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伯爵と身代わり花嫁 ……7
あとがき ……230
頤をとられ、顔を上げさせられて、額に唇が押しあてられる。
「リン?」
甘ったるく名を呼ばれて、しかし凛は、ゆるゆると意識を覚醒させた。
「凛」と呼ばれたわけではない。「リン」と呼ばれた。それは、自分の名前ではない。アレックスは、凛を呼んだわけではない。
――……っ!?
白い瞼を瞬くこと数度、凛は己の置かれた状況を理解する。
そして、驚きに目を見開くや否や、アレックスの肩を突き飛ばし、膝から飛び下りた。ローテーブルに膝をぶつけかけて、慌てて回避する。それを見たアレックスが、「すばしっこいな」と、この場にそぐわぬ感嘆を零した。
「な……な……っ」
何をするんだっ! と怒鳴りたいのに、いまだに舌が痺れていて呂律がまわらない。
かわりに腕を伸ばして、悠々と自分を見上げる紳士の胸倉に掴みかかる。
「な……何、を……っ」
真っ赤になって、男の胸倉をぐいぐいとやったところで、飛び下りたはずの膝に自ら舞い戻っている状態。照れているのか、拗ねているのか、はたまたもっとしてとおねだりしているのかと、勘違いされるのが関の山だ。
案の定アレックスは、凛の手を包み込むように大きな手を重ねたかと思うと、またも軽く唇を食んできた。
「な、何するんだっ!」
ようやく声を出すことがかなって、肩を突き飛ばすものの、腰をがっちりとホールドされていて逃げられない。
「は、放せっ」
暴れても、可愛いものだと引き戻される。
「乗ってきたのはきみのほうだと思うが――」
「違う!」
都合よく誤解するな! と真っ赤になって怒鳴って、凛はどうにかこうにかアレックスの腕の囲いから抜け出した。ヘナヘナと反対側のソファにくずおれそうになって、かろうじて身体を支える。
一方のアレックスは、悠然とソファに身をあずけたまま、そんな凛を愉快そうに眺めていた。
「私はきみのフィアンセだ。キスくらい、いいではないか」
「な……っ! ダ、ダメに決まってるだろっ!」
いまどきの大学生がたかがキスのひとつやふたつで何を大騒ぎしているのかと、呆れられるのも当然なのかもしれないけれど、凛にとっては大問題だった。
「どうして?」
「どうして、って……だ、だって、こういうことは、本当に好きな相手とじゃなきゃ、しちゃいけないんだっ、だから……っ」
自分でも恥ずかしいことを言っている自覚があって、語尾が掠れる。
――だって、はじめてだったのに……っ。
胸中でこだまさせる事実は、恥ずかしくて口にできず、凛は真っ赤になって固まった。