立ち読みコーナー
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 グリーンカラー
 かなりどうでもいい、ある日
  あとがき
 グリーンカラー


「…まさか、こういう偶然って…」
 市川(いちかわ)秀俊(ひでとし)は思わずそう洩(も)らした。
 友人席に座っていた彼は、親族席に居た秋山(あきやま)皓己(ひろき)を見て一瞬狐(きつね)につままれたようだった。思わず立ち上がった彼を、周囲は訝(いぶか)しげに見る。
「おい市川、おまえ目立ってるぞ」
「なに突っ立ってるんだよ」
 同席の友人たちが小声で彼をたしなめる。長身の彼は確かに視線を集めてしまっている。
 自分が悪目立ちしてることに気づいて、秀俊は憮然(ぶぜん)として席に着いた。ちらと親族席に目を走らせてみると、皓己は何も気づいてないかのように涼しい顔をしている。秀俊は思わず舌打ちした。
 秀俊は皓己の存在を気にしつつも、複雑な心境で式が進行していくのを見守っていた。
 披露宴(ひろうえん)会場を出ると、まだ招待客に挨拶(あいさつ)をしている新郎新婦にちらと目を走らせた。そして自分を待っていた皓己に、秀俊はおもむろに深い溜(た)め息(いき)をついてみせた。
 堅苦しい礼服をごく自然に着こなした皓己は、その品の良(よ)さとストイックな雰囲気でどことなく英国紳士を思わせて、一瞬秀俊も見惚(みと)れかけた。が、すぐに現実に戻る。
「今日は弟のために、ありがとうございます」
 皓己は秀俊に向かってそう云うと、意味ありげに薄い笑いを作って言葉を続けた。
「…このあと、少し話せないか?」
 それに秀俊は心底迷惑そうな顔をしてみせる。が、皓己は少しも気にせずに続けた。
「ロビーラウンジでどうだい?」
「断われないんだろう」
 秀俊が返すと、皓己は唇の端を持ち上げただけだった。


 秋山皓己は、秀俊の会社の先輩だった。
 皓己は製品開発、秀俊はリサーチとそれぞれの仕事の内容が異なっていたため、秀俊は皓己をその噂(うわさ)と名前くらいしか知らなかった。
 皓己は秀俊よりも五年早い入社でまだ三十を少し過ぎたばかりだが、社内での信頼や実績は抜きん出ていた。斬新(ざんしん)なアイディアと市場を的確に見抜く力、その両方を備え、彼が手がけた製品は社内外で高く評価されている。
 完璧(かんぺき)主義で他人の無能に容赦ない。その厳しさに彼と仕事する人間は誰(だれ)もが緊張する。とにかく彼を怒らせるなと、秀俊も先輩社員から聞かされていた。
 皓己のチームからの依頼で調査した情報を引き渡すときに、秀俊は初めて噂の主に会った。
 自分よりも十センチ近く背が低く、自分よりも五歳は若く見えた。スーツを着ていなければ学生でも通用する。尤(もっと)もそれは黙ってモニターに向かっているときだけに限られていたが。
 皓己は丁寧に礼を云って秀俊のデータをチェックし始めたが、質問をするときの顔は噂どおり厳しく冷たいものだった。同席していた秀俊の上司は皓己より年齢はもちろん役職も上だったにも関わらず、かなり緊張して皓己の質問に答えている。
 最後までにこりともせずにチェックを終えると、皓己はちらと書類から顔を上げた。その視線に秀俊は一瞬どきりとした。
 誰にも媚(こ)びることのないストレートな眼差(まなざ)し。すっきりと整った顔立ちは繊細さと優美さを感じさせた。秀俊はうっかり彼に見惚れていた。
「このデータまとめたのは、きみ?」
 クールな声に秀俊はすぐに現実に引き戻された。
「…そうです」
 答えながら何か文句を云われるのかと内心焦った。が、意外なことに皓己はうっすらと微笑を浮かべたのだ。
「よくできてるよ。着眼点が独特だし分析も悪くない」
「……」
 誉められるとは思わなかった秀俊は、返答に詰まった。それは課長も同じだった。
「できれば次も市川くんに担当してもらいたいんだけど…」
「え…」
 驚いたのは課長だった。皓己が自分から誰かと仕事をしたいと云ったという話は、一度も聞いたことがないのだ。
「い、市川にか?」
 課長はちらと秀俊を見る。彼はさほど秀俊を評価していなかったのだ。自分の部下の中でもあくまでも平均レベル。特にダメでもないが特に優秀でもない。その秀俊が皓己から名指しされるのは意外だった。
