立ち読みコーナー
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ひだまりの猫  ……7
あとがき    ……246
 懐かしささえ感じる。眞分の胸の中は、忘れていた人の温もりを潤に思い出させ、ここはとても居心地がいい。
「……眞分さんは、ひどい、です」
 ちいさな子供が泣きすぎてしゃくり上げるような声で、それでも潤は男に八つ当たりのような気分でその言葉を口にした。
「おや、おかしいねぇ。あたしは昔から、好きな娘がいてもいじめるほどの勇気もなくて、遠くから見ているだけの、情けない子供だったんだけどねぇ。そんなあたしが、おまえに意地悪をしたとでも云うのかい?」
 そんな眞分の冗談に、泣いているのにふっと笑ってしまった。
 涙を流しながら、それでも笑ってしまっている自分が可笑しくて、また笑った。
 頭を持ち上げて間近で眼にした男の瞳も、とても優しげに微笑っていた。
 男の大きな手のひらが頬に当てられて、下瞼あたりに流れていた涙を、親指でそっと拭われる。眞分の手に覆われた頬が熱い。
 その近すぎる距離に、潤は唐突に焦りを覚えた。
 他人とこんなに近づいたことなどないから、身の置き場所というか、こういうときはどうしたらいいのかわからなくて、再びじわりと頭を下げて額を眞分の肩口に押しつける。自分に注がれる視線から逃げると、少しは焦りも緩和されたような気がしたけれど、何故だろう、数瞬前まではとても居心地がよかったそこが、今はひどく据わりの悪い場所になってしまっているような気がしてならない。……いや、正確には、逃げ出したいくらいに居心地がいいと感じてしまっている。
 逃げ出したいくらいに居心地がいいなんて、ずいぶんと矛盾している話だけれど、そんな表現が一番しっくり当てはまる。
 逃げ出したいのに、ここにいたい。相反する気持ちの鬩(せめ)ぎ合いに、胸の奥が、チリチリと熱いような痛みを覚える。
「……さて、そろそろ帰るか。あまりのんびりしてると、明穂にどんな嫌味を云われるかわかったもんじゃないからなぁ」
 逃げ出さなくても、当然だがこんな時間は、いつか終わりがやってくる。まさにそれを告げる眞分の呟きに、潤は諦めを滲ませた微妙な笑顔を浮かべた。
 それでも、この瞬間があってよかったと思う。
 薄いピンク色の花霞の中で、ベンチから立ち上がった男をしばし見上げ、潤も腰を上げる。
 眞分がどんなつもりで束の間の花見に誘ってくれたのかはわからないけれど、これは多分、眞分の優しさだろう。
 公園を出ようとする男の背中を見つめ、うまく声に出せない“ありがとう”を、苦し紛れに胃の奥へと飲み下す。
 どうしてそんなひと言が言葉にできないのだろうと溜息が落ちる。
 結局それを伝えられないままに、『猫の皿』へと帰りついてしまった。