立ち読みコーナー
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 粗大ゴミは、わがまま
 粗大ゴミは、相も変わらず
 ミニラフ画集
  あとがき
 粗大ゴミは、わがまま

 いてぇ…。
 歯が痛くて耐えられない。
 何日か前から痛みが激しくなってきていた。奥歯の穴はずっと前から気づいていたが、仕事が忙しくてほったらかしだった。
 痛み止めを飲んでごまかしても、時間が経(た)てば効力が切れてまた痛くなる。立て続けに薬は飲めないので、その間はひたすら我慢するしかない。
『歯は自然治癒しないんですよ。虫歯になったら処置しなければ治らないの、わかってるんですよね』
 わかってるさ。
 口うるさい秘書に突っ込まれ、宮部(みやべ)は痛いとぼやくこともできなかった。
 歯科医院は、痛くなければ進んで行きたいところではない。病院と名のつくものは、総じてそんなものだ。
 しかし、痛みはとうとう我慢の限界を超え、歯科の看板がたまたま目についた宮部は、予約もなしに飛び込んだ。夜の七時半を回っていたから、診察してくれるところを見つけただけでもラッキーだ。
「右の下の親知らず、虫歯です。これは酷(ひど)いですね。かなり痛いでしょう」
 奥歯は特に磨き残しが…などと長々と語る歯科医に、痛みがピークになっていた宮部徹(とおる)は次第にイラついてきた。好き好んで診察台に寝転がっているのではないのだから、とっとと治療を済ませて欲しい。
「それで?」
「ここまで酷いと、もう抜くしかないですね」
 だったらそれを最初に言えよ。
 虫歯はわかっている。今もズキンズキンと、脈打つような痛みが頭蓋骨(ずがいこつ)の中に響いているのだから。
「抜いてくれ」
「でもね…」
 まだ何かあるのか。
 痛いのは抜くまでで、抜いてしまえばすっきりするはずだ。前歯が欠ければ間抜けな顔に見えるから気にもなるが、奥にある親知らずなんてどうでもよかった。
「なんだ。先生できないのか?」
「できますよ。でも、親知らずですから」
 生えている歯全体のバランスが悪くなるかもしれないし、患者によっては入院して抜歯する人もいるのだと、歯科医は宮部の失礼な言い草にも丁寧に答えた。
「入院? 歯の治療で入院するのか? 麻酔打って抜くだけだろ」
「患者さんの歯の生え方や、体質の問題もあるんですよ」
 忙しかった仕事にひと区切りつけ、やっともぎ取った長期休暇だ。逆を言えば、長期休暇が欲しくて仕事をぎゅうぎゅうに詰め込んだ。休暇中は何があっても仕事の連絡をしてくるなと秘書に言ってあるし、宮部からもするつもりはなかった。
 休暇の初日に抜歯で入院なんて、してられるか!
「熱が出たり、気分が悪くなったりするかもしれませんよ」
「別に親知らずで死にゃしないだろ?」
「死ぬことはないとは思いますが、絶対とは言えませんから…」
 大抵の人間は、そこまで言われると不安に駆られるのだろうが、宮部はまったく意に介さなかった。
「子供じゃないんだ。俺も時間がないし、あんたも診察時間をこれ以上長くしたくないだろう。とっとと抜いてくれ」
 そう言って、歯科医を脅すように半ば強引に抜歯を済ませた。
 全額現金で支払う。ぼってんじゃねぇのか、と思うくらい取られたが、仕方がない。
 今日は風呂(ふろ)やアルコールは控え、後日傷口の消毒に来てくださいと歯科医に言われ、宮部は適当に生返事をして歯科医院を後にした。
「めんどくせぇ。行ってられるかよ」
 歯科医院を出てしばらくすると、噛(か)みしめた脱脂綿が血をいっぱいに含んで飽和状態になってくる。歯を抜いたところからまだ血が出ているようだ。口の中に充満してくる。用をなさないぶよぶよした脱脂綿は気持ち悪くて捨ててしまいたいが、道端には吐けないし、飲み込むわけにもいかず、宮部は苦虫を噛み潰(つぶ)したような顔で繁華街を歩いていた。
