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 恋はこれから始まる
 恋はそろそろ始まった?
 恋はただいま進行中
あとがき
 恋はこれから始まる


 遠山(とおやま)智史(さとし)は、履修(りしゅう)届けと一緒に渡された用紙に目を落として自分の新しいクラスと担任名を確認すると、「3―F」と書かれた教室に入った。
 教室の中には、既に半分以上の新しいクラスメイトが揃(そろ)っている。その中に津川(つがわ)鉱(こう)の姿を見つけて、智史の心臓は大きく跳ね上がった。
 鉱は人垣の中心に居て、なにやら楽しそうに笑い合っている。
 彼は昔からそうだった。いつもクラスの人気者で、話題の中心だった。
 智史が、そんな鉱と当然のようにいつも一緒に行動していたのは、中二までの話だ。その後はクラスが分かれ所属クラブも違ったため、一緒に居ることはなくなったのだ。
 鉱は、中学のころから中距離の選手としてそこそこの成績を残すスポーツマンで、彼女がしょっちゅう替わるということもあって、校内でもまあそれなりに有名人だった。
 それに比べて、智史の方はどちらかというと地味な生徒だった。友人も少なく、スポーツ万能というわけでもなく、取柄といえば成績が飛び抜けて良いことくらいだった。
 だから、新しくクラスメイトになる誰もが智史と鉱を結び付けて考えたりはしなかったし、当の鉱でさえそんな昔のことなんかすっかり忘れてしまってるはずだ。
 智史はすぐに鉱から視線を逸(そ)らして、とりあえず空いている席に座る。
「あら、遠山くんも同じクラスだったんだ」
 声の方を振り返ると、二年のときのクラスメイトだった織田(おだ)さえ子(こ)が笑って自分の隣に腰を下ろした。
 やがて担任が入ってきて、出席をとる。
 名前を呼ばれて鉱が返事をすると、その直後に智史の名前が呼ばれた。鉱がちらりと周りを見回す。
 智史は後ろの離れた席からそんな鉱を見ていて、気づかれないように下を向いた。ほんの僅(わず)か、心臓がどきどきしている。
 全員の出欠がとられると、智史が予測したように担任は名簿順に並ぶように指示した。
 智史は自分の番号を確認して、それを端から数えて、そっとその席に着いた。
 他の生徒は、前後の生徒とお互いの名前や番号を確認し合って、教室が俄(にわ)かにざわつき始めた。
 智史は何気なく、カリキュラムのプリントを読む振りをした。
「よう」
 その声に慌てて顔を上げると、前の席に座った鉱がにっこりと笑って振り返っていた。
「なんか、久しぶりだな」
 親しげに話しかけられて、智史の心臓は飛び出しそうになった。
「中二以来じゃないか?」
「あ、うん。そうだね」
 どぎまぎして答える智史を見ながら、鉱は眸(め)にかかる前髪をうるさそうに掻(か)き上げる。その仕草に、智史は思わず見とれてしまいそうになった。
「いやあ、けどラッキーだな。同じクラスなら英語とかは共通だろ? 俺苦手なんだよな。なにかとよろしく頼むな」
 調子のいいことを云(い)っているのだが、彼のようなタイプになら頼られた方も悪い気はしないだろう。
「俺で役に立つなら…」
「やったね。当てにしてるぜ」
 そう云って茶目っ気たっぷりに笑う。くどくない程度に彫りの深いマスクは、笑うととんでもなく魅力的だ。
 ふたりが話しているのに気づいて、近くの席にいた鉱の友人たちが意外そうに口を出してきた。
「なんだあ、津川。おまえ遠山のこと知ってんの?」
「知ってちゃ悪いか」
「遠山がおまえのダチだって?」
「珍しい取り合わせだな」
 そう云って、しげしげと智史の顔を見る。
「タイプが違うじゃん。遠山って、おまえみたいに不真面目じゃないだろう」
 智史は思わず押し黙った。
