立ち読みコーナー
目次
269ページ
煩悶
裏切
疑惑
恋情
 あとがき
 ――千野悟がソニックに勤めていたことも大きな手助けになったようではあったが――。
 名刺の名前を指先で――まるでその名前の持ち主の、なめらかな頬《ほお》を撫《な》でるように――やさしく愛おしげに辿り、桐島は煙草に手を伸ばした。普段は煙草を口にしない桐島だったが、彼を思い出すと吸わずにはいられない。彼ならば自分が守ってやる必要も、心配してやる必要もないとわかっているからこそ、気分がザラつく。
 もしも彼がただ綺麗なだけの頼りない男だったなら、大企業で働くには不器用な男だったなら、きっと自分は彼を手元に置いただろう。たとえ何年かかっても――彼の心が自分に向けられるまでかぎりないぬくもりと愛情だけを注いだだろう。
『――わたしを、利用するんですか?』
 無情にもソニックへ行くようにと告げた自分に、表情のない瞳で訊《たず》ねた彼。
『そのために、あなたはわたしにヤチホを紹介してくださったんですね。仕事を教えてくださったのも…』
 違うと言っても、信じてはもらえなかっただろう。愛していると告げたところで何になった? 彼に憎まれているというのに――。
 短くなった煙草を灰皿に押しつけ、目頭を押さえる。彼を愛しいと思う心が、彼に憎まれているという現実を受け止めかねて悲鳴をあげている。
「仁…、愛している――」
 決して彼には告げられないだろう言葉を呟《つぶや》き、桐島は苦く笑った。

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