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 きみは可愛い王子様 若旦那の恋のお作法
  あとがき
 きみは可愛い王子様 若旦那の恋のお作法

 子供の頃、蔵の中は遊園地よりも楽しい場所だった。
 なんでも知っていて優しい、七歳年上のお兄ちゃんと手を繋ぎ、質預かりの品を収めに行く父親のあとをついて蔵に入る。五歳になったばかりの怜一(れいいち)の目はたちまち輝いた。
「お兄ちゃん、猫。猫」
「うん、猫が寝ているね。あ、さわったら駄目だよ、怜くん、見るだけ」
 七宝焼(しつぽうやき)で描かれた、丸くなって眠る猫の画だ。お兄ちゃん……、まどかに注意をされて、伸ばした手を引っこめた怜一だが、ゆっくりと目を開けた猫が、怜一を遊びに誘うように尻尾を振るので、さわりたくてたまらない。怜一はまどかを見上げてお願い口調で言った。
「尻尾も駄目? 怜くんにおいでおいでしてるよ?」
「……それは怜くんを呼んでるんじゃないよ、眠いから静かにしてって言ってるんだよ」
「お昼寝? 怜くんが起こした?」
「そうかもしれないね。猫、怜くんのこと、見てる? おめめは何色……?」
「黄色。お耳はさわってもいい?」
「お耳も駄目。蔵にあるものはさわったら駄目って、パパに言われているだろう? お約束を守れないなら、もう蔵には入れてあげない」
「いやっ。怜くん蔵が好きっ。さわらない、さわらないからぁっ、怜くんは見るだけだからぁっ」
「そうそう、見るだけ。いい子だね、怜くんは。だから静かにして、ね?」
 優しく怜一に言って聞かせ、まどかは小さな溜め息をついた。怜一を蔵に入れるのは今日で三回目だ。初めて怜一を蔵に入れた時から、おかしな言動をした。李朝(りちよう)の絵皿に描かれた唐子(からこ)に手を振ってニコニコしたり、能面に向かって、お兄ちゃんは怜くんのお兄ちゃんだからあげないの、と言って泣きだしたり。子供には見えるアレだろうか、と思ったまどかは、怜一の言動を叱ったり否定したりはせず、このことはお兄ちゃんと怜くんだけの秘密だよ、と言って聞かせたのだ。
「パパもママもお友達も、絵が動いたり、お面が喋(しやべ)ったり、そういうのは見えないんだ。だから人じゃないものが動いたり喋ったりしても、内緒にしておくんだよ? いいね?」
「うん。いつも動かないよ、お兄ちゃんがいる時に動くの」
「そうなの? お兄ちゃんがいる時だけ?」
「うん。お兄ちゃんがいない時は、あんまり動かない」
「そうなのか……」
 それはどうしてだろうとまどかは不思議に思ったが、とりあえずは両親の前や幼稚園ではおかしなことを言っていないはずだと思って安堵(あんど)した。しゃがんで、怜一と視線の高さを合わせてまどかは言った。
「怜くんとお兄ちゃんだけの秘密ね。パパにもママにも内緒だよ?」
「秘密っ」
 怜一は目を輝かせた。秘密が大好きな年頃ということもあるし、大好きなお兄ちゃんを秘密の共有という形で独り占めできるしで、怜一はまどかの提案に大きくうなずいた。
「怜くん、誰にも言わないよ。怜くんとお兄ちゃんの秘密」
「うん。お兄ちゃんも誰にも言わない。二人だけの秘密だ」
「うんっ」
 怜一はにっこりと笑った。その笑顔を見たまどかの顔がふにゃっと崩れる。自分でも相当なブラコンだと思うが、怜一ほど可愛い子供はこの世にいないと思うのだ。なにしろ顔はお人形さんみたいだし、可愛いので甘やかしてしまって少しわがままだが、公共の場所でのマナーはちゃんと守れるし、パパやママの前では地団駄(じだんだ)踏んでギャン泣きして我(が)を通そうとするが、まどかが駄目な理由を話して聞かせると、納得するのか泣きやんでいい子になるのもすこぶる可愛い。怜一はまどかの言うことなら聞くんだから、とパパやママが呆(あき)れて言うが、それがものすごく嬉しくて、誇らしく思えた。