 鉱の友達たちは、彼と似たような派手で明るい人気者タイプばかりで、智史はなんとなく気後れしてしまうのだ。
「でもさ、津川とダチなら、試験前にヤマかけてもらえるんじゃないか」
 さすがに鉱の友達だけあって、考えることが同じだ。しかし智史がそれに何か云う前に鉱があっさりと否定した。
「なに勝手なこと云ってるんだ。そういう特権は俺だけなの」
 な? と同意を求められて、智史は嬉しさよりもむしろ戸惑いの方が先に立った。
 昨日までは学校で会ってもろくに挨拶することさえなかった。それが同じクラスになった途端に、こんなにいきなり親しくなれるものだろうか。
「おいおい、遠山、こいつってばこんな勝手なこと云ってるぞ」
「津川は調子いいんだから。嫌なら嫌って云った方がいいぜ」
 そう云いながら、智史の隣りに無理矢理座ろうと割り込んで、片手を智史の肩に回す。
「世界史だけでいいんだよ、ヤマかけてくんないかなあ…」
「え…」
 スキンシップに慣れていない智史は、戸惑って真っ赤になっている。
「なんだよ、遠山って可愛(かわい)いじゃん」
 よけいに赤くなる智史を、おもしろがって引き寄せる。
「…葉山(はやま)、嫌がってるだろ。離してやれよ」
 呆(あき)れたように鉱が助け船を出す。葉山はにやにや笑いながら、智史を解放した。
「まあノートのコピーで我慢しとくか」
 もうひとりの悪友が勝手に決め付けるのを、鉱はまたもや否定した。
「ダメダメ。こいつノートなんかとらないもん。宿題とかもやらない。でも、テストの点だけいいの」
 智史は驚いて鉱を見る。まさかそんなことを覚えていてくれるとは思わなかったのだ。
「今でもそうなんだろ?」
 そう云われて、思わず頷(うなず)く。
 他の連中はなにやら不平の声を洩(も)らしていたようだったが、智史だけは戸惑いながらも幸福な気分に浸っていた。


 智史が自分の気持ちを自覚したのは、高校に上がってすぐだったように思う。
 校舎の裏にある自転車置き場で、鉱が女子生徒とキスをしているのを目撃したときだった。
 ふたりは智史にはまったく気づいていなかったが、智史はショックで暫(しばら)く動けなかったのだ。
 それまでも、鉱が上級生と付き合ってるだの今度は他校生だの、そういう噂はずっと聞いていた。
 それを聞くたびに感じていたのは、鉱だけがどんどん変わっていくという、自分が置いていかれたような気分だった。
 智史は付き合いたいと思う女の子もいなかったし、だからといって鉱のことを特別意識していたわけではない。
 それなのに、そのキスシーンだけで悟ってしまった。
 その場を離れても、鉱の横顔だけが何度も浮かんでくる。そして触れる唇が女の子のものではなく自分の唇のような気がして、慌ててそれを打ち消した。
 しかし何度打ち消しても、どんどんそのイメージはリアルになって、智史は自分が鉱にそうされたいと思っていることを認めないわけにはいかなくなった。
 そのときに、今まで自分が女の子にまったく興味が持てなかったことに対して、明確な答えが出たのだった。
 自分が同性の方が好きなんじゃないかということは薄々気づいていたが、このときに確信したのだ。
 しかしこのときはそのことよりも、その相手が鉱だということの方がショックだった。幼なじみがゲイで自分を好きだと知ったら、鉱はどう思うだろうか。
 それを考えると、絶対に知られてはならないと思ったのだ。
 智史は、自分でもすっかり気持ちを持て余していた。


「智史、おまえどこの学部を受験するんだ?」
 カリキュラムをさっさと選択した鉱は、振り返って智史の履修届けを覗(のぞ)き込んだ。
 前髪が、端正な顔に蔭(かげ)を落とす。男前ってのは何をやっていても絵になるのだ。
 智史はつい見とれてしまう。
「智史?」