「マズいですか?」
 実際にまずいわけはない。それどころか課長にとっては歓迎すべきことだった。皓己と仕事をするということは、自分の課も上部からそれなりの評価を受けることになるのだ。
「いや、調整してみよう」
「よかった」
 課長の言葉に皓己はにっこりと笑った。
 秀俊に選択権はなかったが、なんとなく気が進まなかった。今日はうまくいったが、機嫌を損ねるようなことをしたら自分だけの責任ではすまないことになりそうだからだ。できればそういう人物とは関わらない方がいいと思ったし、そうするつもりだったのだ。
 しかしそんな秀俊の思惑(おもわく)とは裏腹に、どうしたわけか皓己の方は秀俊を気に入ったらしかった。
 皓己は評判どおりの切れ者で、第一印象の繊細なイメージは幻想でしかなかった。
 わがままで横暴で、そして仕事に関しては妥協を許さない。常に相手にベストを求める。秀俊は彼から何度も怒鳴られダメ出しをされ、最初のころは正直なところ迷惑にさえ思っていた。
 しかし皓己の言い分はいつも正確で反論の隙(すき)を与えない。その上彼は実はどう考えても無理という非現実的な要求は決してしたことがない。今よりも少し努力すればできることを要求してくる。そうやって少しだけ高い目標を確実に達成させることで、その努力が当たり前のことになるように仕向けてくる。
 それまで適当に楽な仕事しかしてこなかった秀俊が、初めて仕事の厳しさと同時に楽しさを覚え始めるようになったのだ。なんとなく悔しいが、秀俊もそれを認めないわけにはいかない。

「市川、秋山さんが二時に来てほしいって」
「げっ、またかよ」
 秀俊はわざと顔を顰(しか)めてみせる。皓己の担当になったからといって、秀俊は皓己との仕事だけをしているわけではない。しかし急ぎの仕事が入っていない限りは自分を優先させる程度には皓己もわがままだったし、それを認めさせるだけの功績は上げていた。
「市川ちゃんは秋山さんのお気に入りだからねえ」
「やめてくれよ」
「なんでよ。あの秋山さんに見込まれるなんてすごいじゃない」
「そうそう。市川、このところ仕事が速くなったって評判だよ」
 秀俊は思わず押し黙る。
 皓己と仕事をする機会が増えて彼から細かいアドバイスを受けるうちに、確かに仕事の手際はよくなった。それを認めないわけにはいかない。
「それに市川って秋山さん相手でも全然びびらないだろ」
 それに他の連中も頷(うなず)く。
「こいつ、誰が相手でも緊張感がないんだよなあ。もしかして大物なのかもよ」
 無責任な笑いが起こるが、半分は当たっているかもしれない。
 秀俊はどこか瓢々(ひょうひょう)としたところがあって、常にマイペースだった。上司に遠慮したりすることもなければ、後輩に先輩面するようなこともない。
「でも、秋山さんはゲイだって噂だから気をつけた方がいいわよ」
 先輩の言葉に、秀俊はぎくりとして彼女を見た。
「…そ、それ本当?」
「どうなのかな。でも本人がそう云ったらしいけど」
「でもあれって、縁談を断わる口実だって話もあるぜ」
「口実なら他にもあるでしょう。いくらなんでも冗談でそういうこと云うかな」
「けど何しろあの秋山さんだから」
 どうやら誰も彼にそれを確認できずにいるようなのだ。
「そういえば、秋山さんって恋人居るのかな」
「そりゃ居るでしょう。彼って性格はアレだけど、見た目は申し分ないしおまけにエリートで出世間違いなしだもん」
「それって相手が男でも関係あんのかね」
 黙って聞いていた秀俊も思わず苦笑する。
「けど、あの性格についていける恋人っているかなあ…」
「仕事の顔とプライベートは使い分けてるんじゃないか?」
「そうかも。意外に恋人にはすんごい優しかったりしてね」
 それは考えられないと、秀俊は内心呟(つぶや)いた。
「けど、秋山さんって会社に私用電話が入ることは絶対にないんだって聞いたよ」
「なんでそんなこと知ってるんだ?」
「けっこう有名な話だよ。誰もそれらしい電話取り次いだことないって。だから誰も彼のプライベートは知らないのよねえ」
 彼らの雑談を聞きながら、秀俊はなんとなく嫌な予感がした。


「市川、夕食くらい付き合えよ」
 皓己は自分に付き合わせて残業をさせて、まるでそれが最初からの計画だったかのようににやりと笑ってみせた。
「えっ、でも…」
