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 どこにでもある恋の話
 むすばれる恋の話
 はぐくまれる恋の話
 どこにでもある恋の話 番外編ショートストーリー
  あとがき
 どこにでもある恋の話

 ――君のいた場所から、君と俺との間に芽生えたものの意味を探している。

   ACT1

「君、一人?」
 いかにも軽やかな声をかけられ、宮木(みやき)秀夜(しゅうや)は顔を上げる。
 カウンターを滑るように近づいてきて、隣のスツールに腰掛けたのは、秀夜より四、五歳は年上の男だった。
 秀夜の返事を聞かずに、間を詰めてくる。初めて見る顔だ。でも、この店がどういう場所かよく知っていて、場にも馴れている人間の動きだった。
 秀夜がいるのは、明かりをぎりぎりまで落とした静かなバーだ。酒落た衣服を身にまとい、仕草も洗練された二十代から五十代くらいまでの男たちが、人待ち顔で酒を飲んでいる。
 夜を過ごすにふさわしい相手が現われないか、と。
 秀夜も、そんな男たちの群れに、上手く交じっているつもりでいた。
 このバーに通いはじめて、もう半年ほど経つ。
 自分でも、愚かなことをしていると思う。でも、そうせずにはいられなかった。
 ここがなかったら、どうなっていたかはわからない。ぱんぱんに張りつめていたなにかが、あらぬ形で弾けていたかもしれない。
 はじめてこの店に辿りついたとき、泣いてしまったことを覚えている。
 演劇をやっている知人が教えてくれた、よく染まるカラーリング剤で髪の色を変え、トレードマークみたいにかけている度の入っていない眼鏡をはずしていた秀夜は、「奈々生(ななき)さん」とマスターに呼びかけられた。
 自分ではない人の名前で。
 その瞬間の、胸の鼓動、たかぶり、泣きたいくらいの激情を、言葉で表すのは難しい。
「はい」と答えたのは、悪趣味なジョークでもなんでもない。秀夜は真剣だった。
 彼に近づけたような気がしたから。
 それほど、彼に焦がれていた。
『奈々生』に。
 今は亡き人の影を、自分の中に追わずにはいられないほど――。


