立ち読みコーナー
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 旅に出よう
 愛と嫉妬と鰺フライ
  あとがき
 巻末キャラクター座談会
 旅に出よう

 一章 いつものようで、いつもでない


 それは、夏の終わりのある夜のことだった。
「ふいー、暑い暑い。ただいまー」
 K医科大学法医学教室に助手として勤務する永福篤臣は、玄関の扉を後ろ手に閉め、ようやく熱波から逃れられたことに安堵の溜め息をついた。誰もいないのはわかっていてもつい挨拶せずにいられないのは、礼儀正しい彼ならではだ。
 もう日が落ちてかなり経つというのに、外はやけに蒸し暑く、アスファルトも昼間に蓄えた熱を放出中だ。
 外出時には無論エアコンを切っていくので、家の中も大概暑いと思うのだが、それでも外よりはずっとマシだった。あるいはマンションなので、一軒家に比べると気温の変動が総じて小さいのかもしれない。
 とりあえず、あちこちの窓を開けて風を通し、キッチンで冷蔵庫に作っておいた冷たい麦茶をグラスに二杯立て続けに飲み干して、篤臣の顔には満ち足りた笑みが浮かんだ。やっと人心地ついたといった顔つきだ。
 ワイルドにいくならここは「とりあえずビール」なのだろうが、篤臣はさほど酒に強くない。一度、泥酔して人生最大の失敗をしてからは、半ば無意識に飲酒を控える癖がついてしまった。今はせいぜい、食事のときにつきあいでビールかワインをグラスで数杯楽しむ程度の酒量だ。
 周囲に子供みたいだと笑われても、夏は酒よりも、炭酸飲料やアイスクリームのほうが嬉しい篤臣なのだった。
「はー、これこそ夏の幸せだな。……さてと、ざっとシャワー浴びてから飯の支度をすっか」
 グラスをシンクに置き、帰りにスーパーで買い込んだ食材を冷蔵庫に手早く入れてしまうと、篤臣はバスルームに向かった。
 熱いシャワーを浴びると、心地よさと同時に、髪から立ち上る独特の臭気にゲンナリした気分をも同時に味わうはめになる。
 篤臣の主立った業務の一つは司法解剖だ。今日も、教室のトップである城北教授と、ただひとりの上司、講師の中森美卯と三人で手分けして、四体の解剖を行った。
 解剖室では術衣と手袋、それに頭をスッポリ覆う帽子で完全防備している……はずなのだが、なぜか臭い物質の粒子というのは、目の詰まった布地でも簡単に通り抜けてしまうらしい。特に古い死体を扱う解剖のあとは、肌や髪にどうしても腐臭が染みついてしまい、ひどいときは電車に乗るのもはばかられるほどだ。
 今夜はそれほどでもないが、それでも湯気に混じる死の臭いを消し去りたくて、篤臣はシャンプーを多めに手に取った。

 パートナーである江南耕介との暮らしもすっかり長くなり、お互いの生活リズムもすでに確立されている。
 消化器外科医として同じ病院に勤務する江南は、仕事柄、勤務時間が極めて不規則だ。当直が多いし、担当する患者の容態が悪化すると、家に帰れないことも珍しくない。
 篤臣とて、死亡者が多数出るような大事故や、捜査本部が立つような殺人事件が発生すると恐ろしく忙しくなるが、そうでなければたいてい午後七時くらいには帰途につくことができる。
 自然と、家事の大半は篤臣の担当となったが、彼自身、それを嫌がったり、不公平に思ったことは一度もない。
 ハードな勤務で身体を痛めつけ、人の死に絶え間なく立ち会うことで精神的にも疲弊する日々を送る江南に、心からくつろげる、居心地のよい空間を用意してやりたい。
 野菜嫌いで、外食だと肉ばかり食べる傾向のある彼に、栄養バランスのいい、熱々の手料理を食べさせてやりたい。
 他人の前では強がり、何があっても平気なふりをしようとする江南に、好きなだけ疲れたと言わせてやりたいし、存分に弱音を吐かせ、甘えさせてもやりたい。
 それが篤臣の偽りのない願いであり、江南が素の姿を見せるのは自分だけだという、パートナーとしての自負でもあった。
 バスルームから出ると、篤臣は洗面台の横に置いてあった携帯電話に目を留めた。メール着信を報せる小さなライトが点滅している。
「…………」
