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 子連れ狼と恋の牙
 番外編SS《1》
 番外編SS《2》
あとがき
 子連れ狼と恋の牙


   プロローグ


 なにもかも、上手くいかないことばかりだ。
 キャリアの警察官僚として採用され、三ヶ月間の研修期間を終えて都下の所轄に配属されたばかりの新米警部補、小美野弓緒は早速ジレンマにぶつかっていた。
 弓緒は今、ある殺人事件の捜査に携わっている。
 殺人事件の捜査に関わるのは、これで二件め。今回の被害者は暴力団とつながりのある、フロント企業の社長だった。
 そして、疑われているのはそのフロント企業に資金を提供していると言われている、暴力団の構成員だった。
 けれども、弓緒には捜査の筋が間違っているように感じられていた。
 客観的に証拠を検討すると、捜査本部が犯人として目星をつけている暴力団組員につながっていかないのだ。
 けれども、そう意見しても聞き入れてもらえなかった。
 せめて、もう一度証拠を再検討してもいいのではないか、暴力団関係者が犯人ではない可能性を考えてみてもいいのではないかと、可能性のひとつとして意見を述べているのだが。
 もちろん、経験がない若造の言うことなんて、たとえ階級は上でも聞けないと言われてしまえばそれまでだ。でも、自分なりに証拠を精査したつもりでいた。
 それに、犯人と目されている暴力団関係者にあるのは状況証拠だけで、いまだ物証はない。これでは、公判を維持することもできないだろう。
 だからこそ、一度冷静になってみてもいいのではと、弓緒自身は思っていた。
 しかし、その意見に同調してくれる人はいない。
 同じキャリアの上司には出しゃばらないほうが今後のためだと諭されて、階級は下でも年上の刑事たちには、現場を知らないくせに生意気だと陰口を叩かれている。
 たとえ若造だろうが、現場を知らなかろうが、せっかく残されている証拠があるのだから、精査しようとすることはできる。その結果を述べているのに、省みられない。
 それどころか、捜査本部の考えている事件のシナリオと矛盾することから、余計なことをするひよっこという扱いをされていた。
 組織の歯車として、不適当だと。
 いや、周囲にどう言われたってよかった。
 問題は、事件が解決から遠のいていくことだ。
 人を殺した犯罪者が大手を振って闊歩しているのに、いまだ逮捕できない。
 証拠を丹念に探っていけば、ひとりの人物を指しているとしか思えない。そして、その人物は、暴力団関係者ではなかった。
 自分たちは犯罪者につながる糸を辿ろうとしているはずだが、寄り道ばかりしているのではないかという気がする。そして、見当違いの場所を疑っているように感じられた。

 そして、今も。
 目の前では、部下であり先輩である刑事が、誘導尋問じみた難詰を行っている。
 弓緒は、その刑事と一緒に、今、暴力団の事務所に来ていた。
 最初は若手組員に対応されて、かなり激しい言葉の応酬が続いていたが、たまたま都内の本部から来たとかいう幹部が彼のかわりに出てきた。
 そのとたん、警察側のほうの分が悪くなった。強引に、事情聴取に被疑者を引っ張れないような雰囲気になってしまったのだ。
 最初に出てきた組員と、交代した幹部とでは、まったく役者が違う。高圧的で、わざと相手が感情的になるように仕向けている圧迫的な事情聴取も、のらりくらりとかわしていた。
 彼は、関屋と名乗った。
 一緒についてきている、暴力団対策専門の刑事が目を輝かせたところからして、どうやら大物らしい。
 俄然、警察側の食いつきはよくなる。
 それなのに、なかなか関屋は言質を取らせようとしなかった。
 思いどおりにいかない展開に焦れたのか、刑事の口から出る言葉も少しずつ荒くなりはじめた。