 そのためには怜一のお手本でいなければならないと思ったし、可愛い可愛い怜一をあらゆることから自分が守ってやるんだとも思った。
(だから変なものが見えるなんて外で言わせちゃ駄目だ。そんなこと言ったら怜一がいじめられる)
 もしも怜一がいじめられたら、いじめっ子をぶっ飛ばしてしまいそうで、そんな自分がちょっと怖いとまどかは思う。
 今日は七宝の猫が動いちゃったのかぁ、と若干疲れながら怜一の手を引いて蔵を出ると、怜一が中庭のほうを指差した。
「お魚見たい」
「うん、見に行こうか」
 銀木犀(ぎんもくせい)のいい香りがする中庭を歩いて池に向かった。池への転落を恐れる両親から、一人でお魚を見に行ってはいけないと厳しく言われている怜一は、いつもまどかと一緒に池の鯉(こい)を見る。怜一が池を覗(のぞ)きこむと、鯉が浮き上がってきてパクパクと口を開けてくれる。それを見るのが怜一は大好きだ。
「お魚のお口、可愛いねー」
「うん、可愛いな」
「ごはんあげる?」
「まだごはんの時間じゃないよ。あとでジージとごはんをあげなよ」
 うん、と素直にうなずいた怜一は、ふと、池の向こう岸の石蕗(つわぶき)の葉陰から、小さなおじさんが手招きしていることに気づいた。ニコニコ、ニコニコして怜一を呼んでいる。怜一もニッコリ笑って立ち上がった。
「怜くんのこと呼んでる。遊ぼうだって」
「……誰が呼んでるの?」
「知らないおじさん」
 怜一が葉陰を指差す。まどかは怜一を抱き寄せて尋(たず)ねた。
「遊ぼうって言ってる?」
「言ってないよ。おいでおいでしてる」
「怜くん。知らない人についていったら駄目って、いつも言ってるだろ? おいでおいでされても、行ったら駄目なんだよ」
「うん、怜くん行かない。……怜くんは行かないよ。行かないよ」
 怜一が小さいおじさんに言っても、おじさんはやっぱりニコニコしながら怜一を手招きするのだ。自分の意志が通じないもどかしさと、行かないと言っているのにしつこく呼び続けるおじさんへの怖さで、怜一は泣きだした。驚いたまどかにギュウと抱きしめられながら、怜一は訴えた。
「怜くん、行かないって、言ったのに…っ」
「わかってるよ、わかってる、怜くんはちゃんと言えて偉かったよ。大丈夫、お兄ちゃんが言うから」
 まどかは怜一が指差していた葉陰を正確に見つめ、自分には見えない小さなおじさんに向けて、ゾッとするほど冷たい目で言った。
「怜一を呼ぶな。僕の可愛い怜一だ。今度そっちへ呼ぶような真似をしたら、ウチに住めなくしてやるぞ」
 まどかがそう言ったとたん、小さなおじさんは、まるでまどかの視線の力で突き飛ばされたとでもいうように尻餅をつくと、大慌てで石蕗の奥へ逃げこんだのだ。それが怜一には見えている。すごぉい、と思い、泣いていた顔をもう笑わせて、まどかを見た。
「おじさん、行っちゃったっ、お兄ちゃん、すごぉいっ」
「逃げたか、よかった。大丈夫だよ、怜くん。お兄ちゃんがいるからね」
「うん」
 強いお兄ちゃんがカッコよくて、怜一はとろけるような笑みでキュウゥとまどかに抱きついた。あああぁ可愛いっ、とメロメロになったまどかも怜一を抱きしめ、約束をした。
「怜くんのことはお兄ちゃんが絶対守ってあげるからね。怖いことやいやなことがあったら、すぐにお兄ちゃんに言ってね」