 大柄で強面(こわもて)の男が顔をしかめていれば、凄(すご)んでいるようにしか見えないのだろう。対向して歩いてくる人は皆、宮部をさり気なく避けている。
 休暇は日本でのんびりと。
 何年ぶりかで帰ってきた日本の街は、相変わらずごみごみしていた。狭い道路を車がものすごいスピードで行き交い、駅からはたくさんの人が吐き出される。緑も少なく、心なしか空気も悪い。
 期待して帰ってきたものの、降り立ってみれば想像していたほどいいものでもなかった。
 歯が痛くならなければ、今頃はホテルの部屋でのんびり風呂に浸(つ)かり、ルームサービスでも頼んで一杯ひっかけていたかもしれない。
 計画を立てず日本に帰ってきたことが、悔やまれた。
 今日の宿を探さなければ、と携帯端末を取り出すつもりで宮部はバッグを持ち替えた。
「いてっ」
 少し振り回す感じで持ち替えたバッグが、運悪くすれ違った男の足に当たった。
 一日分の着替え程度しか入っていない小さなバッグだ。故意ではないし、当たったところで怪我(けが)をするものでもない。無視してもよかったが、ぶつけたことは確かなのですいませんと謝るつもりが…。
 口を開くと溜(た)まった血が出てきそうで、宮部は一瞬躊躇(ちゅうちょ)する。
「おい、人にカバンぶつけといて、詫(わ)びもなしか?」
 二十歳(はたち)そこそこのチンピラ風の男が、宮部に絡んできた。後ろに二人、同じような風体の男がいる。ガタイのいい宮部相手でも、頭数で対抗できると踏んだのだろう。三人で宮部を取り囲む。
 しゃべれない宮部は片手を顔の前に立て、スマンと態度で示した。だが、相手の男はそれで納得しなかった。
「口が利けねぇのかよ。ええ?」
 騒ぎになるのが面倒で、宮部は頭を軽く下げ、再び詫びの姿勢を見せてみる。
 そういえば、最近こうして人に頭を下げることはなかったなぁ。
 立場上、他人から下げられても、宮部が下げることはめったにないのだ。
「オッサン、ちっとも謝ってるように見えねぇな。誠意を見せろよ、誠意をよ!」
「舐(な)めてんのか!」
 無言の宮部に、男たちが喚(わめ)きながら詰め寄ってくる。
 今日は厄日かよ…。
 身振り手振りで宮部なりに謝意を表しても、チンピラには通じなかった。そして、上着の襟を掴(つか)まれ身体(からだ)を揺さぶられたところで、元来細い忍耐の糸がぷっつり切れた。
 腹が減っても歯が痛くて食事は摂れないし、治療した歯科医はちんたらしていたし、今度はチンピラに絡まれる。
 休暇が初日から台無しになり、宮部はイライラが溜まっていた。それをすべて吐き出すように、目の前の男に向かって口の中の血を思いっきり吹きかけた。
「うわっ、なっ、なんじゃこりゃ。ちっ、血だ!」
 宮部の思いもよらない攻撃に、相手の男は怯(ひる)んだ。ホラー映画でもあるまいし、まさか顔に血を吹きかけられるとは思わなかったのだ。
 そこへすかさず宮部は拳(こぶし)を繰り出した。拳は血に塗(まみ)れた男の顔面にクリーンヒットし、男は後ろに倒れ込んだ。唾液(だえき)と血が混ざった怪しい液体をいきなり吐きかけられ、さらに殴られ、男は半分泣きそうな顔になっている。
「オッサンオッサンと、やかましい! 俺はまだ三十二だ!」
 宮部は怒鳴ると、呆然(ぼうぜん)と立っていた二人にも、次々と拳をお見舞いした。
 日本と違って海外では危険な場所も多い。銃を向けられたらどうしようもないが、素手やナイフなら十分対処できるよう、マーシャル・アーツや護身術を習っていたし、昔から喧嘩(けんか)には自信があった。線の細いチンピラ風情に負けはしない。
「この俺が頭を下げてやっているのに、誠意がないとはどういうことだ? ん?」
 麻酔がまだ効いているから、口を開けるたびに右側が引きつれているような感じがして、うまく動かない。しゃべるたびに顔は歪(ゆが)み、口の端からたらりと血が流れる。