 彼らが犯人とは限らないのに、なにがなんでも犯人にしたいようにも見える。
 ――本当に、これでいいんだろうか。
 この疑問を懐くのは、いったい何回目だろう。
 暴力団というのは、社会に迷惑をかけている存在だ。
 寄生虫という人もいる。
 それは、もっともなのかもしれない。
 しかし、今自分たちがしているのは、殺人事件の捜査だ。それなのに、ろくに現場や証拠を精査せず、場当たり的に暴力団の構成員を尋問しているだけ。そして、特に成果もないまま、時間は無情に流れていく。
 事件が起こって、もう二週間も経ってしまっている。
 それなのに、なにも進展が見えない。
 難癖をつけて言質を取ろうとするやり方は、焦っている証拠なのかもしれない。
 現場には豊富な物証が残されていたのにも関わらず、依然犯人につながらないことを、上から所轄が責められていた。
 焦る気持ちはわかる。
 それに、短絡的な回答が魅力的に見えるのだって理解できる。
 だからといって、今の同僚たちのやり方は受け入れがたいものだった。
 疑問を解消できないまま、捜査に携わっている。自分が間違いだと思っていることに従ってなにかをするのが、こんなに辛いこととは思わなかった。
 けれども、組織の一員だから、組織の方針に従うしかないのだろうか。――犯人は、玄人とは限らないのに。
 被害者は、暴力団とつながりのある会社の社長だ。だから、暴力団の周辺が怪しいということは、理屈としては理解できる。
 捜査の対象には、するべきだろう。
 こういう事件の、セオリーでもある。
 でも、最初からそれ以外の可能性を排除して、見込み捜査をしている捜査本部の現在の体制には、疑問を懐かずにはいられなかった。
 現場の状況や残された証拠から、暴力団関係者が犯人だとは思っていないから、よけいに。
「こちらとしては、好きに捜査してくれとしか言えませんね」
 刑事と押し問答を続けているにもかかわらず、関屋はいっそ爽やかな笑顔を見せる。
 自分よりも、彼は十歳ほど年上だろうか。
 背は一九〇センチくらいありそうだ。よく鍛えているらしく、身幅もあった。ビジネススーツを着こなした彼は、一見暴力団員には見えなかった。
 けれども、人の上に立っている人間の風格が滲むゆえか、普通の会社員にも見えない。どちらかといえば、若手の経営者風。それも、流行のIT企業あたりの。
 着ているものは、とても仕立てがよさそうだ。それを嫌味なく着こなしている。目元に漂うそこはかとない知性が、その服装と彼をしっくりと馴染ませていた。
 ヤクザの下っ端にありがちな、すさまじいセンスの服装じゃないだけで、掴みどころのないうさんくささが失せる。
 第一印象は大事だ。
「ま、疑われても仕方のない立場ですしね。ご協力しますよ。で、うちの誰の話を聞きたいとおっしゃるんでしょうか。目星がついているというのなら、この事務所のものに自分が話をつけましょう」
 おおらかとも言えるが、単に人を食ったような態度ともとれる。同じヤクザとはいえ、下っ端と幹部にまでなる男では、器が違うのだろう。
「小美野警部補、事情聴取しましょう」
 刑事にせっつかれて、思わずため息をついてしまう。
 この刑事は、捜査本部の中でも暴力団員が犯人に違いないと、なかば決めてかかっていた。だから、事情聴取にも積極的だ。
「……わかりました」
 小さく頷いて、弓緒は関屋という男に頭を下げる。
「ご協力いただけるというお言葉、感謝します。提供していただいた情報は、有益に使わせていただきますので。少しお時間をいただけますか?」
「……へえ?」
 関屋は、眉を上げた。
「任意同行するんじゃないんですか?」
「関係者として、お話を伺うだけです」
 そう言うと、刑事が隣でいきり立つ。
 なにをぬるいことを言っているのか、と。
 でも、知るものか。
「見込み捜査は、真実を遠ざけます。……いただいた情報を、精査する必要があるでしょう」
 腹を決めて、口にする。
 刑事に対して、当てこすりみたいになってしまっただろうか。傍らで、怒気が膨れあがる。
 これで弓緒は、今まで以上に捜査本部内で煙たがれることになるかもしれない。
 立場が悪くなると、同じキャリア警察官である上司にも叱責されるだろうか。
 けれども、どうしても言わずにいられなかった。
 これ以上、間違った捜査を傍観していたくない。
 それに弓緒は、警察官は事件の証拠に対して素直であるべきだと思っている。そうすることが、真実につながる道だと信じているからだ。
 弓緒は、事件を解決したい一心だった。
「そのためにも、ご協力ください。無実の人を疑わずにすむように」
 あくまで協力要請という体裁をとると、関屋は小さく頷いた。
 彼は、じっと弓緒を見つめる。
 そして、思いがけないほど柔らかな表情になった。
「刑事さん。名前、教えてもらえるか?」
「小美野弓緒です」
「俺は、関屋貴樹。よろしくな」
 笑いかけてくると、少し目尻が下がる。いたずらな少年を連想させる表情に、思わず笑みを誘われた。
 ……事件は捜査の方向に軌道修正を加えた結果、事件は二ヶ月後に解決した。
 犯人は、被害者の愛人だった。