「うん。怜くんもお兄ちゃんがいるから怖くない」
 なにしろ自分の言うことなど聞いてもくれなかった小さいおじさんを、まどかは簡単に追い払ってくれたのだ。
 お兄ちゃんがいれば大丈夫。
 怜一は心底からそう思い、安心してまどかに抱っこしてもらった。
「お兄ちゃん、大好きー」
「お兄ちゃんも怜くんが大好きだよ」
「怜くんが一番好き?」
「うん。怜くんが一番大好き」
 まどかにそう言ってもらい、怜一はまどかを骨抜きにする愛らしい笑顔でまどかの首に抱きついた。ママよりも優しくてパパよりも遊んでくれるお兄ちゃんに、一番好き、と言ってもらえることが、なによりも嬉しかった。怜一もお兄ちゃんが大好きで大好きで大好きだ。
 怜一五歳、まどか十二歳。子供たちは互いで互いを、世界で一番大好き、と思っていた。


   **


 どこからともなく、藤の甘い香りが漂ってくる。
 老舗(しにせ)質屋『藤屋(ふじや)』の狭い帳場に座り、年季の入った帳場机に寄りかかったまま、葉山(はやま)怜一はうっとりとほほえんだ。
「いい匂いだねぇ……」
 口調までうっとりと、そしておっとりと呟く。怜一はつい先月、二十四歳になったばかりだが、四代目として創業百年の『藤屋』を継いで、一年になる。都心から電車で三十分ばかりのこのあたりは、戦前から文化人や裕福な家の別邸などがあり、幸いにも空襲に遭(あ)わなかったおかげで、現在でもお屋敷と呼べるほどの家々が立ち並んでいる、まごうかたなき高級住宅街だ。
 そんな住宅街の、細く曲がりくねった脇道を少し行ったところに『藤屋』はある。怜一が生まれ育った家の、裏の一角に店を構えているわけだが、祖父の代に一度建てなおしているこの家は、映画のロケにでも使えそうなほど広い日本家屋だ。昔は使用人にも食事と風呂を提供していたので、使用人用の台所と食事用の部屋、風呂、住みこみの使用人用の部屋がいくつかあり、それとはべつに、主一家の部屋や茶の間、居間、台所と風呂に広間があるのだ。古い蔵が二つと新しい蔵が一つ建っている庭も、ともかく広い。昭和の大きな商家がそっくりそのまま、存在しているのだった。
 またふわりと藤の香りが漂って、怜一はふふと笑った。
「この季節が一番いい……」
 のんびりと呟いた怜一は、この木と紙でできた家にぴったりとはまる風情(ふぜい)をしている。真っすぐな漆黒の髪。右手でペンを扱うため、空いた左手で髪をかき上げるのだが、その癖が前髪についてしまっている。少し女性的な柔らかな弧を描く眉と、黒目の大きなおっとりとした目。男にしては小さな唇は、色気はないが、代わりに品がある。おっとり、のんびりしていて、大切に育てられた良い家のお坊っちゃんが、そのまま大人になってしまったような男だ。
 怜一は一人っ子だが、兄同然に慕い、ともに暮らしてきた七つ年上の男がいるせいで、どうも甘やかされて育った末っ子のような雰囲気がある。
「怜一」
「……うん?」
 名前を呼ばれてのんびりと振り返った怜一は、兄同然の男・折原(おりはら)まどかの秀麗な美貌を認めて、嬉しそうにほほえんだ。まどかは髪も目も黒いし、肌の色も日本人らしい薄いバター色をしているが、深い二重や鼻梁(びりょう)の通った高く形のいい鼻は、親か祖父母あたりが日本よりずっと西の国の人なのではないかと思わせる。老舗質屋の大番頭らしく、きちんと整髪剤で髪を整えてはいるものの、忙しいとはらりと前髪が一房落ちることがあって、そんな時にふと漂う色気に怜一は弱い。まどかは怜一の父親の知り合いの子供で、怜一が生まれる前からこの家で暮らしている。