 絡んだ男たちには、まさにホラーだった。
 一晩安静にしてください、という歯科医の注意はすでに忘却の彼方(かなた)だった。頑健で病気知らずの宮部が、歯を一本抜いたところでどうってことない、と思っても仕方がないかもしれない。渡された痛み止めの処方箋も、必要なし、と歯科医院を出て即捨ててしまった。
 怖気(おじけ)づいた男たちを捕まえ、宮部は夜の繁華街で大立ち回りを演じた。男たちは、歯の痛みや空腹の苛立(いらだ)ちを晴らす宮部の生贄(いけにえ)になったのだ。不運だが自業自得だ。
 誰(だれ)かが通報したのか、反対側の歩道を警官が叫びながら走ってきた。チンピラたちは慌てて逃げ出し、宮部もバッグを掴んで薄暗い路地に駆け込む。
 待ちなさい! と警官が宮部を追ってくる。
「待てって言われて待つヤツがいるかよ。ってか、なんで俺を追ってくるんだ」
 もし捕まって、仕事先に連絡が行ったりしたらどうなることか…。鬼のような秘書のことだ。きっとこれから先、一生、休暇が貰(もら)えなくなるだろう。
「冗談じゃねぇ!」
 宮部は闇雲(やみくも)に走り、気づけば、街灯もない暗い路地裏をぜいぜいと息を切らせて歩いていた。追いかけてきた警官の姿も見えなくなっている。
 気が抜け、足がもつれそうになる。
「勘弁してくれよ。風呂とメシ…」
 右の顎(あご)が脈打つように痛み出し、気持ちが悪くて吐き気もする。歯茎(はぐき)から出た血を、大量に飲み込んだのかもしれない。なんとなく頭も痛い気がして額に手をやれば、微熱があるようだ。
 宮部は次第に歩くのも億劫(おっくう)になり、とうとう座り込んだ。
「いったいここはどこだ」
 繁華街にいたはずなのに、辺りは住宅街になっている。適当に走ったので、どの方向に向かえば元の場所に出るのかさっぱりだ。土地勘もないのに、よく逃げきれたものだと思う。
「腹減った」
 こんなことになるのなら、歯が痛くても抜歯前に食事を摂っておけばよかったと後悔する。どんなに仕事が忙しくても、食事だけは抜かないのだ。
「ったく、最悪だ」
 身体が重く、ふらふらした。歯科医の言うとおり、安静にしていればよかったのだが、今さらだ。
 宮部は力尽きて地面に寝転がった。


 汚れ物の詰まったリュックを背負い、コンビニの袋を提げ、疲れきった身体でとぼとぼ夜道を歩いていた中村(なかむら)昭宏(あきひろ)は、アパートのゴミステーションに転がっている怪しい物体に目を止めた。
「なんだ?」
 最初は影だと思った。暗がりで遠目にはそう見えた。
 仕事で酷使した目はかなり疲れていて、視界がぼやけたり霞(かす)んだりしていたからだが、近づくにつれ影ではなく、何かが横たわっているのだとわかった。
 足だ。人間の足が、ゴミを入れる大きなケージの横からにょきっと出ている。
「また誰か、変なもの捨ててったのか」
 住宅街の路地裏に面したこのアパートのゴミステーションには、時々奇妙なものが捨ててある。アパートの住人ではなく、通りすがりの人間が勝手に放置していくのだが、三ヵ月ほど前には、どこから持ってきたのかカーネルおじさんが頭から突っ込まれていたし、先月は、ばらばらのマネキンが何体か捨ててあって、死体遺棄だと大騒ぎになったところだった。
 今度もマネキンかなんかだろう、と思って近づいたが、ちょっぴり怖いので、ある程度の距離を残して昭宏は歩みを止めた。しょぼしょぼする目を擦(こす)り、怪しい物体を凝視する。
「げひっ」
 喉(のど)の奥で悲鳴が引っかかった。
 人間だ。生ものだ。
 驚きで、疲れも一気に吹き飛ぶ。
「…死んでるのか?」
 心臓がバクバクしてくる。
 見なかったことにして、部屋に帰ろう。
 そう考えても、怖い物見たさで確認したくなる。やめろ! という頭の中の叫びを無視して、昭宏は息を詰めて恐る恐る近寄った。