「おまえのおかげで今日中にできたんだから、メシくらい奢(おご)らせろ」
 いつもの有無(うむ)を云わさない口調に、秀俊は断わるタイミングを逃してしまう。
 とはいえ、秀俊は他の社員のように皓己を敬遠していたわけでない。皓己と仕事をするのは秀俊にとっては実はそれほど窮屈なことではなかった。
 最初は独善的とも思える仕事のやり方に少々面食らうことはあったが、意外にも皓己は秀俊が知ってる社員の誰よりもものの考え方が柔軟だった。
 自分に絶対の自信は持っているが、だからといって自分の意見を相手に押しつけたりはしない。相手の意見も自分の考えと同じように尊重する。ただ、その意見がまるで見当違いだったりすると、容赦なく切り捨てる。そのへんは徹底していた。そのせいで怖がられているようだが、秀俊はそんな彼を近くで見ていて、逆に相手に合わせて態度を変えない皓己の平衡感覚を信頼するようになっていた。
 皓己は話をしてみると、さほどとっつきが悪いわけではなく秀俊にとってはそれほど気を遣わないで話ができる相手だった。多趣味で話題が豊富なので、雑談をしているとあっという間に時間がたつ。
 そうやって親しく話をするようになって、秀俊はなんとなく皓己の視線に特別なものを感じることがあった。もちろん自分の気のせいだと思っていたのだが、皓己が自分でゲイだと云ったという話を聞いてから、妙に意識してしまうのだ。

 皓己が連れて行った店は、洒落(しゃれ)たイタリアンレストランだった。秀俊が同僚と行くような居酒屋とはかなり雰囲気が違う。どこか違和感を感じながらもテーブルに着いた。
「ここ、いいワインを置いてるんだ」
 秀俊の心中を察したかのように皓己はそう云ってちょっと苦笑した。
「ワイン嫌いだったか?」
「…いや。けど全然詳しくないんだけど…」
「俺(おれ)もべつにワイン通じゃない。うまいか不味いかってだけ」
 そう云うとちょっと笑って、給仕を呼んだ。
「俺が決めていいか?」
「任せるよ」
 皓己はメニューから顔を上げずに、確認するように頷いた。
「嫌いなものとか食べられないものとかあるか?」
 秀俊は黙って首を振る。
 皓己は給仕と相談しながらメニューを決めている。
 秀俊は周囲を見回して居心地の悪さを感じていた。自分たち以外のテーブルは、カップルか女性のグループだ。会社帰りに男二人で寄るには場違いな気がした。
「こういう店、あんまり好きじゃない?」
「え…」
「そういう顔してる。こういう気取った店でうまかった例(ためし)はないって思ってるだろ」
「…え、いや…」
「仕事の後はかーっとビールで焼肉だろって?」
 秀俊は思わず苦笑する。
「まあ確かにそっちのが気楽かな。あんまこういう店って慣れてないから…」
 その言葉に皓己はちらと秀俊を流し見た。
「…彼女と来たりしないのか?」
「え…、あ、まあ…」
 急に話を振られて、秀俊はいつものように適当にかわすことができなかった。皓己がそういう話をするとはまったく予想していなかったので、準備ができていなかったのだ。
「学生時代から付き合ってる彼女が居るって聞いたけど…?」
 探るように秀俊を見る。秀俊は思わずその視線から目を逸(そ)らした。
 皓己は口元で小さく微笑して、そしてずばりと切り出した。
「やっぱりそれってカムフラージュだったんだな」
「な、なんで…」
 つい吃(ども)ってしまう。そんな秀俊を見て、皓己はにやにや笑っている。
「彼女持ちってことにしとけば、女子社員から誘われて断わる口実探したりしなくていいもんな」
「そ、そんなこと云ったら秋山さんだって!」
「俺がどうかしたか?」
「部長に勧められた見合いを断わるのに、ゲイだって云ったって…」
 云ってしまった直後、秀俊は心から後悔した。これではまるで自分の方から話を振ったも同然ではないか。自転車を避けたつもりが自ら大型トラックに突っ込んでいったようなものだ。
「なんで知ってるんだ?」
「あ、いや、うちの課で秋山さんに恋人が居るかどうかって話題になったときに…」
「ふうん。けどあれってもうかなり前の話なんだけどなあ」
「あ、そうなの?」
 秀俊は曖昧(あいまい)に笑ってみせるのが精一杯だった。
「そういえば、あのとき部長は暫(しばら)く固まって動かなかったな。そんなに驚くことかね」
「…そ、そりゃ冗談にしては、凝りすぎてるからね」