 母屋(おもや)に続く間口に立っているまどかと、視線が絡む。まどかの眼差(まなざ)しが、隠しようもなく甘い。自分にだけ向けられる、熱を帯びた眼差しだ。
(まどかの場合、目は口よりも、ものを言う)
 怜一は、ふふ、と小さく微笑した。この眼差しの意味を、まどかが決して口にしないことを怜一は知っている。言わなくても、伝わっちゃってるけどね、と思いながら、怜一は子供のように首を傾げた。
「なに、まどか。……あ、お昼?」
「それもあるけど、これ、見てもらおうと思って」
「ん? 腕時計?」
 まどかから腕時計を手渡され、受け取った怜一は、とたんに眉をひそめた。
(うわぁ、これはひどい……)
 高級腕時計の代名詞でもあるブランドの、紳士用腕時計だった。安定した人気のある型だし、パッと見た感じ、大きな傷も汚れもない。買い取って売りに出せる良いレベルだ。だが、これは駄目だと思った。
(黒い靄(もや)みたいな煙みたいな……、いわゆる瘴気(しようき)ってやつかな……)
 それが時計全体からゆらゆらと立ち上っているだけならまだしも、ベルトにも時計部分にも赤錆(あかさび)のような色のなにかがべったりとまとわりつき、しかもそれが生きもののように蠢(うごめ)き、時計の上をはいずり回っているのだ。誰が見ても、どう見ても、不吉な品だ。怜一は久しぶりにゾッと背筋を寒くして、言った。
「これは駄目だね。なにかよくない因縁(いんねん)があるみたい」
「やっぱりか。持ちこんだお客の様子がどうもおかしかったんだ。盗品を疑ったけどそうじゃなかったし、だけどこの時計を持つにはふさわしくない身なりに口調、素振りで。だから怜一にも見てもらおうと思って持ってきた」
「うん、お返しして。ウチじゃなくても、斜め向かいのリサイクルショップが買うでしょ」
『藤屋』は質店のほかに、家から徒歩十五分の駅前にもリサイクルショップ『ウィステリア』を構えている。自店で質流れになった品や、質屋組合の市で仕入れてきた品、あるいはこの時計のように、買取を希望する客に持ちこまれた品などを販売している。まどかはそのリサイクルショップの運営を主に担っているのだ。
 まどかに不気味な腕時計を返した怜一は、時計にまとわりついている赤錆のようなものが手にもついてしまった気がして、気持ちが悪くてシャツでごしごしと手のひらをこすった。気づいたまどかが、眉を寄せて尋ねてくる。
「なに。手、どうかしたのか」
「うーん、その赤錆みたいなものがさぁ、手にくっついちゃった気がして」
「……え」
「まどかはよく平気で持っていられるね」
「……」
 怜一がニッコリと笑って言うと、まどかはとたんに顔を強ばらせて、持っていたバッグに腕時計を放りこんだ。
「買取は、絶対に、断らせる」
「それがいいよね。これはいくらなんでも……ねぇ?」
「ああ……、うん……」
「それにしても、まどかはすごいねぇ。こういうのって、子供の時だけってよく聞くけどさぁ」
「こういうのって?」
「だから、霊感? 特殊能力っていうの? そういう、なんか、憑(つ)いてるものが見えるってやつ。大人になったら消えちゃうってよく聞くじゃない。まどかはもう三十一なのに、健在だよね、その能力」
「いや、だから、それはな、怜一。おまえだよ」
 まどかは苦笑しながら言った。なにが? と首を傾げる怜一に、また苦笑をしてまどかは答えた。
「霊感があるのは、おまえだってこと。俺にはないんだ、そういう能力は」
「いつもそう言うよね。べつに隠さなくてもいいじゃない。僕しか知らないことなんだし」
「隠していない。嘘もついていない。霊感があるのは怜一だ」