 返事がないので、鉱は履修届けから顔を上げた。途端、智史の視線とぶつかる。
「え、な、なに?」
 慌てる智史に、鉱は訝(いぶか)しげな目を向ける。
「…医学部でも受けるのか?」
「え、いや。工学部のつもりだけど」
 教室はざわついていて、智史の声は鉱にしか聞こえていなかった。
「なんで、世界史五単位も取るんだ?」
「なんでって、おもしろそうだから」
 鉱は思わず眉(まゆ)を寄せる。
「…数Ⅱの再履修はしないのか?」
「一年のときにやったじゃない。受験用なら自分でやればいいことだし」
 さすがに頭の出来の違う奴は云うことが違うなと鉱が思っていると、智史はふと顔を上げて鉱を見た。
「こうちゃんは何学部?」
 智史が何気なく云った言葉に、斜め前の席の葉山芳和(よしかず)が振り返った。
「こうちゃんだって。可愛いねえ」
 その言葉に鉱がむっとした顔をしたので、智史はしまったと思った。すぐに他の悪友たちが気づいて、口々にこうちゃんを連発する。智史が慌てて訂正しようとするのを無視して、鉱は葉山を睨(にら)み付けた。
「智史とはガキのころからの付き合いだから仕方ないが、おまえらまでちゃん付けで呼ぶなよ」
「いいじゃないか、こうちゃんで」
「ならおまえのこともよっちゃんって呼ぶぞ。おまえのおふくろが、いつもよっちゃんって呼んでるの知ってるんだからな」
「なんだなんだ、おまえら。こうちゃんだのよっちゃんだの」
 担任が居ないのをいいことに、大槻(おおつき)依春(よりはる)が離れた席からわざわざ遠征してきて、話の輪に加わろうとする。
「大槻、おまえだって人のこと云えるのか。おまえ妹からヨリピンって呼ばれてるだろう」
 大槻が真っ赤になる。
 智史は、そんな彼らを見ていて、ふと羨(うらや)ましいと思った。
 彼には、お互いの家を行き来するほど親しい付き合いの友達が居なかったのだ。
 なおも彼らが云い合いしているのを、近くの席の女生徒たちが好意的な目で見て、くすくす笑っている。
「こうちゃんだって、可愛い」
「大槻くんのことは今度から、ヨリピンって呼んじゃおう」
 彼女たちは、聞こえよがしにそう云ってエールを送る。つまり、彼らは人気者なのだ。
 みんなすっかり智史のことなんか忘れてしまっている。
 智史はちょっと溜(た)め息をついて、彼らの仲の良い喧嘩(けんか)を眺めている振りをした。


「遠山くんって、理系でしょう?」
 世界史のクラスで偶然隣りの席になった織田さえ子が、親しげに声をかけてきた。
「…そうだけど?」
「なんだか、文系みたいな選択よね」
 織田の方は、文系でしかも女子大の推薦のつもりだったので、選択科目が智史と同じになるとは思ってもいなかったようだ。
「単に世界史に興味があるだけだよ。古典はぎりぎりの単位しか取ってないし、ちゃんと数取ってるぜ」
 そう云って、ちょっと笑った。
 彼女とは、図書館で同じ本を譲り合ったときから、なんとなく友達付き合いをしている。
 成績が目立って良いわけではないが、読書量が並外れていてしかも乱読ときているので、けっこう智史とも話が合うのだ。
 たまに彼女に誘われて、自主上映の映画なんかを見にいくことがあるので、前のクラスの連中の中にはふたりは付き合っているのだと誤解してる奴も居たらしい。
 さえ子の方は同級生の男子からは敬遠されるほどの、はっきりした美人タイプだった。
 目元はきつく切れ長、鼻は高く、口はデカい。タッパもかなりある。一七〇を少し超す智史と殆(ほとん)ど変わらない。彼女がパンプスを履くと当然智史よりも高くなることも手伝って、ふたりで歩いているとさえ子の方が五つは年上に見える。
 智史はあまり彼女の容姿に関して考えたことがなかったが、ちょっとしたきっかけで改めて彼女の容姿に注目したときに、はっきりとわかったことがあった。
