立ち読みコーナー
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 鼓動
 Blessing
 残響
 ミニラフ画集 わかな
あとがき
 Blessing

(中略)

 先週末に引っかけた男は、本庄(ほんじょう)と名乗った。たぶん本当の名前だろう。偽名を名乗る知恵もなさそうな男は、ことさらオレの肌に執着を見せた。
 二時間と最初に言い渡した時間のほとんどを、身体中を舐(な)め回されることで過ごした。
 少し気味が悪いと思ったのも事実だが、闇雲(やみくも)に突っ込まれるよりははるかに楽な客だった。
 時間切れだから、この先はまた今度ね。いざと脚を抱え上げられた時に意地悪くそう囁きかけてみたら、驚いたことに肩を落としながらも本当に従おうとした。
 あんたバカ? 嘲笑いたいのを我慢して、ウソウソ最後に一回だけやらしてあげると宥(なだ)め賺(すか)して。
 いったん萎(な)えた男のモノが息を吹き返すのにも時間がかかったが、最後を迎えるまでもやたらと長かった。
 今度は舐めるのはほどほどにしなよと言ってやらなきゃなと男のションボリした姿を思い浮かべて唇から小さな笑みが漏れた。
 一見の客は怖い。リスクを最小限に抑えるために、同じ客と何度も寝る。そして熱を上げ始めたと感じたら、決して誘いには乗らないようにする。
 父親に抱かれてから数ヵ月経った頃。家に帰るのが嫌で嫌で、声をかけてきたどこの誰ともわからない男に抱かれた。
 同じ行為をしているというのに、血の繋がりがないというだけでこんなに気持ちいいなんて。
 初めて触れる他人の性器も、あの男のものじゃないとわかっていれば咥えることさえ厭(いと)わしくない。
 たったの数時間。猶予(ゆうよ)はそれだけ。
 それでも帰宅を少しでも遅らせようと、夜の街で相手を探す日がどんどん増えていった。
 自分がつけた覚えのない場所に、あきらかなセックスの痕がある。
 見せつけるように目の前で肌を暴いていく息子を、あの人はどんな思いで見ているのだろう。
 どんよりと濁った瞳(ひとみ)の中に答えは見いだせなくて、朝の光の中では尚更だった。
 朝食の席で顔を合わせるたびに、前夜のあさましさを思い出して顔が強張るのはオレだけ。
 酒と一緒に身体から流れ出してしまったかのように、淫蕩(いんとう)な気配なんて微塵(みじん)も感じられない父親は、にっこり微笑(ほほえ)んでオハヨウと声をかけたりする。
「おはよう……」
 今朝も意地を張って声にできなかった挨拶(あいさつ)を、今さらながら口にしてみる。
 ガラッとドアが開け放たれたのはちょうどその時で、もしかしたら今の間抜けな挨拶が聞こえてしまったかもとオレは一人で顔を赤らめた。
 カーテン越しに人が動く気配。時折窓の明かりを遮るその影から、かなり身体の大きな奴だとわかる。
「先生?」
 周囲を見回して保健医の姿を求めるその声に、同じクラスの藤木(ふじき)だと気づいた。
「先生? いないんですか?」
 出かけていると伝えるべきか。体育をさぼっていることはもちろん彼にもわかるだろうが、隠れているわけでもあるまいしと、声をかけようとした時だった。
「勝手に借ります。すいません」
 いもしない相手にことわりを入れる律儀さ。
 同じクラスになって半年。ろくに言葉も交わしたことがなかったが、どうやら無愛想で無口なんて周りの評価はあてにならないらしいと思った。
 腕時計は九時を少し過ぎたばかりの時間を指している。本当なら授業中のこの時間に藤木がここに現れたのは、きっと何かヘマをやらかして怪我をしたためだろう。
 時折漏れ聞こえる舌打ちと、痛みを堪えているような小さな呻(うめ)き声からそれが伝わってくる。
「……てっ」
 ああもう。聞いてるだけでイライラする。オレはベッドの上で身を乗り出して、間を遮っているカーテンを勢いよく開けた。