 まどかが小さくククッと笑うので、まあ隠しておきたいならそれでもいいけど、と怜一も微笑した。
(だけど絶対、まどかにはそういう力があるんだ)
 なにしろまどかがそばにいる時だけ、品が放つ雰囲気というかオーラというか、そういうものが見えるのだ。今日の赤錆のようなものも不気味だが、品に憑いてきた怨霊というか亡霊というか、そういうものも一度ならず見ている。決まってまどかがそばにいる時だ。
(まどかの霊感が、僕にも波及しているんだよねぇ)
 それだけまどかのパワーが強いんだと思い、うんうんとうなずいた怜一は、まどかがリサイクルショップに戻らず、まだそこに突っ立っていることを怪訝(けげん)に思った。
「まどか……?」
 見上げると、熱くて甘いまどかの眼差しにぶつかった。可愛い可愛い、欲しい、自分のものにしたい……、そんな気持ちがダダ漏れている眼差しだ。学生時代、意中の女子学生をこんな目で見ていた級友たちを何人も見てきたから、すぐにわかる。ただセックスがしたいという動物的な欲望ではなく、相手が愛しくて愛しくて、自分だけを見てもらいたいと熱望する眼差しだ。好きな相手には、男はみんなこういう目をするんだなぁと冷静に思っていると、まどかがハッとしたように視線を外して言った。
「お昼、もうできてるんだ。俺は先にすませたから、怜一も食べておいで。店番、代わるから」
「ああ、いや、もう伊作(いさく)さんが来るだろうから、店番の心配はいらないよ」
「ああ……、伊作さんが来る時間か」
「うん。そうじゃなくても、まどかにはちゃんと休憩を取ってもらわないと困るよ。大番頭さんに倒れでもされたら、たちまちウチは回らなくなるし」
「怜一……。若旦那がそんなことを言っていたら、ほかの従業員に示しがつかないだろう。『藤屋』の主人はおまえなんだぞ」
 威張(いば)れとは言わないが堂々としていてくれ、と言ってまどかが溜め息をこぼしたところで、伊作が出勤してきた。
 伊作は五年前まで『藤屋』で大番頭を務めていた男で、そろそろ六十になる、いかにも商家の元大番頭といった風情の、柔和(にゆうわ)な顔と物腰を持つ男だ。伊作は怜一とまどかの二人が揃っている様子を認めると、目を細めてにっこりと笑った。
「おはようございます、坊っちゃん。まどかさんも。今日はまどかさんも一緒に店番ですか」
「ああ、いえ、まどかは駅前店に持ちこまれた品を見せに来てくれただけです」
「ほう。盗品ですか」
「そうではないんだけれど、どうにもよくない品で。まどかはちょうど休憩時間で戻ってきたところで、僕もお昼を食べてこようと思うんです。交替まで十分ばかり早いんだけれど、いいですか」
「ああ、はいはい、どうぞ。ここはお任せくださって、坊っちゃんはお昼を召し上がってください」
「やだなぁ。もう坊っちゃんて歳じゃないですよ」
 ふふふ、と笑い、怜一は帳場を伊作に譲(ゆず)った。まどか、行こう、と母屋へ促すと、まどかは、いや、と首を振った。
「せっかくだから、伊作さんの仕事を見せていただこうかと思って」
「まどか? 伊作さんの仕事を見るって……」
「俺の前に何十年も『藤屋』で大番頭を務めてきた伊作さんだ。まだ学ぶことも多いと思うし」
 まどかの声も、表情も、硬い。怜一はふふふと笑うと、朗(ほが)らかに言った。
「真面目だねぇ。ちゃんと休憩取ってからならいいよ。代わりに午後からは僕が駅前店に入るから」
「いやいや、坊っちゃん。まどかさんも」
 伊作が驚いた表情をして、手やら顔やらを振り、怜一が小さく噴いてしまうほど恐縮しながら言った。