 篤臣は、濡れた頭にバスタオルをかけたまま、携帯電話を手に取った。
 メールは江南からだった。受信は十分前、「最寄りの駅に着いたのでもうじき帰る」というものだった。
「なんだ、十分前じゃもう……」
 ガチャッ。
 言い終わらないうちに、玄関の扉が開く音が聞こえた。続いて、「帰ったで~」という聞き慣れた江南の低い声。
「お帰り!」
 篤臣はバスルームの扉を開け、頭だけ出して声をかけた。
「おう、風呂入っとったんか。今日は昼間、暑かったみたいやな。俺はオペ室入っとったから、ようわからんけど」
 声だけで、篤臣の居場所がわかったらしい。ドスンと玄関先にバッグを置く音がして、江南は真っすぐバスルームにやってきた。
「うん。夜になっても十分暑いよ。今日は解剖もあったし」
「あー、なるほど。夏の解剖はかなわんな……とと」
 トランクス一枚の篤臣を抱きしめようと腕を広げたものの、自分が汗みずくであることに気づき、小さく肩を竦めて腕を下ろす。その代わりに、風呂上がりで上気した篤臣の頬にキスして、自分もワイシャツを脱ぎ始めた。狭い脱衣所の中だけに、篤臣はちょっと窮屈そうにのけ反る。
「なんだよ、俺が出るまで待てばいいだろ。すぐだから」
「待てへん。俺も今日はオペ三昧で、えらい汗掻いたからな。はよ流さんと、お前と五日ぶりの感動の再会ができへんやないか。一刻を争う事態やぞ」
「……大袈裟だな、相変わらず。たった五日だろ。いつものことじゃねえかよ。しかも、そのあいだに何度か顔を合わせてはいるんだしさ。廊下ですれ違ったり、医局に弁当届けてやったり」
「それはそうやけど、お前が嫌がるから、職場でスキンシップはできへんやろが」
「当たり前だ!」
「せやから、はよお前に触りたい」
「……馬鹿野郎、何言ってんだよ、ったく」
 自分の感情をまったく偽らない江南のあけすけな言葉に、篤臣はただでさえ赤い頬をもう一段階赤くして、パジャマに袖を通し始める。
 その傍らで勢いよく服を脱ぎ捨てながら、江南は鏡越しに篤臣を見てニヤリと笑った。
「なんや、俺の裸に見とれとんか? ええねんぞ、ジロジロ見ても。いつもはアレやもんな、お前が電気消せーてうるさいから、服脱ぐときは暗がりやもんな。シャイなお前と違うて、俺はむしろ見せたいくらいやし」
「ばっ……馬鹿、べつに見てなんか……」
「ほな、なんで鏡の中で目が合うねん」
「う、ううう、それは……そ、それは、仕方ないだろっ、ここ狭いんだから! 偶然だ! なんでもいいから、とっとと風呂に入れよ。そのあいだに飯を作っとくからさ」
 ムキになって抗弁しながら、篤臣はバスタオルでベシベシと江南の広い背中を叩く。
「へいへい。あ、せや。バッグの中にハムが入ってんで」
「ハム?」
「小田先生が、今日、患者さんの家族からもらいはってん。食いきれへんから言うて、半分くれた。真空パックやから、日持ちするやろ」
「へえ。教授への贈り物なら、高級そうだな。ちゃんとお礼言ったか?」
「当たり前やろ、アホ。子供違うねんぞ」
 そう言いながら、江南はボクサーショーツを気前よく脱ぎ捨て、素っ裸になって浴室の扉を開ける。引きしまった臀部が折り戸の向こうに消えるのを鏡越しにたしかめた篤臣は、溜め息交じりに自分と江南の服を拾い上げた。
「どこが子供じゃないんだよ。こんなに滅茶苦茶に服を脱ぎ散らかしやがって。まるっきりガキじゃねえか。靴下丸めたままじゃ、洗濯機に入れられないだろう」
 主婦くさい文句を言いながらも、篤臣の頬の紅潮はおさまりそうもない。
 ことさらジムに通って身体を鍛える暇などないはずの江南なのだが、やはり患者のケアや長時間の手術で自然と鍛えられるのか、引きしまって均整の取れた体格を維持している。
 いわゆる見せるための身体ではなく、実用本位のしなやかで無駄のない筋肉がついた、同性の篤臣でも惚れ惚れしてしまうようなスタイルのよさだ。
(けっこう細く見えるくせに、脱いだらすごいんだよなあ。くそ)
 江南の裸体をしげしげと見るたび、つい自分のいくら頑張っても肉のつかない身体と比較して、落ち込んでしまう篤臣である。決して華奢なわけではないし、腕っ節が弱いわけでもないのだが、江南と比較すると、どうしても自分が貧弱に思えてしまうのだ。
