立ち読みコーナー
目次
378ページ
アカノイト           7
あとがき            375
65ページ~
「吸血種の血には媚薬効果があるんだよ。子孫を残すために血を与えあって発情して、性交渉する。だけど頻繁に発情するわけにもいかないから、人間の血を主食にしている。たぶんお父さんは有理君が大人になってから話すつもりでいたんじゃないかな」
 唖然とした。人間の血が麻薬で、吸血種の血は媚薬。吸血種が命を繋いでいくのに必要な本能と営み——言われてみれば動物の生態として納得できなくもないけれど、自分の身体に流れている血が、そんな効果を持っていたなんて思いも寄らなかった。そんな、危険な。
「有理君は吸血種と寝たとき、相手に血を飲みあおうって誘われなかった?」
 平然と訊かれて狼狽する。表情にださないよう注意して、小さく深呼吸した。
「先生、は……じかに飲んだことがあるって、言いましたね」
「有理君はないの」
「その相手って、男の人なんですよね」
「まさか人間としかつきあった経験がないとは言わないよね」
「吸血種同士のセックスは、必ず血を飲みあうんですか」
「有理君がセックスした相手は、有理君に似てウブだったのかな」
 ……先生の声がにやけている。
「もしかして初恋を引きずり続けて、いまだに童貞だったりする?」
 奮闘も虚しく、先生が核心に迫ってきた。
「……初恋を引きずってたわけじゃ、ないです」
 最後の抵抗は、でも単なる肯定になった。
 人間だとか吸血種だとか、女だとか男だとかいう以前に、俺は誰かを好きになれない。
 さちの件以来他人を傷つけないよう距離をおいてきたし、離婚した両親を見てきたのもあって、心も身体も、赤裸々に誰かにあずけて甘えきって失うのを恐れている。
 学校で自分以外の吸血種がいても無視していた。なんとなく連んでいる人間の友だちとも上辺のつきあいだ。先生にこんなに詳しく内情や苦悩を告白できたのは医者と患者の関係があったからで、そして今後ほかの誰かに同じ信頼をむけられるとも思えない。きっと恋愛や恋人とは一生無縁だ。
 体内の細胞はまだ興奮してざわついているのに感情だけ萎んでいく。沈みながら昂ぶると自棄になる。もやもやして、肩にある先生の手の指を一本、力まかせに引っ張ってやった。
「いたたっ。なにするんだいきなり」
「二十歳すぎてるからって、セックスしててあたりまえってわけじゃないと思いますよ」
「わかったわかった、悪かったよ。……すこし寝たらどう? 起きる頃には血の副作用もましになってるだろうし」
 はい、とうなずく。そうしよう。ちょっと疲れた。
 野原の匂いの先生に引き寄せられて目を瞑り、暗闇のなかで意識を眠気に委ねる。
 次第に、先生と見知らぬ男が裸でもつれあう姿が浮かんできた。先生が相手の首筋に噛みついて血をすする横顔、真っ赤な唇、顎から喉へしたたっていく赤い一筋の線。先端のふっくらまるい深紅の雫が、蠱惑的な揺れ方をする。食欲をそそる誘惑の赤い糸。
 先生の身長も体格も顔もなにも知りはしないのに、よくとおる低い声からハンサムな俳優みたいな男を思い描いていた。
 肩にある先生の手は温かく力強くて、意志的な包容力がある。目の見えない俺がいるのは自分の想像力だけで成り立っている己の殻の底で、その殻に先生の手が触れている。
「……先生の初恋の相手は、どんな吸血鬼でしたか」
 微睡みながら訊いたら、先生は、まだしゃべるつもりか、というようにやれやれと息をついて、
「……彼は友人で、人間だったよ」
 と静かに教えてくれた。