「そんなわたしなど、わざわざまどかさんに見ていただくような仕事はしておりませんから。今はわたしがまどかさんにいろいろと教えていただきたいくらいですとも」
「そんなことはないでしょう」
 まどかが冷たい声で言った。
「俺なんかよりよほど経験があるんだから」
「とんでもないですよ。まどかさんはわたしなんかを立ててくださる気持ちでいるのでしょうけども、本当にお気遣いなく、どうぞ、休憩に入ってくださいな」
「……そうですか? 残念だな。それとも俺には見せたくないような仕事をしているんですか」
「いえいえ、本当にもう、骨董(こつとう)などの目利きの力が落ちておりましてね、何年も質屋の帳場から離れておりましたから、ええ本当に。なんのお役にも立てなくてすみませんです」
 小さくなってひたすら恐縮する伊作だが、まどかの態度は硬く、表情も険しいままだ。困ったな、と怜一は思いながら、なだめるようにそっとまどかの腕に手をかけると、穏やかに言った。
「伊作さんの言うとおりだよ。まどかはもう立派な大番頭なんだから、自信を持ってよ」
「……」
「それにほら、昔はどうあれ、今はまどかが大番頭で、伊作さんはアルバイトだよ。そういう立場的なものもあるしさ」
「……立場ね」
 まどかは小さく鼻を鳴らしたものの、やっとうなずいてくれた。怜一は内心でホッと溜め息をこぼし、それじゃ店番、お願いしますと伊作に言って、まどかを連れて、母屋へと廊下を歩いた。
 お手伝いさんの手でピカピカに磨(みが)き上げられた廊下が続く縁側からは、ガラス戸越しに広い庭が見渡せる。ちょっとした池に半ばかかるように藤棚が設置されていて、たっぷりと重たいほどに咲いている花が、池面にも映っていて見事に美しい。この季節、毎日見ても見飽きない光景に、ほう、と吐息をこぼした怜一の背後で、まどかが不愉快そうに低く言った。
「坊っちゃんだなんて、舐めたことを言って」
「うん? 伊作さん? まあ僕が生まれた時から知っているんだし、彼からすれば、僕はいつまで経っても坊っちゃんなんでしょ」
「失礼だ。俺たちも、怜一が若いから若旦那と呼んでいるけど、実際は旦那だ。この『藤屋』の主人だ。その主人に向かって坊っちゃんだなんて」
「まぁいいじゃない。お客やほかの従業員の前では、僕を若旦那と呼んで立ててくれているんだし」
「そんなことは当たり前だ」
 まどかは不機嫌に低い声で言う。怜一はもう一度心の中で溜め息をこぼした。
(坊っちゃんという呼び方……、というか、伊作さんの僕への認識が気に入らないんだろうなぁ……)
 それこそ、立場的なことで言えば、バイト風情が主人を坊っちゃん呼ばわりすることは許しがたいだろう。兄同然のまどか自身が、仕事の場では必ず怜一を若旦那と呼んでいるのだ。
(伊作さんはまどかのことも小さい頃から知っているし、そのへんで、こう言ったらなんだけど、公私の別がつかなくなってしまうんだろうな)
 ともかくも、ほかの従業員だけではなく、まどかの前でも、自分を坊っちゃんと呼ぶことは控えてくれと言ったほうがいいよね、と怜一は思った。
 駅前店は午後九時まで営業しているが、質屋のほうは午後七時で店を仕舞(しま)う。暖簾(のれん)を下ろし、出入口にも鍵をかけてから、怜一は伊作と二人で帳場で帳簿を付ける。品を預かった日付や、品はなにか、数はいくつか、品の特徴。それから預けに来た客の住所氏名に年齢や職業、客の特徴まで書き記す。本人確認は免許証か保険証かまで記入するし、品が流れる日付も書く。あるいは、本日が契約終了日なのに品を引き取りに来なかった……つまり流れた品についても、品名や数量、預けた客の個人情報を記す。品が流れて一年後などに、こんな盗品を探していると警察から品ぶれが回ってきたりするので、帳面を見ればどんな品を扱ったのか、さっとわかるようにしておかなければならないのだ。
