立ち読みコーナー
目次
290ページ
ジャガーの王と聖なる婚姻    7
あとがき            284
39ページ~
 男は鷹揚にほほえんだ。
「では……キスをくれるか?」
「え……」
 首をかしげると、男は艶やかに微笑した。
「おまえのキスを」
「キス……? かまわないが、そんなものでいいのか?」
「ああ」
 うなずいて、男がほおに唇を近づけてきた。緊張して息を吸いこんだそのとき、男の唇がほおから唇へと移動する。
「ん……っ………」
 軽く触れるだけのくちづけだった。彼の身体から甘い薔薇のような香りが漂ってくる。ぎゅっと熱っぽい唇でふさがれ、思わず英智は硬直した。
「……っ…………あの……っん……っ」
 後頭部を男の手に抱きこまれ、くちづけされたまま人目を避けるように火焔樹の幹に背から押しつけられていく。
 さっきよりも濃く薔薇の甘い匂いを感じ、胸の奥にたまらない疼きが広がる。
 官能を刺激する匂い。さっきまで聴いていたすすり泣くようなヴァイオリンの音色が甦り、その香りと絡みあい、脳のなかで奇妙なほど蕩けあっていく。
 何だろう、肌がざわざわする。
 睫毛を揺らし、わずかにゆるめた唇の隙間に濡れた男の舌が割りこんでくる。
「……んっ……っ……ぁ……」
 これは何という甘美な芳香だろう。
 ただの薔薇ではない。ぼぅっと頭に霞がかかっていくような気がした。
 あの切なくなるような音楽、この男の神々しいほどの美貌、それに薔薇の匂いに酔ってしまったのかもれない。身体の奥をゆるく溶かしてしまいそうな香りにくらくらとなった瞬間、英智ははっと目をひらいた。
(え……っ)
 一瞬、目に入ったこの影に、心臓が跳ねあがりそうになった。
 燃えるような火焔樹の真紅の花が風でゆらゆらと揺らめいている下で、この男のむこうに大型のネコ科の肉食獣——ジャガーらしき獣の影が見えたのだ。
 しなやかな動き、優雅な存在感。美しい密林の帝王。幼いとき、密林でたまに見かけたジャガーのような生き物がそこをよぎっていくシルエット。豹のような斑紋のない黒いジャガーだった。
「——っ!」
 とっさに男から顔を離し、英智は大きく目を見ひらいて石畳を見つめた。