(でも……)
 そのことで篤臣が愚痴をこぼすたび、江南は相好を崩してこう言う。
『俺はそのおかげで助かっとるけどな。身長はたいして変わらへんのに、お前のほうが細っこいからこうして……な? ええ具合やろ。これが二人してマッチョやってみい。暑苦しいて、かなわんで』
 あの低い声で囁きながら、しっかりと篤臣を抱きしめる江南の力強い両腕を思い出すと、篤臣の頭にますます血が上る。シャワーを浴びている江南の身体を半透明の扉越しに見ていると、頬の熱が別の場所に移ってきそうで、篤臣は二人分の服を抱え、逃げるようにバスルームを飛び出した……。

 江南が風呂から上がる頃には、ダイニングテーブルに料理の皿が並んでいた。
 普通の生野菜のサラダでは江南が嫌がるので、カリカリに焼いて油を落としたベーコンビッツとクルトンを散らし、さっぱりしたドレッシングをかけたシーザーサラダが大きなガラスのボウルいっぱい作ってある。
 こんがりグリルした鶏のササミと夏野菜は、和風の出汁で焼き浸しにしてあり、江南が唯一喜んで食べる野菜である甘いプチトマトもたっぷり添えられている。
 まだ副菜だけだが、色鮮やかで食欲をそそる料理ばかりだ。
「上がったで」
 一声かけて江南がキッチンに入ると、無心に料理することでどうにか平静に戻った篤臣は、振り返って優しい眉をひそめた。
「こら。そんな格好で家ん中うろつくなって言ってんだろ。もういい歳の大人なんだから」
 篤臣がそんな小言を言うのも無理はない。以前から、江南は風呂上がりに半裸であたりをうろつく癖があり、今夜もボクサーショーツ一枚に、肩からバスタオルを引っかけただけという、まさに試合直前のプロレスラーのような出で立ちだったのだ。
「せやかて、あっついねん。ビール一口飲んだら、もう一枚着れる」
 そんな子供じみた言い訳をしつつ、江南は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、立ったままグビリと飲んだ。
「あ~~~! 極楽やなー! この一口のために、ずーっと水分を我慢しとった甲斐があるっちゅうもんや」
「おっさんくさいな、お前。いいから、ちゃんと服を着ろよ。一口飲んだろ?」
 派手に喜ぶ江南に呆れつつも、幸せそうな笑顔に、篤臣の顔にもつられて笑みが浮かぶ。
「へいへい。……なんや、今日はえらいご馳走やな。まだ何か作るんか?」
 とりあえずスウェットパンツを穿き、上半身はまだバスタオル一枚のまま、江南は篤臣の手元を覗き込んだ。
「だってお前、どうせ明日からまた泊まりなんじゃないのか」
「ん……まあ、そうなりそうやな」
「だから、今日のうちにしこたま食わせなきゃと思ってさ。それにお前、牛肉が出ないと、まともな飯を食った気がしないんだろ?」
 そう言いながら、篤臣はバターで手早く炒めたほうれん草と茹でたニンジンを大きな皿の端っこに盛りつけ、ざっとフライパンを洗った。それを再び火にかけてから、冷蔵庫を開けて取り出したのは……。
「おっ。ステーキ肉やないか! しかも、妙に高そうや。奮発したん違うか?」
 江南はたちまち満面に笑みを浮かべる。その屈託のない笑顔に、篤臣も笑って頷いた。
「たまにはな。黒毛和牛のサーロイン……にしようと思ったけど、健康を考えてフィレにした。そのくらいの妥協はできるだろ?」
 江南は即座に深く頷く。
「するする。ちゅうか、ステーキか~。誕生日と盆と正月が一緒に来たみたいやな」
 十分に熱して油を引いたフライパンに肉を置くと、ジューッという景気のいい音とともに、香ばしい匂いが立ち上る。犬のように鼻をうごめかせる江南に、篤臣は半ば呆れ笑いで言った。
「お前は昭和の子供か! 俺が普段ろくなもの食べさせてないみたいだろ、それじゃ。……っていうかさ、一応、お祝いの気持ちも込めて、ステーキにしたんだぞ、今日」
「へ? 祝い? 誰のや」
「お前だよ」
「俺? せやけど、今日は俺の誕生日と違うで?」
 篤臣は肉の焼け具合をたしかめ、火加減を調節しながらますます呆れて言い返した。