「このバッグ、引き取りに来ませんでしたねぇ」
 伊作が高級バッグの代名詞であるブランドのバッグを見て苦笑をした。怜一は、うん、とのんびりとうなずいた。
「もったいないよね。元は五十万だものね。まあそれを二万でもいいって置いていったんだし、自分で買ったものじゃないんでしょう」
「ええ。……しかしこれは、駅前店でも売れますかねぇ、なにしろ流行遅れですしね」
「このブランドならなんでもいいというお客さんもいるし。僕は思うんだけど、カチッとした麻のワンピースを着てもらってさ、これを持ったらいい感じじゃないかなと。流行に関係なく、品があるバッグだものね。あ、そういうプロデュースもありだよねぇ、セレクトショップみたいに見せてさ。まどかに相談してみよう」
「新店を出すんですか」
「うん、だからまどかに相談してみてね」
「ああほら、駅の向こう側に弁天堂(べんてんどう)さんのブテックがございましたよね。あんな感じで?」
「あの店ね。言っちゃ悪いけど中途半端でしょ、街中の衣料品店みたいでさぁ。やるならウチは、高級路線でやりたいな。扱ってる品が同じようなものなら、綺麗(きれい)なお店のほうに女性は行きたいと思うでしょ」
 ははあ、と感心したようにうなずく伊作に、ふふ、と小さく笑ったところで、まどかがやってきた。
「怜一、夕食ができた」
「うん、もう少しで帳面付けが終わるから」
「代わるよ。あったかいうちに食べておいで」
 まどかが慈(いつく)しむ眼差しで怜一を見つめて言うと、伊作がにっこりと笑って言った。
「帳面もあと少しですし、わたしが付けておきますから、どうぞ坊っちゃんは上がってください。大番頭さんも」
「あと少しなら俺がやります。伊作さんこそもう上がってください」
 そう言ったまどかの声は、硬く、伊作を気遣うというものではない。伊作は少し困ったような表情を見せたが、そうですか、とまどかに頭を下げた。
「それではよろしくお願いします。坊っちゃん、お先に上がらせていただきます」
 伊作は怜一にも頭を下げると、私物などを置いている使用人用の支度部屋へと足を向けた。
 母屋の茶の間へ戻った怜一は、お手伝いさんが作ってくれた夕食を卓袱台(ちやぶだい)に並べてくれるまどかが、やっぱり不機嫌な表情をしていることを認めると、上目遣いに尋ねた。
「まどかは……、伊作さんを雇ったこと、まだ怒ってるの……?」
「怒っていないよ」
 まどかは静かに答えた。けれどそれは嘘だと怜一にはわかる。まどかはいつも怜一に本音を言わない。
(…まどかが、誰が好き、彼は嫌い、なんて言っているのを聞いたことがないし)
 内心では相手をどう思っていようが、好き嫌いという感情で他人への態度を変えたりなどはしないのがまどかだ。それなのに、伊作に対してだけはあからさまにいやな言動を取る。誰が見ても、まどかが伊作を嫌っていることは丸わかりだ。でもそれが、どうしてなのか怜一にはわからない。
(伊作さんは穏やかで親切で、いい人なのになぁ……)
 怜一の向かいに座って、残りの帳面を付けているまどかをチラリと見て、軽く溜め息をついた。そうっとお味噌汁を口に運んで考える。
(伊作さんは何十年も父さんの下で大番頭を務めてた人だし、父さんだって伊作さんをすごく信頼していたし……)
 まどか自身、高校を卒業して見習いとして『藤屋』に就職した時は、伊作に仕事を教わっていた。その頃はとても良好な関係に見えた。