   *  *  *

 都下の所轄での実務期間をこなした後、警察庁での勤務を終え、警視庁本部への異動が決まったのは、三年後のことだ。
 関屋との再会は、異動の数ヶ月後、新宿の殺人事件を捜査していたときのこと。たまたま起こった暴力団絡みの事件で、彼の組の本部事務所へと赴いたからだ。
 一牙会、という名を、弓緒はよく覚えていた。
 初めて出会ったとき、真っ直ぐに向けられた視線が、それほど印象的だったから。
 そのころ弓緒は、「カタブツすぎて、理想主義。生真面目なのかもしれないが、原理原則を重視しすぎて使えない」という判断を警視庁内で下されていた。
 そして当然のように、刑事部からは離れられないだろうと目されていた。
 将来的には、部内の閑職を転々とするのがふさわしい、と。
 刑事部は、警視庁内では実は立場が弱い。警備部や公安部の下に置かれている。けれども、刑事部で事件に接することができるのが、弓緒は嬉しかった。
 煙たがられた結果だと、わかってはいても。
 ……自分の信じるとおりに行動する。さもないと後悔するというのは、新人のときに携わった事件で学んだ。
 関屋に会った、あのときの。
 周りの批判にくじけそうになるたびに、それを思いだす。そして、自分を鼓舞しながら仕事をしていた。
 それなりの理想もプライドも失わず、これからも刑事を続けていくために。
「ああ、あのときの警部補さん」
 懐かしそうに目を細められ、関屋は気さくに話しかけてきた。
 暴力団関係者の、特に上のほうの人間にはこういうタイプが多かった。
 あの頃よりは場数を踏んだ今、その笑顔をそのまま受け取ったりはしない。けれども、関屋の笑顔には、惹きつけられるような魅力があった。
「今は警視です」
 手帳を見せながら言うと、関屋は笑みを深くした。
「ああ、そうか。キャリアさんか。そのわりには、地回りによく出ているな」
「……足で拾わないと、情報は集められませんから」
 そう言うと、関屋は意外そうな顔になる。
 キャリアはあまり現場に出ないし、現場で動くことをノンキャリアに好まれない。キャリア官僚に望まれるのは、現場が動きやすそうに状況を整えること。そして、よき上司であることだ。
 関屋も、それを知っているのだろう。
 庁内でさえ、自分のやり方は揶揄される。
 あるていど警察の内部を知っている彼らのようなヤクザなら、同じことを思うに違いない。
 実際に、捜査に赴いた先で、ヤクザに馬鹿にされるのは珍しい話ではなかった。
 けれども、関屋の反応は思いがけないものだった。
 彼は、ふっと嫌味のない笑みを浮かべる。
「がんばってるな」
 肩を、ぽんと叩かれた。
 ――え……。
 触れた手のひらの、思わぬあたたかさ。そして、耳をうたがうような言葉に、息が止まるかと思った。
 その言葉はあまりにも、弓緒の心にすとんと収まった。
 ――がんばってる、って……。
 そんなことを言われるのは、初めてだ。
 ……今の弓緒に。
 疲れて、弱音を吐きたがっていた心に、ぴたりと寄り添う言葉だった。
 がんばれ、では心を動かされなかっただろう。
「がんばってるな」だから、びっくりするほど心の底までしみこんできたのだ。
 その言葉それ自体というよりも、そんな言葉を弓緒にかけてくれた彼の存在が。
 ほとんど四面楚歌の中で、じたばたあがいていた弓緒にとって、どんな立場の相手からの言葉でも嬉しくてたまらないものだった。
 ――俺は、本当に疲れていたんだな。
 苦笑いするしかない。
 周りの誰も、認めてくれない。その状況は、想像以上にこたえていたみたいだ。
 正しいと思うことを主張しても、声をかき消される無力感は、じわじわと弓緒を蝕んでいたのかもしれない。
 そうでなければ、仮にも対立する立場の男の言葉に、こんなにも心を動かされたりはしなかっただろう。
「あんた、小美野弓緒っていったな」
 耳元に、ぴたっとくちびるを寄せられる。
「可愛い名前だ」
「……っ」
 思わせぶりに囁かれ、思わず頬が火照った。
 ――もしかして、俺は顔を赤くしているんだろうか。
 なによりも、自分の反応に狼狽した。