手が俺の両頬に触れた。
世界が変わる瞬間があるならば、まさにそのときだっただろう。十年の間は仮初の妻を……などと考えていたことが一瞬で吹き飛んだ。瞬きをする……そのほんの短いひとときで世界が色づいたと思った。
番は、これほどのものなのか。
こんなに大きく感情を揺さぶるものなのか。
流されたくないと思う一方で流されることを心地いいと感じる自分がいる。
そんな変化を俺に与えておきながら、少年はのんびりした様子で今度は自分の頬に手をあててなにやら考え込んでいる。その姿がきらきら光って見えるように思えて俺は目を細めた。
デルバイアでは常に強者であらなければならない俺は、いつしかその立場にふさわしくあろうと頑なになっていた。胸に流れ込む、この温かな気持ちはそれを溶かしていくかのようだ。
「お兄さん、ほっぺが固い! だから笑えないんだ。柔らかくするといいよ」
なるほど。自分と俺の頬を比べて笑えない理由を考えたのか。
その様子がおかしくて思わず吹き出すと、少年は大きな声を上げた。
「それっ! その笑顔だよ!」
ぴょんぴょん跳ねる小さな体が本当に嬉しそうで、自然に頬が緩む。
どれくらいぶりだろう、と思う。
少年が心配するはずだ。俺はいつから笑っていなかったのか。
こんな小さな相手などと考えた自分がバカバカしい。十年がなんだ。二十年だって待ってやる。他の相手などいらない。
俺の番は、この子だ。
俺の未来には、この少年が必要だ。
「うわっ」
少年が叫んだのは、俺がその体を持ち上げたからだ。小さな、軽い体。それなのにその存在が俺を満たしていく。驚いた顔もまた愛らしく、俺は今、天使を手に入れたのかもしれないと思った。
「なにか御用ですか?」
夢中で、真後ろの人の気配に気がつかなかった。慌てて振り返るそのさまは完全に不審者のそれだっただろう。
声をかけてきた男は、笑顔ではあったが目は笑っていなかった。
「いや、あの……この子を嫁に貰えないだろうか」
完全に動揺して先走ってしまったのが、最初の失敗だった。