(僕だって、小さい頃はすごく可愛がってもらったし、反抗期の時なんか、バカ丸出しで親の悪口を言う僕を、そうかそうかって言いながら、ずっと聞いて受けとめてくれたし……)
 だから、伊作が店を辞めてしまった時は、本当に寂しかった。
(それがまた、戻ってきてくれて、僕は嬉しいんだけど……)
 怜一は溜め息をついた。

 事の発端(ほつたん)は、一年前、怜一の両親が事故で亡くなったことだった。
 大学を卒業した怜一は、昔から家族ぐるみで親しくしている老舗質屋『三ノ輪(みのわ)』で、二年間、修業をさせてもらうことにした。住みこみで、とお願いしたのも怜一だ。実家からの通いだと甘えや愚痴(ぐち)が出てしまう。働くとはどういうことかを体に叩きこみたかったから、あえて逃げ場のない住みこみにして、他人の家を間借りし、他人の家の飯を食うという状況に自分を追いこんだ。とはいっても『三ノ輪』を経営している古部(ふるべ)の家とは懇意だから、感覚としては親戚の家に居候(いそうろう)をしているようなもので、その点は甘いよなと怜一もわかっていた。
 修業といっても怜一は質屋の子なので、一から教えてもらうわけではない。目利きは毎日勉強させてもらったが、古部のご主人がもっぱら怜一に経験させたのは、質屋業界での市や競(せ)りだ。静かなのだが、参加者の目つきが鋭くて、ぴんと張りつめた独特の雰囲気があるので、馴れていないと怖じ気づいてしまう。また値段の駆け引きなどは目利きの程度を競う、いわば勝負の場なので、自分の目利きに自信がなければ大損をするということも教わった。古部はそうしたものに馴れさせることと同時に、業界内での顔繋ぎ、つまりこの小僧が『藤屋』の若旦那ですよ、よしなに、と紹介もしてくれた。またべつの日は古道具市に連れていってくれたり、個人の家の物入れから出てきた古道具の引き取りにも同行させてくれた。
 そうして期限の二年を迎えようとしていた頃だった。
 従業員控え室で昼食の仕出しの弁当を食べ終え、今にも故障しそうな給茶器でお茶をいれていた時だ。出入口のドアが乱暴に開いたかと思うや、古部が血相を変えて飛びこんできた。
「怜一くん、大変だっ、おと、お父さんとお母さんが事故に遭ったっ」
「え……」
「早く、早くっ! 病院に、病院にっ」
「は……、はい……」
 手に持っていた紙コップのお茶を、そうとは気づかずに落としていた。
 古部の車で、実家から車で十分の場所にある病院に駆けつけた。ロビーで待っていたまどかに肩を抱かれて病室へ行く。母親はあらゆる機械に囲まれ、頭に包帯も巻いて、ベッドに横たわっていた。
「母さん……、母さん……?」
 なぜか、近くに行くことができなかった。まどかがベッドの横に椅子を用意してくれ、促されるままそこに腰かけた。自然と目に入った母親は、穏やかな表情で眠っていた。なにも考えずしばらく母親を見つめていた怜一は、それからぼんやりと室内に視線をめぐらせた。母親が眠っているベッドが一つ。すぐ横にテーブル代わりにもなる引き出し棚がある。ドアの近くにソファセット。壁際に簡易ロッカー。ああ個室なのかと思った。母親しかいないことも。
「まどか……、父さんは……」
「……べつの部屋に、いる」
「連れてって……、会いたい……」
「怜一。おじさんは、地下の部屋にいるんだ。霊安室に、いるんだ」
「霊安室……? どうして……」
 呟いたと同時に、意味を理解した。一気に血の気が下がった。脳貧血を起こし、腰かけていた椅子から崩れ落ちそうになった。
「怜一…っ」