立ち読みコーナー
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 ギャップ
 アリバイ
 後日談
あとがき
 ギャップ


 高三になったばかりの春休み。
 その日は部活も休みで、亨(とおる)は従兄(いとこ)の君春(きみはる)にバイクを借りるつもりで彼のマンションを訪ねた。
 君春は一時バイクに凝っていて、今ではあまり乗らなくなったもののそれでもハーレイを含めて三台ばかり所有している。
 亨はオーバーホールを引き受けるのと引き換えに、自由に使わせてもらう約束をしていたのだ。

 部屋の前まできてインターホンを押すが反応はない。試しにノブを回してみると、難なく開いた。
「…きみ兄(にい)? 鍵(かぎ)開いてるぜー」
 云いながら勝手に部屋に上がる。
「居ないのー?」
 広い部屋を覗(のぞ)き回ると、ベッドルームのドアが開いていた。
「きみ兄…?」
 ひょいと覗き込むと、君春ではない誰(だれ)かがベッドに横たわっていた。
 辛うじて下半身にはシーツが巻きついているが、全裸なのは一目(いちもく)瞭然(りょうぜん)だ。
「だれ?」
 右目を開けて面倒そうに亨を見上げる。
 彼の心臓が跳ね上がった。
 綺麗(きれい)と形容していっこうに差し支えないほどの美貌(びぼう)の主は、あろうことか男だった。
「お、俺(おれ)、きみ兄の従弟(いとこ)で…」
「ああ。君春ならシャワー浴びてるよ」
 なげやりな瞳(ひとみ)だった。しかしその少しも幸せそうじゃない瞳に、亨は心臓をわし掴(づか)みされるほどの衝撃を感じた。
「なんだ、誰か来てるのか」
 廊下で君春の声が聞こえて、亨は慌てて我に返った。
「きみ兄、おれー!」
 廊下に向かって叫ぶ。
 ちらと振り返ると、その男はけだるそうな仕草で前髪をかき上げていた。また、ぞくりとしたものが背筋を走った。
 亨は自分でもわけがわからなかった。が、彼から目が離せない。
「…なに?」
 亨の視線に気づいた男が、うっとうしそうに眉(まゆ)を寄せる。たったそれだけのことなのに、彼と視線が合った亨は、欲情したのだ。
 全身が熱くなって、亨は逃げるように寝室を出てトイレに駆け込んだ。
 自分の身に起こったことが、亨にはすぐには理解できなかった。
 君春のベッドで見た男に自分が強烈な一目惚(ひとめぼ)れをしたということを認識するのに、少し時間がかかったのだ。
 君春が結婚してもう二年以上経(た)つが、それまでの相手が女に限らなかったことを亨は少し前から知っていた。だからさっきの綺麗な男も君春とそういう関係であることは、すぐに察しがついた。
 トイレで気持ちを落ち着かせると、亨は気になって仕方ない男のことを、できるだけ無視するように努めた。
「…きみ兄、玄関の鍵開いてたよ」
 キッチンでビールを探す君春の肩ごしに声をかける。
「ああ亨か。そういや今日来るとか云ってたなあ」
「すぐ忘れるんだから…」
 そう云って、母親から頼まれた差し入れを渡した。
「いやあありがたいよ。亜紀(あき)も来週までは帰ってこないからな」
 妻の亜紀は、大学時代の友人とヨーロッパ旅行中だ。
 しかしいくら妻が海外だからと云って、浮気に自宅を使ってしかも鍵をかけ忘れるという神経の太さに、亨は呆(あき)れるしかなかった。
「亜紀さんの留守に、やばいんじゃないの」
 亨の潜めた声に、君春はにやりと笑って見せた。
「俺たちは浮気はお互い黙認なんだ。そういう約束をしてる」
 しゃあしゃあと云って、片手で器用に瓶の蓋(ふた)を開けた。
 君春は昔から遊び人だった。恋人はとっかえひっかえ。目立つ容姿とスマートで遊び慣れたところが、圧倒的に受けていた。
 亨にとってそういう従兄はそれなりに格好よくは映っていたが、憧れの対象にはならなかった。その程度には、亨にも君春の人間性というものがわかっていた。
「佑季(ゆうき)! シャワー浴びろよ」
 ベッドルームに向かって大声でさっきの男を呼んだ。
 亨は思わずどきりとする。そして無意識にその名前を復唱していた。
「…綺麗な男だろ?」
 亨の動揺を見てとった君春が、にやにや笑いながらからかう。
 その佑季と呼ばれた男が彼らのいるキッチンを横切ってバスルームに向かうところを、君春はいきなり引き寄せて亨の目の前でキスをした。
 亨はショックのあまり、持っていたグラスを床にぶちまけた。
 佑季はちらと亨を見た。亨は射抜かれたように立ち竦(すく)んだ。
「あーあ。あんたがくだらないことするからだぜ」
 佑季は君春をひとに睨(にら)みして、バスルームに消えた。
「いいだろ、あいつ」
「え…?」
 慌てて雑巾(ぞうきん)を探している亨に、耳打ちした。
「あいつ来るもの拒まずだから、頼めばおまえでも遊んでくれるかもよ」
 にやにや笑って云う君春を見て、亨は自分がまたからかわれていることに気づいた。
「…あ、そう」
 君春のペースにのらないように自分に云い聞かせて、なんとか軽く受け流す。
 そんな亨の反応に君春はつまらなさそうに肩を竦めた。
「ちっ、可愛(かわい)くねーの。ちょっと見ない間に図太くなりやがって」
「……」
「それにしても、すげーなその頭。真っ黄色じゃねえか」
 短く刈り込んだ脱色した頭を、君春がぐりぐりと撫(な)でる。亨はその手を邪険に払い退(の)けた。
「おい、俺よりデカくなったんじゃないか」
「…八十四」
 亨がぼそっと返す。途端に君春の眉が寄った。
「八十四だって? 俺より三センチもデカイじゃねえか。可愛くねえ」
 部活で鍛えているので、それなりに筋肉もついていた。このガタイといかつい迫力のある面構えのせいで、まず高校生には見られない。
「おまえガッコでももてるだろ?」
「きみ兄ほどじゃないよ」
 君春は自信満々に微笑(ほほえ)んで見せた。こういう顔は確かに男前だと亨も認めた。
 ビールをラッパ飲みする君春は、悔しいかなちょっとかっこよかった。
「おまえんとこ共学だったよな。彼女いるんだっけ」
「…今はいねえよ。ちょっと前に付き合ってた娘(こ)が卒業しちゃったからな」
 君春はちらと彼を見て、眉を寄せる。
「相変わらず、冷めたガキだな」
 亨はそれを無視した。
「それよりきみ兄、ハーレイ貸してくれる約束だろ。メットも持ってきたんだからな」
「ああ、そうだった。ちょっと待て。鍵探してくるから」
 君春が書斎で鍵を探している間、亨はふとテーブルの上の君春のケータイに目を留めた。
 殆(ほとん)ど衝動的にメモリーで佑季の名前を探していた。
 目当ての番号はすぐに表示された。亨はテーブルに転がっていたマジックで掌(てのひら)に番号を書き込む。そして、気づかれないように携帯をテーブルに戻した。
 リビングに戻ってきた君春の姿を見ると、どきっとして反射的に掌を握りしめた。
 自分がこんな行動をするとは思ってもみなかったのだ。

