立ち読みコーナー
目次
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マスカレード・ナイト  ……7
あとがき        ……234
(オレ、橘さんが好きなんだ……)
 そう独りごち、拓斗はしみじみと自分の本音を噛みしめる。
 素顔を隠して仮面をつけた偽りの夜だからこそ、自分の本当の気持ちから目を逸らさず、自覚することができたのは皮肉だった。
 そう自嘲気味に思いつつ、こっそり橘を見ると視線が合った。
 隣に座る橘は、ソファの背にもたれかかったまま、じっと拓斗を見つめていた。
 いつから見ていたんだろう?
 自分は何か、おかしなことをしていたんだろうか?
 拓斗が不安になると、橘は意味ありげな微笑みを浮かべて手を伸ばしてきた。
 大きな手のひらは拓斗の頬をくるみ込み、その優しい感触に心臓が爆発しかねないほど鼓動が速まっていく。
 さらに、そっと親指の先で口唇の上をなぞられて、大きく息を呑む。
 心臓が爆発する前に息ができず、窒息死するんじゃないかと思っていると、さりげなく親指の先を見せられた。
 そこには、ちょこんと真っ白なクリームがついていた。
 ケーキのクリームが口唇に残っていたらしい。
 それに気づいて、拓斗は真っ赤になった。まるで幼い子供のように、口唇にクリームをつけたままで気づかなかったことも恥ずかしかったが、それよりも、いったい自分は何を期待しているんだ、と顔から火を噴くような思いだった。
 しかも手のひらが触れた瞬間、拓斗が明らかに緊張したことをわかっていながら、橘は思わせぶりなことをしたのだ。
 拓斗は耳まで真っ赤になりながら、それでも橘を睨みつけた。
 逆恨みだとわかっているが、だからこそ、恥ずかしくて悔しかった。
 だが、それでも橘は楽しそうに微笑んだまま、吐息を感じるような近さに顔を近づけて、拓斗と向かい合う。しかし、もう絶対に何も期待しないぞ、と決めた拓斗が意地になって視線を逸らさずにいると顔を覗き込んでくる。
「これ、欲しいんだけど……くれる?」
 そう囁かれて、拓斗は最初、意味がわからなかった。
 けれど骨張った長い指がボディスーツの胸元をなぞり、拓斗が首からかけたシルバーのチェーン・ネックレスの先をつまみ上げる。
 そこには小さな鍵が揺れていた。
 橘以外には渡すな、と念を押されたアンティークの鍵だ。
 キョトンとしていた拓斗が、一瞬で再び、沸騰したように顔を真っ赤にしたので、橘も察したらしく、苦笑を浮かべながら確かめてくる。
「知ってるよな?この鍵の意味は」
「う、うん」
 拓斗は素に戻ったまま、ガクガクと頷いた。
「……だったら、オレにくれる?」
 橘はあらためて訊きながら、にっこりと微笑んだ。
 その蠱惑的な微笑みに、つい見とれてしまう。
 クイーンは拓斗に向かって、橘を誘惑してみなさい、と煽るように言っていた。だが、こんな微笑みを見ると、これこそが本当の誘惑だと思う。
 橘は、きっと自分が断られるとは思っていない。質問という形を取っていても、ただの確認でしかない。その微笑みにも遊び慣れた男の余裕と自信があふれている。
 そう思いながら、拓斗は頭の片隅で冷静に考える。
 ここで頷けば、あこがれや夢でしかなかったことが現実になる――でも、それは本当に現実なんだろうか?
 素顔を隠して仮面をつけた偽りの夜の中でしか現実にならない恋なら、やはり、それはまやかしだ。
 幻でしかない。けっして現実ではない。
 ただ、そうやって冷静に考えながら、それでも、と拓斗は思った。
(まやかしで何が悪い?現実じゃなくても……幻でもいいじゃないか。ほんのひととき、夢を見たって)
 自分がゲイなのか、ゲイじゃないのか――そんなことは、もうどうでもよかった。
 今はただ、ずっとあこがれていた橘のことが知りたい。
 彼のことだったら、どんなことであっても。どんなに小さなことでも。そう、もちろん、キスやセックスだって。
 そう強く思った時、橘が困っているように首を傾げた。
 どうやら、橘は拓斗からの返事を待っているらしい。けれど、今の自分が声を出したら、おそらく上擦ってしまって情けない返事になるのはわかりきっていた。そう思った拓斗は震えそうになる手を叱咤して、小さな鍵のついているネックレスを自分の首から外して、おそるおそる橘の手のひらに押しつける。
 それで橘もわかってくれたらしい。
 手のひらの上にあるネックレスを握りしめると、嬉しそうに微笑んだ。
「くれるんだね?」
 そう念を押すように確かめられて、拓斗は黙ったままで頷いた。
 それが始まりの合図になった。
 まやかしの夜の――この偽りの仮面の夜の。
 橘は、そっと顔を覗き込むように近づけてきたと思ったら、すかさず、ついばむように口唇を重ねてくる。それは軽く触れるだけのキスだった。本当に、そっと重ね合わせて、すぐに離れていくだけの。
 ほんの一瞬だったが、永遠に忘れられなくなりそうなキスだった。
 そう思った拓斗が、まだ余韻の残っている口唇を無意識に自分の指で触ろうとした時、その手を邪魔だとばかりにつかまれ、もう一度、キスをされた。
 今度は強く押しつけられ、口唇の表面をなぞるように舌先で舐められる。生々しい熱に戸惑い、拓斗は思わず、あえかな声を漏らした。
「あ……んんっ」