 それ以来、この店の中でだけ、秀夜は『奈々生』だ。
 秀夜の欺瞞(ぎまん)につきあってくれる、ここは優しい場所だった。

   ***

 カウンターに頬杖をついた秀夜は、柔らかな体温を意識した。
 我に返る。
 他人の気配はいつも、生々しい。
 はじめてこの店を訪れてからずっと、秀夜は一人で時間を過ごしている。ここでそうすることが、どういう意味を持つか知っていながら。
 見知らぬ相手が近づいてこようとすることは、何度もあった。
 たとえば、今のように。
 一緒に店を出ようと、誘われたこともある。その先に待っている色めいた時間を、ほのめかされながら。
 けれども、秀夜は誰の話にも乗ったことはない。
 このバーの中で話をするのは構わない。しかし、それ以上の行為は、いまだ受け入れられそうになかった。
 考えるだけで、身が竦む。そのたびに、自分は奈々生とは違うのだと痛感する。そして、自分とは違う彼に想いを馳せて……「どうして?」と想い出の中の彼(か)の人に問う。
 最近は、秀夜はなかなかなびかないので落としがいがあるという話が、この店の常連の間で出回っているようだ。そのせいもあってか、秀夜に声をかけてくるのは、遊びなれていて、相手を口説き落とす過程すら楽しめるタイプの男たちばかりになっていた。
 秀夜が一瞥(いちべつ)すると、今夜声をかけてきた男は明るい表情で笑いかけてくる。
 この店でよく見るタイプとは、少し雰囲気が違った。
 年齢も社会的立場も千差万別とはいえ、この店に通う男たちには、共通した夜と陰の気配があった。常日頃からそういう人たちなのか、それともこの店の中にいるからなのかはわからない。押しつけがましくない程度に欲望が漂うこの店は、その手の男たちにふさわしい居場所のように思う。
 だが、今、秀夜の隣に腰を下ろしているのは、精悍(せいかん)な頬に、からりと明るい朝の光のようなさわやかな笑顔を浮かべている青年だ。
 彼からは、夏の日の香りがした。
 表情が豊かだから、まずそちらに目を惹かれる。けれども、顔の造作自体も悪くない。引き締まった口元からは、知性が感じられた。
 いい男なんだろう、と思う。
 とは言っても、欲望が湧くわけではない。秀夜のそういう感覚は凍りついている。
「乾杯、しない?」
 ハイボールのグラスを掲げ、彼はほほえむ。
「しなければいけない、理由がない」
 低く声を作って、秀夜は冷ややかに言う。それに、警戒もしていた。他人と接するときは、相手がどういう人間であれ、こうなってしまう。癖みたいなものだった。
「出会いに感謝するってのはどうかな」
 男はいたずらっぼく笑った。
「あなたと出会えたことが、感謝に値すると? しょってるな」
「感謝したくなるくらい、仲良くなるってことさ」
 秀夜のつまらない皮肉に、男は屈託(くったく)なく応える。上手く受け流された。あしらわれているな、と気づく。どれだけ大人ぶっていても、秀夜は所詮、経験値の浅い若造だ。
「それに、俺にとっては、ふたたび出会えた奇跡は、乾杯に値するくらい嬉しいよ。あんたみたいな相手、なかなかいないし。いつも、そう言ってたじゃないか」
「え……」
「奈々生、だろ?」
 男は甘さを含んだ眼差しで、秀夜の顔をのぞきこんできた。
 その黒い瞳には、歓喜が踊っている。
 感情の起伏が見えにくいと言われる自分の瞳とは、まるで同じ体の部位に思えないほどに、彼のそれは生き生きとしていた。
「少しやつれたか? 別人かと思ったよ」
「……っ」
 秀夜は、目を見開く。
 ――この人は、奈々生のことを知っている……?
 その名前を口の中で呟くだけで、心音が跳ね上がる。
 この店では、秀夜は『奈々生』だ。
 はじめて訪れたときにマスターにその名を呼ばれたことがきっかけで、自分の中ではそういうことにしている。もっとも、事情を知るマスターは、すぐに秀夜と奈々生が別人だとわかったはずだ。最初に「奈々生さん」と呼んだきり、今は「あなた」と呼ぶ。
 最初のインパクトで動揺したマスターだって、店の常連だって……――いや彼らだからこそ、秀夜が奈々生じゃないことはよく知っている。だから、たとえ他の客が秀夜について探りを入れたとしても、事情を知っている彼らは、「奈々生って言うんだよ」とは言わないはずだ。
 この店にいるときには、秀夜は『奈々生』のつもりでいた。客観的には奈々生として扱われているわけではないのかもしれないけれども、誰も「違う」とは言わないから。その曖昧さに甘えている。
 夜の中、秀夜と奈々生が二重写しになる。
 傍らの男は、本物の奈々生と接触があったようだ。とりあえず、彼本人から名前を聞いたことがある程度には、親しい仲なのだろう。
 けれども、奈々生がいないことは、もうこの世のどこを探したって会えないことは、知らないみたいだ。
 彼を想うだけで、胸が痛い。
 今にも涙がにじみそうで、顔を上げていられなくなる。
 秀夜が夜をさまようのは、奈々生に近づくためだ。でも、近づきそうで近づけない。彼を真似たところで彼自身にはなれないし、彼の気持ちはわからないままだ。
 けれども、他に行き場がない。気持ちも収まってくれない。だから、こんなことをしている。
 それにしても、奈々生が亡くなったことを知らない、彼の知人に会うのは初めてだ。
 こくりと、喉が鳴る。
 もしかして、彼ならば――。