「え? 澄川?」
「何やってんのさ」
 苛立ちは顔には出さない。いつもと同じ、具合が悪くなるのもしょうがないなと思わせるための弱々しい笑顔を浮かべて。
「いや、ちょっと壁に擦(こす)って……」
「何それ。うわ……」
 苦労して包帯を巻きつけようとしている右手は、甲の部分が思いっきり擦れて赤黒く血が滲んでいる。
 利き腕を手当するなんて器用なまねができそうもない左手は、グルグルとみっともなく汚れた布地を産み出しているだけだった。
「藤木、そこって消毒した?」
「い、いや、してない……」
 バカじゃないの、こいつ。見るからにゴミもバイ菌もいっしょくたに塗り込められていそうな傷口に、眉(まゆ)を顰(ひそ)めて立ち上がった。
「おまえさ、ちゃんと消毒しとかないと後で困るぞ」
「いや、だって、あんまり勝手に弄(いじ)ったら悪いかなって思って……」
「だったら先生戻ってくるまで待ってろよ」
 見せてみ。短く告げて向かいのイスに腰を下ろす。手に取って傷の具合を確かめると、案の定擦った瞬間に剥(は)がれ落ちたらしい細かな壁材が入り込んでいた。
「おまえなー、これ出さないとこのまま傷口塞がっちゃうよ」
「だ、出す?」
「ちょっと痛いけど我慢な」
 入り浸っているだけあって、勝手知ったる保健室。ガラス瓶の中から消毒済みのピンセットを取り出すと、オレは藤木が思いっきり痛そうな顔つきを見せるのにも構わずに、グリグリと傷口を抉(えぐ)った。
「おい、ちょっと……っ」
「我慢しろって言っただろ」
 自慢じゃないが、母親がいないせいで家庭内の細々した作業をしなきゃならない指先はけっこう器用に育っている。
 顔をめいっぱい近づけて、消毒を繰り返しながら細かな破片を取りのぞくくらい造作もないことだった。
「こんな感じでいいかな」
 最後にフーフーと息を吹きかけて傷口を乾かし、一丁上がり。
 何かないかと棚を眺めて、化膿(かのう)止めの軟膏(なんこう)を見つけ出したオレは、手の甲いっぱいにそれを塗りつけてガーゼで覆った。
 包帯を巻くのも、両手が使えるならどうってことない作業だった。
 目を丸くして眺めている藤木を放って、クルクルと手際よく傷を包んでいく。
「なんで壁なんかに擦ったんだよ」
「いや、今朝来る途中にちょっと変な奴らに絡まれて」
「ああおまえ、けっこう喧嘩(けんか)とかするもんな」
 噂(うわさ)によれば、本人の意思とは関係なくの巻き込まれ型。図体(ずうたい)のデカさが災いして、どうにもその手の人種に目をつけられやすいらしい。
 教室の中で一人仏頂面を晒(さら)している姿からは、その噂の信憑(しんぴょう)性を毛ほども信じていなかったが、こうやっておとなしく包帯を巻かれている姿には頷ける。
 へえ、器用なんだなとたかがこんなことに目を輝かしている藤木に、ちょっとだけ気恥ずかしくなった。こんなお節介をするなんてどうかしている。
「か、かさぶたついてきたら、包帯は剥がしておいたほうがいいからな」
「うん。ありがとう」
 どうもでもサンキューでもなくもちろん礼もなしの無礼でもなく。素直なそんな言葉を貰って、オレはわけもなく顔が赤くなるのを感じた。
「澄川、また具合悪いのか?」
 だから大して意味もなく、きっとどちらかといえば社交辞令でそんな問いかけをされて、嘘をついている自分が恥ずかしくなった。
「う、うん。ちょっと熱っぽくって」
 どら、と額に当てられた手は、間抜けなことに包帯を巻いた手だった。そんなのでわかるはずがないだろうと飛びのいたオレと、自分の手のひらを交互に見つめる藤木。
 一瞬ドクンと高鳴った胸の鼓動は気の迷い。そんなはずがあるかと動揺を押し隠すようにふわふわと心の籠もらない笑みを浮かべてみせる。
「風邪みたいだから伝染(うつ)るかもよ」
 意地悪く言って追い出そうとしたのに、大丈夫か? なんて酷く心配そうな顔を見せられて、オレの心臓の鼓動はもっと激しくなった。