 そーっと覗(のぞ)き込んで、ツンと爪先(つまさき)で突いてみる。
 ぐきゅるるるる…。
 腹の虫が盛大に泣いた。
 昭宏は自分の腹に手を当て、首を傾(かし)げた。腹は減っているが疲れすぎていて食欲もなく、元々食も細いので、空腹を感じてもこんなに立派な腹の虫が泣くことはない。
 ぎゅっ…ぐぐぐぐぐぅぅ…。
 どうも、足元に横たわっている人間から聞こえてくるようだ。
「なんだ、生きてるじゃん」
 ビクビクした自分が恥ずかしく、誰もいないのにきょろきょろ見回してしまった。
 身体のどこかに怪我でもしているのだろうか。寝ている男の顔には乾いてどす黒くなった血がこびりついている。
「酔っ払いが喧嘩でもしたのかな。もしもしー。おーい」
 少し心配になり声をかけるが、男は一向に起きる気配がなかった。
「警察か、救急車を呼ぶか…」
 だが、真夜中のこの時間に呼べば大騒ぎになるのは間違いなく、事情聴取やなんやと時間を取られるだろう。仕事が一段落ついて、やっとしばらく休みを貰えたというのに、なんてタイミングが悪いのか。疲れていた昭宏は、早く布団に潜り込みたかった。
 男の呼吸は規則正しい。アルコール臭くないから酔っ払いでもないようだ。あんなに大きな腹の虫が泣くのだから、病気でもないだろう。
「寒くないし、このまま捨てといても大丈夫かな?」
 脈だけでもと手首に触れると、熱があるのか男の身体は少し熱かった。
 見なかったことにしようかな。でも、もしも冷たくなって発見されたりしたら、良心が咎(とが)めるだろうし…。
 そう考えると、人のいい昭宏はほったらかしにできなくなってしまう。
「ったく、仕方がないなぁ」
 昭宏は頭を左右に振って首をコキコキと鳴らすと、男を担(かつ)ごうと傍(そば)にしゃがみ込んだ。
 後になって、事情聴取の時間ぐらいケチらなければよかったと後悔するのだが、この時の昭宏はとにかく寝たかったのだ。


 なんだか寝心地(ねごこち)が悪いなぁ…。
 会社から家に帰って、久しぶりにベッドで寝たはずだった。雑魚寝(ざこね)していた会社の床ではないのに、妙な閉塞(へいそく)感を覚え、昭宏は目が覚めた。
 枕元(まくらもと)の時計は朝の七時半を指していた。
 寝たのは夜中の三時を過ぎていたから、あれからまだ四時間ちょっとしか経っていない。疲れているから丸一日以上は寝るだろうと思っていたのに、予定どおりにはいかないものだ。
 仕事して仮眠を取って、また仕事して、の繰り返しが、昨日までの昭宏の生活パターンだった。
 のんびり寝ていたら後で必ず後悔する、ここで起きないと納期に間に合わない。
 そんな強迫観念が熟睡できない原因で、身体がそれに慣れてしまっているのだ。食事も睡眠も定時に取れなくて、体内時計が狂っている。
 一週間の休みを貰えたので、その間に正しい生活サイクルに戻そうと思っていた。
「う~っ、寝足りないけど、起きるにはちょうどいい時間かも」
 昭宏は寝返りを打とうとした。だが、なぜか背中に障害物があって身動きがとれない。
 なんだ?
 壁は目の前だし、枕は頭の下にちゃんとある。布団はかかっているし、ベッドの上には自分以外何もないはずなのに…。
 不思議に思って首を巡らせば、間近に男の顔があった。
「!」
 びっくりした昭宏は、目を瞑(つぶ)って力いっぱいその男を突き飛ばしていた。
 ドスンと音がする。飛び起きて下を見ると、見知らぬ男が床に転がっていた。
「誰? こいつ」
 自分の部屋で、ベッドも自分のだ。
 わけがわからなくて、昨日仕事が終わってからの行動を寝起きの頭で必死に考え、アパートのゴミ置き場から、血だらけの男を拾ってきたことを思い出した。
 男は大柄で、担いで運ぶのは大変だった。やっと運び入れ、熱があったので冷却シートを額に貼り、毛布をかけて転がしておいたのだが…。
「床にいたはずなのに、ずうずうしく、他人のベッドに入ってきたのか?」