 秀夜と奈々生の関係を知る人は皆、大人の配慮で口を噤(つぐ)む。この店のマスターも、奈々生の葬儀に来ていた彼の友人だという人たちも。
 しかし、なにも知らない隣の男には、秀夜に対してそういう配慮ができるはずがない。彼からならば、生身の奈々生がどんな人間だったかを感じられるのではないだろうか。
 そして、秀夜が奈々生に近づくための、道しるべになってはくれないか?
 少しでもいいから、奈々生のかけらがほしかった。
 奈々生は、いろんな人に愛されていた。目の前の男も、奈々生に好意を抱いていたからこそ、こんな目で秀夜を見つめるのだ。
 見られているだけで赤面したくなるような、甘い眼差しだった。そして、熱を感じる。秀夜には理解できない種類の、濡れたような感情を。
 ――あなたも、奈々生に触れられたの?
 問いかけは、喉で支(つか)えた。
 どくんどくんと大きな音を立て、心臓が脈打っている。
 体が熱くなる。
 それとともに、胸の奥がじくじくと痛みだした。そこについたままの傷は、いつまでも膿(う)んでいる。
 もっとも、そんな感傷を抱く資格は、秀夜にはないのかもしれない。奈々生とは遠く離れ、関係は断たれてしまっていた。同じ理由で責められるべきだったのに、家族を捨てることになったのは奈々生だけだ。
 どうするべきだったか、今でも答えは出ない。
 ……きっと、答えが出ないままだから、秀夜は奈々生の影を追い続けている。
「どうしたの、ぼんやりして」
 肩に、指の感触。ふと気がつけば、隣の男がさらに近くなっていた。
 奈々生だったらどうしただろう?
 そんなことを考えながら、秀夜は男に身を任せていた。
 奈々生は自分にとても近い存在だったが、一緒に暮らしていたわけじゃない。家族より遠く、友人より近い関係だった。彼について、知らないこともたくさんあった。
「もし奈々生だったら」と彼の思考をなぞると、彼になれるような気がする。そうすることで、奈々生の気持ちがわからないだろうか? 秀夜は、そんな夢を見ている。
 彼を知る人に寄り添うのも、奈々生に近づくためだった。
 彼はもういない。彼とは、二度と話はできない。だから、彼の気持ちなんて、永遠にわからないままなのだけれども。
 欲しているものが、本当にそれなのか。それは、秀夜自身にもわからない。けれども、焦がれるような強い情動が、秀夜を突き動かさずにはいられなかった。
 もしかしたら自分は、彼との別離のきっかけになった夜から、一歩も動けないままなのかもしれない。
 自分たちは従兄弟(いとこ)同士で、面差しは互いを映していた。しかし、柔らかい色の髪をして、いつも屈託なく笑っていた奈々生とは違い、表情が硬くて眼鏡をかけているせいで、秀夜はまず似ていると言われることがなかった。
 しかし、髪の色を染め、眼鏡をはずすことで、秀夜は奈々生に近づく。
 まるで、彼に重なるように。
 彼と同じ姿で、同じ名前を名乗って、彼が溶けこんでいた夜を歩く。そうすると、葬儀のときに会った人にはとても悲しい表情をされ、奈々生の死を伝え聞いただけの人たちには、信じられないものを見るような視線を投げかけられる。
 自分がしていることは、きっと奈々生を好きだった人を傷つけているんだろう。
 それでも、秀夜は自分を止められなかった。昼間の自分を隠して、夜には奈々生になる。彼を装う。
 しかしある意味、この姿こそ、秀夜のあるべき姿だったのではないかとも、思うのだ。
 両親に責められ、家を飛びだすべきだったのは、秀夜も同じではないだろうか……――もう何年も前から、その想いが秀夜を苛んでいた。
 自己嫌悪と罪悪感で、がんじがらめになっている。そして、身勝手な期待と疑問とが、そこに絡みついていた。
「……久しぶりに、俺の部屋にこない? それとも、あんたの部屋に……」
 低い声で耳打ちされ、秀夜は目を見開いた。
 ――部屋って……。
 つまり、男と奈々生とは、かなり親密な仲だったということなのだろうか。
 たとえば、体の芯に触れあい、熱をわかちあうような。
 そんな深い仲だったのに、どうして男は奈々生が亡くなったことを知らないのだろう。いわゆる、体だけのつきあいをしていたということなのだろうか。
 今までにも奈々生を知っている人とは、何度も会った。しかし、こんなふうに奈々生に触れたことをほのめかされたのは、初めてだった。
 たぶん、秀夜と奈々生のつながりを……――従兄弟であることを知る人たちは、遠慮してそういう話をしないのだろう。でも、それがよけいに、秀夜を焦れさせていた。
 ――この人と、奈々生が。
 とくんと、胸が鳴った。
 恋人ではなさそうだ。恋人同士ならば、さすがに奈々生が亡くなったことは知っているだろう。
 このバーは訪れる人々は優しく、奈々生の死もひそやかに語られて、葬儀には少なくない人たちが訪れて、悼(いた)んでくれていた。しかし彼は、そういうつながりもないような人なのだ。
「……なあ」
 首筋をなぞる指先には、馴れた気配。
 どういう反応を返したらいいのかわからなくて、秀夜はじつと固まってしまう。
 そのせいだろうか。どこか夜の背徳感をにじみださせている他の客とは違う、あくまでも陽性の男は、拗(す)ねたようにくちびるを尖(とが)らせた。
 いい年だろうに、そんな表情をすると、とたんに少年くさくなる。
「しつこい男は嫌いって言われそうだけど、久しぶりだしさ……。いいだろ?」
「……名前は?」
 秀夜は顔を上げると、首を傾げた。