 せっかくバイクを借りたのに、ツーリング中もずっと佑季のことが頭から離れなかった。
 あの幸せそうじゃない目を思い出すと、たまらない気分になる。あの綺麗な瞳が微笑んだら、どれほど魅力的だろうか。
 こんなに誰かのことを真剣に考えるのは初めてだった。
 もう一度彼に会いたい。その思いは止まらなかった。



 ひと晩考え抜いたあげく、亨は佑季に電話してみることに決めた。
 思い切ってその番号を押すときには、心臓が口から飛び出しそうなほど緊張した。数回の呼び出し音のあと留守録のメッセージが流れたときには、がっかりしたのと同時に少しほっとした。
「あ、あの、俺、君春の従弟の亨です。昨日会った…。あ、あの…。また電話します」
 なんとかメッセージを残し電話を切る。全身がどっと疲れた。
 たったこれだけのことに、どうしてこんなに必死になるのだろうか。こんなことは初めてだった。
 亨はそのあとも数回電話をしたが、結局その日のうちには連絡がつかなかった。それでもその都度、同じようなメッセージを律儀に残した。
 次の日も夕方から何度も電話しては、メッセージを残した。何回目かの電話でさすがに最初の緊張は薄れてどうせまた留守録だと思っていたときに、突然本人が出た。
「…はい」
「え、あ、あの、俺…」
 最初に番号を押したとき以上の緊張が襲ってきて、次の言葉が出てこない。
 そのときにくすっと笑う声が聞こえた。
「…君春の従弟のトールです?」
 可笑(おか)しそうに亨のメッセージを復唱する。
「え…?」
「ずっと電源切ってて悪かったね」
 亨はケータイを持つ手が震えてくるのがわかった。
「あ、あの…」
 そこまで云ってとにかく深呼吸してみる。
「俺、君春の従弟の亨です」
 そう云わないと先が続かないのだ。電話の向こうでまた小さな笑い声が聞こえた。
「…一昨日(おととい)会った…」
「うん。覚えてるよ」
 それだけの言葉に、亨は矢で射られたような衝撃を受けた。
「あ、あ、会いたいんだけど…!」
 咄嵯(とっさ)に出た言葉がこれだった。
 案の定、佑季は電話口で大笑いしている。
「すごい直球だね」
 亨はなんと答えていいのかわからなかった。もしかして呆れているのかも知れない。何か気の利いたことを云わなければ、そう思っても何も浮かんでこない。
「…スペースってクラブ知ってるか?」
 言葉を繋(つな)いだのは、佑季の方だった。
「え…?」
「木曜の夜はたいていそこに居るよ」
 行ったことはないが聞いたことのある名前だった。ここら辺りではかなり評判のいいクラブで、木曜はゲイ・ナイトになるのだ。
 亨は電話を切ったあとも、まだどきどきしていた。
 そしてふと、気づいた。彼が何度も笑っていたことに。
 君春のマンションで見た佑季からは、大笑いする彼がどうしても想像できない。けだるそうな、冷たい目しか思い浮かばない。
 しかし、実際に電話の向こうでは声を上げて笑っていたのだ。



