立ち読みコーナー
目次
224ページ
今宵殺し屋とキスを   7
あとがき        221
12ページ~
 いや、ヘタり込んでる場合じゃない。逃げなきゃ。
 目撃者がいるとわかったら絶対殺される。俺はこんなところで死ぬために今まで頑張ってきたわけじゃない。
 俺は天寿をまっとうすると決めたんだ。
 足に力が入らないので、俺は仕方なく這いつくばりながらその場を離れ……ようとしたのだが、数歩進んだ目の前には足があった。
「腰、抜けちゃった?」
 気の抜けるような陽気な声。
 顔を上げようとすると、頭上から声が降った。
 「ああ、顔上げると生き延びる確率が減るよ?」
顔を見るな、ということか。
 俺は言われた通り顔を上げるのを止めた。なので目に入るのは黒い靴とズボンだけ。
「あの男の連れ?」
「い……いいえ……」
「じゃ、たまたま通りがかっただけか」
「は……はい……」
「不運だったね」
 男はしゃがみ込んだ。
 血に濡れた銀のナイフが視界に入る。
「でもわかるだろう?」
 恐怖で総毛立った。死にたくない。
「ターゲット以外を手に掛けるのは不本意だけど、俺もケーサツには捕まりたくないからね。とはいえ巻き込まれたことは可哀想だから、今俺が叶えてあげられることがあったら叶えてあげてもいいよ?」
 彼の口調が軽くて、何げないことが余計に怖い。この男にとって『殺す』ということは怯えるものでも、強い決意を必要とするものでもないという証拠だから。
「何もない?それじゃ……」
「友達になってください!」
「……は?」
「友達になってください」
「俺と?どうして?殺人犯のオトモダチが欲しかった?」
「そうじゃない。殺されたくないからだ」
「殺されたくないから友達になる。結構変わった提案だね」
「あなたが……俺を殺すのは、俺が警察に通報すると思っているからでしょう。でも俺は友達なら秘密を守ります」
「キミ、友人なら殺人者でも匿うタイプ?」
「いいえ、……悪いと判断すれば通報します」
「じゃダメじゃん」
「でも、納得するまでは黙ってます」
「納得って?」
「どうしてそんなことをしたのか、です」
 まだ顔を上げることを許されなかったので、話し相手は黒い靴だ。けれど、言葉を交わしているうちに少しずつ落ち着いてきた。
「今納得してないの?」
「してません。どうしてあの人を殺したんですか?」
「依頼されたから。俺ね、殺し屋なの。殺人代行者」
「何でそんなことをしてるんです?」
「お金のため」
「どうしてそんな方法でお金を稼ごうと思ったんです?」
「この方法が一番自分に合ってたから、かな?」
「辞めたいと思わないんですか?」
「思わないねぇ。他に稼ぐ方法知らないし」
「人を殺しても後悔はないんですか?」
「ないよ」
「どうして?」
「どうしてって……、そうだな、俺が殺るのは悪いヤツばかりだからかな。正義の味方を気取るつもりじゃないけど、良心の呵責は大分減る。それに、人の死って、避けられないものだろう?キミだって俺だって、今ここに飛行機が落ちてきたら確実に死ぬ。俺は単に死ぬ方法の一つでしかない」
「殺される人は生きてたいと思うかもしれないじゃないですか」
「自殺する者以外はみんな『死にたくない』と思いながら死ぬだろうね。そろそろ納得した?」
「いいえ。納得できません。他人の都合で殺されることを納得したら、俺は生きていられません。あなたの言う通り、殺人は死ぬ原因の一つかもしれないけど、それは許してはいけないことだから」
「どうして人を殺しちゃいけないんだ?」
「人が群れる生き物だからです」
「群れる生き物?」
「人は一人では生きていけない。コミュニティを形成して生きるものだ。生きていくためには『みんな』で生きていかなければならない。個人的な理由で殺人を許すのは生物としての人間自体を殺すものだからです。だから『生きていたい自分』を守るためにも殺してはいけないというルールがあるんです」
「殺される者が既に殺人を犯していたら?」
「それが悪いことだと本人に自覚させてからなら、排除されるのも仕方ないと思います。ただその理由が利己的なものでなければ、罰を与えるだけで生存は許すべきです」
「……澱みなく答えるねぇ、面白い。財布出して」
「財布?」
「早く」
 この状況なので、言われるままに俺はスーツのポケットから財布を出して彼に渡した。
武器はナイフ一本だし、体格も自分とそんなに変わらないように見えるけれど、彼は人を傷つけることには慣れている。抵抗する方が危険だろう。
 黒い男は俺の財布を開け、中を見た。
「所持金は一万三千円か。あんまり裕福じゃないな。ポイントカードにキャッシュカード、ああ、社員証があった。キミ、日高隼人クン?」
「……はい」
 彼はスマホを出して俺の社員証の写真を撮った。殺し屋でもスマホ持つんだ、と変なことを考えてしまう。
「免許もあるね。……原付きだけ?」
「写真付き身分証明書になるので」
「なるほど。日高クン、まだ生きていたい?」
「はい」
 当然だ。
 彼は俺の目の前に財布を投げた。
「じゃ、いいよ。お試し期間でオトモダチになってあげる」
「え?」
 一瞬耳を疑った。
「家、近所なんでしょ?今すぐ帰りな」
「……いいんですか?」
「面白いから、いいよ。でも少しでも変な素振りがあったらそこでオシマイだから」
手が差し出され、何の意味かと考えていると腕を掴まれて立たされた。
「真っすぐ帰ってね。キミが思うより、俺ってスゴイから。あ、俺のことはシンって呼んでいいよ」
「シン?」
「そ。じゃ行きな。またね」
掴まれていた腕を中心に、振り回すように出口へ向けられる。
「俺の家の出口はあっちです。振り向いていいですか?」
「いいよ」
 振り向いたけど、彼の顔はよく見えなかった。
 細身で、俺より背の高い黒い男。
 油断させて殺されるのかな。不安になりながらも、動かないという選択肢はなかった。
「バイバイ」
 最後まで、男は軽い口調で俺を送った。
 足にはまだ力が入らない。
 殺人の現場から離れるに従って、これが現実のことかどうかわからなくなってくる。
 いや、現実だ。
 現実っていうものは、時としてマンガか小説みたいなものだってのをよく知っているじゃないか。『事実は小説よりも奇なり』って言葉もある。