 男は、天を仰ぐ。
 そして、小さく肩を竦(すく)めた。
「なに、そこから? まあいいか。仕方ないよな。慶太(けいた)だよ。あんただって、何度もそう呼んでくれたのに」
「慶太」
 名前を呼ぶと、男は目を細める。そうやって自分の名前を呼ばれるだけで、心地よくなれると言わんばかりに。
 ここにいるときの秀夜は、いつだって自分というものを消している。そうすることで、奈々生がこの体に下りてきてくれないかな、と馬鹿みたいなことを思うから。
 でも、精一杯仕草や口調を真似てみたところで、やっぱり彼にはなれない。
 どこまでいっても、秀夜は奈々生ではない。だから、本来は自分が向けられるべきではない感情を向けられると、罪悪感で胸がちくちく痛んだ。
 こと、恋という柔らかな感情については。
 言葉は軽い。態度も、さりげない。けれども、この慶太という男からは、奈々生への想いが感じられた。だって、眼差しが他の誰とも違う。とろんと蕩けるような、甘さを湛(たた)えていた。
 だから秀夜は、最後まで身勝手な演技を続けることができなくなる。
「俺――」
 くちびるをなかば開くと、ふいに慶太と名乗った男が目を眇(すが)めた。
「あれ? 君、奈々生じゃないな」
「……っ」
 気づかれた。
 秀夜は目を見開いた。
 奈々生の死を知らない人なら、見わけられないと思っていた。実際に、この店のマスターにたしなめられたこともある。あまりにも似てるから、きっと気づかれないだろうから、秀夜のためにも、なにも知らない人のためにもよくない、と。
「……ごめん。俺、やっちゃったなあ。この店に来るのも一年以上ぶりで。あいつ……――奈々生にも、ずっと会ってないんだ。俺の知りあいなんだけど」
 男は、息をついた。
「ていうか、君、その格好わざとだろ。たぶん、彼の知りあいだよね。もしかして、血がつながってる?」
「気づかれないと、思っていました」
 小声で、秀夜は呟いた。
 男は、怒っているふうでもない。そのことに、肩から力が抜ける。奈々生みたいに振る舞っているときは、いつもほど神経質にはなっていないけれども、やはり他人に負の感情を向けられるのは怖い。
 こんなことをしているくせに、とても自分勝手な感情だけれども。
「俺は、宮木秀夜。奈々生の従弟です」
「なるほど……」
 男は、納得したように大きく頷いた。
「従弟、か。どうりで、似ているはずだ。よく見れば、年もちょっと下っぽいな。奈々生に聞いて、ここに来たの?」
 セックスの誘いをかけてきたくせに、ふいに彼は説教口調になった。
「まさか、未成年じゃないよな」
「二十一歳です」
 秀夜は、正直に答えた。
「そっか。そりゃよかった」
 本当に安心したような口調になったので、秀夜は首を傾げる。
「そういうの、気にするんですか」
「まあね、一応。立場上……」
 男は、口の中で小さく呟く。そして、なんとなくほろ苦い笑みを浮かべる。
「それはそうと、奈々生は元気? まだ、こういうところで遊んでるのかな」
「……っ」
 言葉は喉で支える。
 この場で、男に奈々生のことを話すのはためらわれた。
 店に来るのも一年以上ぶりだというこの人は、奈々生の死を伝え聞く機会もなかったのだろう。また、店の人たちも、連絡を取るすべもなかったか、必要を感じていなかったのか。奈々生が好きで、何度か関係を持ったけれども、この男は友達でも恋人でもなかったということだろうか。
 奈々生はもともと社交的な性格をしていた。家を出る前から、そうだった。男は、奈々生の華やかな人間関係を彩る、パーツのひとつでしかなかったのかもしれない。
 けれども、この男ならば。
 奈々生の死を知らない人なら、もしかしたら秀夜に教えてくれるかもしれない。
 他の人が教えてくれない、奈々生のことを。
 奈々生も触れただろう、男の肌を意識する。
 ……秀夜に熱を教えてくれたあの指先は、男との間にどんな熱を生んだのだろう?
 これまで、たくさんの奈々生を知る人と接してきた。けれども、彼らからどんな話を聞いても、秀夜は満足できなかった。
 それはたぶん、秀夜が知りたかったのは、奈々生の人柄だとか、家を出てからどんな生活をしていたかだとか。そういうことではないからだ。
 奈々生との永遠の別れになった夜に、いまだ秀夜は置き去りにされている。
 秀夜の中の奈々生は、あの夜の彼。従兄ではなく、まったく他人の顔を見せて、そして……――触れてきた。

『なにも怖いことはないよ』

 蠱惑(こわく)的な声だった。魅入られたように身動きがとれなかった。喉がからからに乾くほど緊張していた秀夜の体に、奈々生は火をつけた。あまりにも魅力的すぎる指先に、どうしたらいいのかわからなくなった。
 思いだすだけで、今でも肌がざわめく。
 あの夜。
 奈々生に触れられたことで生まれた熱や、その正体。どうして彼があんなことをしたのか、とか。そういうものたちが、秀夜がなによりも知りたい『奈々生』だ。
 奈々生の死と、秀夜との関係を知る人たちが、慎重に秀夜の前から取り除いてきた彼の一面に属するだろう、それ。
「奈々生のこと、聞きたいですか?」
「なんだよ、焦らすなあ」
 気を悪くしたわけではなさそうで、男は明るい笑みを浮べていた。ちょっと面白がっているのかもしれない。そんな男へ、秀夜はためらいがちに言葉をぶつけた。
「……もし、教えたら」
「ん?」
「奈々生にしたみたいに、俺にもしてくれますか?」