 ゲイ・ナイトとはいえ、もちろん入店のときにチェックがあるわけではない。
 中に入ると、ベイビーフェイスの少し前のナンバーがかかっていた。まあ悪くない選曲だと亨は思った。
 カウンターでジントニックを注文して、店内を見回す。
 まだ時間が早かったせいもあって客はまだそれほど多くはなかったが、フロアで身体を押しつけ合って踊っているのが男同士というのは初めて見る光景で、亨はちょっとどきっとした。
 佑季が通うクラブだからそれなりにグレードの高そうなところをイメージしていたのだが、すっきりとしたシンプルな内装で客もわりとラフな格好だったので亨はなんとなく安心する。
 自分のテリトリーではない場所でコトを起こすのは、なにかと緊張するものだ。
 ひとりでいると相手を探していると思われてか、とにかく頻繁に声をかけられる。それを適当にあしらいながら、フロアを眺める。

 佑季が店に現われたのは、亨が来店してから二時間近くたってからだった。
 亨が来たころはまだ空いていた店内も、すでに人で溢(あふ)れ返っていた。
 亨が佑季に気づいて慌てて立ち上がると、さっきまで亨にコナかけていた大学生らしい男がその勢いに驚いて、びくっと身体を震わせた。
「ユーキさん!」
 亨は叫んで、ぶんぶんと手を振った。
 それまでのむっつりした顔からは想像もつかない、まるで大型犬が尻尾(しっぽ)を振ってるかのような様子にそれまでとのギャップを感じて、男は呆れたように亨を見つめる。
 佑季はそんな亨に軽く手を上げて見せただけで、チーフ格のスタッフと親しそうに話をしている。それを見つけた知人らしい数人の男たちが佑季を取り囲んでしまった。
 暫(しばら)く待っても佑季はその輪から出てこない。それどころか、佑季目当ての男の数は増えていく。
「振られちゃったね?」
 その言葉に亨は男をぎっと睨みつけた。
 怒ると想像以上に凄味(すごみ)がきく。男はすごすごと席を離れた。
 亨はさっきの大学生に奢(おご)ってもらったビールを、一気に空けた。
 どうやら、彼がここでひとりになることはなさそうだった。
 佑季と話をするには、あの輪の外で自分も順番待ちをしなければならないということなのだろうか。
 よく考えてみれば、佑季はこのクラブに居ると云っただけで自分と会ってくれる約束をしたわけではないのだ。
 もしかしなくても、自分はまったく相手にされていない。
 じっとここで待っていても、あの男のうちの誰かが彼を連れて店を出るのを見届けるだけではないか。
 佑季から目を逸(そ)らして、グラスについた水滴をじっと見つめる。
 のぼせすぎていた。彼が簡単に手に入ると思っていたわけではなかったのに、明らかにのぼせあがっていた。その反動は思った以上のダメージだった。
 どうしようもなく惨めな気持ちになって、亨は店を出た。
 バス停までとぼとぼと通りを歩く。風はまだ冷たく、ぶるっと震えて革ジャンの前をかき合わせた。
「あ…」
 自分を追い越して行くバスが自分の乗る行き先だったことに気づいて、あっけにとられたようにそれを見送る。
 大きく溜(た)め息をつくと、髪をくしゃくしゃと掻(か)き上げた。
 ツイてない。今日はだめだ。そう思ったときに強い風が吹いて、桜の花びらが亨の髪にからまった。
 次の瞬間、佑季のけだるそうな目を思い出して背筋がぞくっとなった。
 まだ駄目だと決まったわけじゃない。
 そう思うが早いか、ケータイを取り出すと、思い切って佑季にかけていた。
 雑音に混じって、ざわついた音が聞こえた。
 亨は俄然(がぜん)力が湧(わ)いてきた。
「佑季さん、俺!」
「え…? 誰?」
「トール!」
 通りの向かいの人が振り返るほど大きな声を出した。
「俺、外で待ってるから!」
「はあ?」
「待ってるから!」
 怒鳴って、電源を切った。
 亨はガードレールに体重を預けて腕組みすると、じっと目を瞑(つむ)った。
 寒さはもう、感じなかった。
 少し離れたところに花見ができる場所があって、酔っぱらいたちの賑(にぎ)やかなざわめきが聞こえてくる。
 亨は目を閉じたまま、自分に向かって手を上げた佑季を思い起こしていた。
 君春のマンションで見た、投げやりな目ではなかった。自信に溢れた我儘(わがまま)で勝気そうな目だった。そのどちらにも亨は惹(ひ)かれた。
「…おい」
 その声に亨は慌てて目を開けた。
 目の前に佑季が立っていた。
「ずいぶんと余裕じゃないか」
 ちょっと怒ってるようにも見えたが、なにより佑季がひとりで居ることに亨は逆に戸惑っていた。