「冗談なんかじゃないぜ」
 皓己はあっさりと返して、ワインをひとくち飲んだ。
「きみはわかってると思ってるけど?」
「ど、どういう…」
 つい吃ってしまった秀俊に、皓己は薄く笑ってみせた。
「恋人は今は居ない。けど、狙ってるヤツは居る」
「……」
 秀俊はヘビに睨(にら)まれたナントカの状態だった。
「誰って訊(き)かないところを見ると、きみはもうわかってるんだ」
 秀俊は慌ててワインを流し込んで、激しく噎(む)せた。
「…俺と付き合ってみる気はない?」
「な、なんで俺が」
「だって、きみストレートじゃないだろ」
 秀俊は否定しようとして、それが無駄なことを知った。
 なんと返事したものか考えるより先に、ふと口をついて出ていた。
「…俺、好きな奴が居るんだ」
「え…」
 はぐらかされるだろうと思っていたのに、突然真面目(まじめ)な答えが返ってきて、皓己の方が躊躇(ちゅうちょ)した。
「もっとも、そいつはもうじき結婚しちまうんだけど」
「……」
「大学の同期で同じサークルに入ってて、でもずっと片思いなんだ。我ながら情けないけど…。向こうは付き合ってる女も居たし、そういう世界とは縁のないタイプだったからなあ…」
 しかしそれがまさか自分の弟のことだったとは、このときは皓己の方もまさか考えもしなかった。


「…秋山さんが透(とおる)の兄貴だとは思わなかったよ」
 秀俊はそう云って、大袈裟(おおげさ)に溜め息をついてみせた。
 それは皓己にとっても同じだった。彼は黙って運ばれてきたコーヒーに口をつけた。
「全然似てないし、第一名字が違ったからなあ」
「…俺が小学生のころに両親が戸籍の上だけの離婚をしたんだ。二人の主義でね。それで俺は父親姓、透は母親姓を名乗ることになったんだ」
 秀俊は納得したように頷いた。
「まあ、透とは歳も離れてるからあんまり話をすることもなかったんだよな。友達の話とかもあんまり聞いたことなかったから…」
 秀俊が透と知り合ったときには皓己は既に就職していて実家を出ていたから、よけいにそういう機会はなかったのだ。
「…透は俺がそんな気持ちでいるなんて思ってもないだろうと思う。俺もこの先ずっと云うつもりはないし」
「ずっと隠しておくつもりか? 自分がゲイなことも?」
「できれば」
 皓己はくすっと笑った。それを見て秀俊は眉(まゆ)を寄せた。
「だから、あんたにも黙っててほしい」
「そんなに重大なことなのか?」
「俺にとってはそうだ」
「なるほど。それじゃあ俺はおまえの大事な秘密を手に入れたってわけだ」
 皓己の言葉に、秀俊はまた自分が墓穴(ぼけつ)を掘ったことに気づいた。が、今更(いまさら)手遅れだ。
「…あいつに喋(しゃべ)るつもりか?」
「それはおまえ次第だな」
 にやにや笑って返す。明らかにこの状況を楽しんでいるのだ。
 秀俊は一緒に仕事をするようになって皓己を尊敬しかけていただけに、こんなふうに交換条件をつきつける彼に心底がっかりした。
「それじゃあ、俺はあんたに何をすればこのことを黙っててもらえるのかな」
「こういう場合って、たいていの場合要求はひとつなんじゃないのかな?」
 涼しい顔で答える皓己に、秀俊は露骨に顔を顰めた。
「…あんたと付き合えってこと?」
「いやなら断わっていいんだよ」
 皓己はしゃあしゃあと返す。
「俺が断われないのを知ってて、よく云うよな」
 秀俊は不快感を隠そうともせずに、吐き捨てるように云った。しかし皓己はそんな秀俊の反応をおもしろがってさえいるようだった。
「それほど透に知られたくないんだ」
「……」
「あいつはそんなことで偏見なんか持たないぞ。おまえだって友達ならわかるだろ」
 皓己の顔からおもしろがるような笑みが消えていた。
「そうだ。透はそんな奴じゃない。ただ、俺が隠しておきたいだけだ」
「どうして?」
「…あいつとは、ずっといいトモダチをやってたいんだよ」
 そう云って自嘲(じちょう)を洩らす。
「透が幸せならそれでいい。あいつを困らせたくないし、ずっと俺のことを友達として信頼してほしい。それだけだよ」
 皓己は暫く黙っていたが、コーヒーを飲み干すと胸ポケットからメモを取り出して秀俊の前に滑らせた。
「ケータイの番号。いつでもいいから電話くれ」
 それだけ云うと、伝票を持ってテーブルを離れた。