 彼女は確かに綺麗(きれい)だったが、自分はそのことにまるで気づかなかった。そして、綺麗だと感じてもそれ以外のなんの感情も湧(わ)いてこなかった。
 十七という年齢で、異性を意識するのはごく当たり前のことだ。それが綺麗な女の子で、しかも相手の方から声をかけてくれるということであれば、悪い気になる男は居ないはずだ。が、智史にとってはあまり関係ないことだった。
「物理は五単位取ってる?」
「ああ。二次で物理選択するつもりだから」
「じゃあさ、試験でヤマかけてくれないかなあ? 私、物理なんか教科書見るのもイヤ」
 綺麗な顔を歪(ゆが)めて云う。
「いいけど。それじゃあ源氏物語の現代語訳やってくれる? 俺、あれ見るのもイヤ」
 智史の提案に、さえ子は笑って頷いた。
 そのときふと、智史は廊下からの視線に気づいて顔をそちらに向けた。すっと外れていく視線の先に、鉱が居た。
 智史が目を合わせる直前に視線は逸らされたが、鉱は自分たちを見ていたようだった。
 ふとした不安が過(よぎ)る。
 それは、すぐに現実のものとなった。

「智史、このあとちょっと付き合ってくれないか?」
 六限目の授業が終わって教室を出ようとするところを、鉱が待ち構えていた。
「え…」
「おごるからさ」
 そう云うと、智史の返事も聞かずにさっさと歩き出す。
「なに?」
 智史は鉱に追いつくと、彼の顔を覗き込んだ。
「……」
「ここじゃ、まずいの?」
 智史は歩きながら、少しだけ声を潜めた。
 鉱はそれには答えず、階段を下りる。
 智史は大人しくそれについていったが、校門を出たところでもう一度同じ質問をした。
「おまえ、織田さえ子と付き合ってるのか?」
 鉱の言葉は、智史が予測したとおりのものだった。
「…ただの友達としてね」
 智史の答えに、鉱はぱっと顔を上げた。
「本当か?」
 智史は黙って頷いた。予想はしていたからそれほど動揺はしていないが、あまり聞きたくない言葉だった。
 そうはいっても鉱の方は智史の気持ちなど知るはずがないのだから、それを責めるわけにはいかない。
「そうか。いや、変なこと聞いて悪かったな。でも彼女がおまえと付き合ってるんなら、諦(あきら)めようと思ってたんだ。まさか、おまえの彼女をとるわけにはいかないからな」
 そう云われて、智史は小さく苦笑した。
 鉱の気遣いは確かに嬉しかった。彼は二股はかけるし、先輩の彼女に手を出すしで、けっこう恨まれてもいたのだ。
 それでも、好きな相手からこんなふうに気を遣われるのはひどく惨めだった。
「…俺に気を遣うことないから」
 ぼそぼそと返すと、鉱は嬉しそうに笑った。
「いや、聞きたかったのはそれだけなんだ」
 僅かに照れたように云う。
 智史も、つられて笑う振りをした。
「そう。それじゃあまた…」
 さっさと行こうとする智史を、鉱が慌てて呼び戻す。
「おごるって約束しただろう」
 そう云って、ファーストフードの店に連れて入ろうとする。
「いいよ」
「遠慮するなよ」
 智史は遠慮しているわけではなかった。早くその場から逃げ出したいだけだった。
「…織田のこと聞きたいの?」
 智史の言葉に、鉱はちょっと真面目な顔になった。
「いや。聞きたいことは本人から聞くさ」
 智史は内心苦笑した。鉱らしい言葉だったからだ。
 彼が自分を誘ってわざわざさえ子とのことを聞いたのは、彼が云うように智史とさえ子との仲がこじれるのを避けるためだけであって、彼女のことを聞き出したり、自分にその仲介を頼むつもりでは決してないのだ。
 鉱は確かにもてたし、女の子の方から申し込まれることの方が多かったが、自分から行動を起こすときは、誰かに頼んだりすることは決してなかった。
「だったらいいじゃないか」
 智史はそっけなく云って、入りかけた店を出る。
「智史…」