立ち読みコーナー
目次
322ページ
月とナイフ     7
あとがき      318
39ページ~
「もう部屋に引き上げるのか?」
 突然背後から腕を掴まれた時は、身体が凍りついた。
 振り返るまでもなく、それが誰かということは明白だ。この甘く響く艶やかな声もグリフォン・ラドフォードの魅力の一つなのだ。
 広間を離れ、これで安心だと気を抜いていたのが悪かったのか、こんなに近づかれるまで気配を感じることもできなかった。
 彼はいったい、何を思って追いかけてきたのか。
「少し頭が痛むので、部屋で横になることにしたんだ」
 カグヤはぎこちない動きで振り向き、シャーロットに告げたのと同じ理由を口にする。グリフォンはその言葉を信じたのか、口許に浮かんでいた笑みをすっと消した。
「医者は呼ばなくてもいいのか?」
 神妙な顔つきで、グリフォンが訊いてくる。
 それにカグヤは口早に答えた。
「そこまで酷いわけじゃない」
 医師など呼べるはずがなかった。見かけは普通の人間とほとんど変わりはないが、診察を受ければ異質なことに気づかれてしまう。
「それより、私に何か用なのか?」
「急いで広間から出ていくから、気になったんだ」
 好奇心に駆られたのか、心配してくれたのかはわからないが、どちらにしてもカグヤにとっては迷惑でしかない。
「心配させたのなら悪かった。私はこれから部屋に引き上げるだけだし、もう気にしないでくれ」
 カグヤは素っ気なく告げて、掴まれたままの腕を取り戻そうとするが、グリフォンはそれを許さなかった。
「そういうわけにはいかない。あまり顔色もよくないし、途中で倒れたりしないように部屋まで俺が運んでいこう」
「な、何を馬鹿な……」
 とんでもないことを言いだしたグリフォンにカグヤは驚愕するが、次の瞬間には彼の腕に抱き抱えられていた。
 もうグリフォンとは接触しないつもりだったのに、これではいったいなんのために夜会を途中で抜け出してきたのかわからない。
「今すぐ下ろせ」
「駄目だ。おとなしくしていないと、舌を噛むぞ」
 カグヤの抵抗など軽く無視して、グリフォンは早足で歩き始める。この屋敷の中を熟知しているらしい彼は、迷うことなく客間のある西棟へと向かっていた。
 それに気づいたメイドが何事かと駆け寄ってきても、グリフォンは足を止めることなくカグヤの部屋まで案内を頼む。具合の悪いカグヤを運んでいるのだと匂わされ、メイドは慌てて先導に立った。
 子供でもないのにこんなふうに抱いて運ばれるなんて屈辱的だったが、人目のあるところで騒げば大事になってしまう。これ以上目立つのを避けるためにも、今は我慢するしか術がなかった。
「こちらのお部屋です」
 グリフォンはメイドが扉を開けるのを待って、カグヤを抱いたまま部屋に入る。そしてすぐにメイドに命じた。
「あとは俺がついているから、お前はもう下がっていいよ」
 主人の客からこう言われては、使用人は従うしかない。そうでなくても、グリフォンは笑顔一つで相手を操れそうだ。
「では、何かありましたら御呼びください」
 メイドは軽く御辞儀をして、静かに部屋から退いていった。頬が赤くなっていたのは、やはりグリフォンに微笑みかけられたせいだろう。
「もういいだろう。下ろしてくれ」
 カグヤは不機嫌なことを隠しもせず、口早に訴えた。グリフォンはわかったと応じながらも、そのまま足を進める。
 自力でなんとか下りようと藻掻いているうちに、カグヤの身体は柔らかなベッドの上に横たえられた。
「そんなに嫌だったのか?」
 睨むカグヤに、ベットの脇に腰かけたグリフォンは苦笑を浮かべる。
「当たり前だ。私は子供ではない」
「別に子供扱いしたわけじゃない。カグヤは色事に疎いんだな」
「どういう意味だ!?」
 確かに色事に疎いという自覚はカグヤにもあるが、それを今この状況で指摘される理由はわからなかった。
「つまり、こういうこと」
 カグヤの頭の両脇に手をついたグリフォンは、いきなり唇を奪ってきた。重なった唇の熱さに身体が震える。どうしてもっと警戒しなかったのかと、カグヤは自分の迂闊さを呪いたくなった。
「……っ……」