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嫁にこい ~あやかし癒し~ 7
あとがき 222
82ページ~
タイル張りの壁から白い手が出て、捻ることができないように蛇口を押さえていた……ようにしか見えなかった。
若葉が悲鳴を上げると、それが合図になったかのように蛇口を捻り、勢いよく水が溢(あふ)れ出したのだ。
信じてもらえないかもしれない、などと考える余裕もなく必死で怪奇現象を訴えた若葉に、龍は笑うでも聞き返すでもなく、ポツリとつぶやいた。
「からかわれたんだな」
「なにがっ。っつーか、手だけがニョキッと生えてたんだぞ! 朝っぱらから、ゆ、ユーレイ……見ちゃった」
ひび割れたタイルには、くすんだ銀色の蛇口へと繋がる水管が埋まっている。
間違いなく、そこから青白い女のものらしい手が伸びていて、蛇口を押さえていた。
あの異様な光景を、誰かに「からかわれた」の一言で終わらせられるものか。
「幽霊ではなく、妖怪だ。この家に虎以外の人間がいることが、物珍しいんだろうなぁ。しばらくしたら飽きるだろうから、少しばかり我慢しろ」
「よーかい……? ワケ、わかんねーよ」
龍が言っていることの意味も、自分の目の前で起きた非現実的なことも……。
はー……と特大のため息をつくと、考える努力を放棄して背後に立つ龍に遠慮なく背中を預けた。
体格では龍に劣(おと)るが、手放しで体重をかけるとそれなりに重いはずだ。でも龍は、大して負担を感じているようではない。
足元をふらつかせることもなく、背後から若葉を抱えた体勢のまま器用に食器の泡を洗い流し、蛇口を閉める。
水の流れる音が止まって静かになると、ようやく若葉の頭に思考力が戻ってきて現実感が押し寄せてきた。
「……男の胸を撫で回して楽しいか」
身体を支えてくれたのはありがたいが、さり気なくセクハラを仕かけてくる背後の男に、低い声で苦情をぶつける。
首を捻って更に文句を続けようとした瞬間、目の前が暗く翳(かげ)った。
「っ……なにしやがる!」
気のせい……ではない!
間違いなく、唇にやわらかなものが触れた。この状況と位置関係からして、龍の唇……としか思えない。
長い腕の中から離れようとジタバタしても、龍の手はガッチリと若葉をホールドしていて逃れられない。
腹のところに回された腕を「このヤロ」と毒づきながら叩いていると、頭のすぐ脇で飄々(ひようひよう)とした声が聞こえてきた。
「なにって、接吻(せつぷん)だが。皿洗いを引き受けたことに対する、礼をもらった。良きことも悪きことも、代償が生じるのは世の理(ことわり)だ」
「それくらい無償でやれよ、ケチ!」
「我らと人を同じに考えるな。まぁ……さすがの俺も、嫁には少しばかり甘くなるか」
そう言いながらギュッと両腕に力が込められて、若葉は眉間に深い縦皺を刻んだ。
ジタバタと足掻(あが)いていた若葉が動きを止めたせいか、龍の声が調子づいたものになる。
「若葉はもう大人になったんだろう? 嫁と微笑ましい触れ合いをするのに、問題はないはずだ」
「だから、なんでおれを嫁と認識しているのか、そこから説明してもらおうか」
繰り返し『嫁』呼ばわりされることに、腹立たしくなるよりも疑問のほうが大きくなる。
背後に首を捻り、間近で見ても尋常ではなく整った憎たらしい顔を睨んだ。
「ははは、俺の嫁は照れ屋だな」