立ち読みコーナー
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愛のカレー
真夜中の誕生会
純情オムライス
 啓太(けいた)が初めて作った料理は、カレーだった。まだ、小学校に上がったばかりの頃である。
 七人兄弟の長男だったせいもあるのだろう。子育てに追われる両親を手伝おうと、物心ついた頃から覚束(おぼつか)ない手つきで包丁を持って台所に立っていたおかげで、啓太の炊事歴はかなり長い。だから、大学に進学して一人暮らしを始めてからも、同年代の青年たちよりずっとまめに炊事をこなしている。
 ただ、幼い頃から六人の弟たちに食事を作り続けていた啓太は、困ったことに一人分の調理というのに慣れていない。今まで目分量で相当ダイナミックに調理をしてきたせいか、小さな鍋(なべ)でちまちまと調味料を量りながら料理を作るとたいてい失敗する。それに、少ない量で料理をするとなんとなく美味(おい)しくない、気がする。このあたりは啓太の主観だ。
 だから啓太はいつも、一人暮らしにもかかわらず一度に五合の米を炊き、実家で使っていたような大鍋で煮物や汁物を作るのが常だった。
 余った米は一膳(ぜん)分ずつラップで小分けして冷凍しておく。大量に作ったおかずはアパートの隣人や研究室の仲間にお裾分(すそわ)けする。
 エンゲル係数がとんでもないことになってしまいそうだが、両親が田舎(いなか)の地主だったりするからか、啓太の経済観念は相当希薄だ。
 食事に限らず、部屋だって学生には贅沢(ぜいたく)すぎる1DKだが、本人はそれを珍しいとも思っていないほどである。
 その日も啓太は、件(くだん)の大鍋で大量のカレーを煮込んでいた。
 玉葱(たまねぎ)六個、人参(にんじん)五本、ジャガイモ六個、豚肉一キロを二パックのルーで煮込んだカレーは優に十人前はあろうかという量だ。
 啓太は、額にかかる柔らかな髪の下に汗をにじませ、満遍なくカレーをかき回す。
 六月の初頭、火を使う台所は夜といえどもひどく蒸す。啓太は台所の窓だけ開けて、掌(てのひら)で首筋を扇(あお)いだ。
 コンロの右手に置いた炊飯器からは、クツクツと小さく米の炊ける音がする。週に一度こうしていっぺんに五合の米を炊く啓太のやり方は、効率的なのか非効率的なのか、本人さえもわからない。それでもこうして米を炊くのは、料理は一度にたくさん作れば作るほど美味しくなるという啓太の信念に由来する。
 炊飯器が小さな電子音を立て、啓太はその蓋(ふた)を開けた。目の前にパッと白い水蒸気が上がって、炊き立ての米の甘い香りが漂う。しゃもじで手早く米をかき混ぜていた、そのとき。
 ガン! と啓太の部屋のドアを何かが乱暴に叩(たた)いた。
 ギョッとして啓太は米をかき混ぜる手を止める。けれど、しばらく待ってみてもチャイムが鳴る気配もなければ、再び何かがドアを叩く気配もない。
 不審に思いながら、啓太は一度炊飯器の蓋を閉めて、台所脇(わき)の玄関に向かった。
 ドアを開けると、扉の隙間(すきま)から湿度の高い六月の夜気が入ってきた。コンロの熱気で上気した頬(ほお)が冷やされていくのを感じながら、啓太はアパートの廊下に目を走らせる。
 その目が、下方で止まった。
 啓太の部屋の前に、何か大きなものがうずくまっていたのだ。
 それがくたびれたトレンチコートを着た男だと気づいたのは何秒ほど経(た)ってからだろう。ようやく自分の部屋の前で男が横様に倒れていると認識した啓太は、慌ててドアを開け放って廊下に出た。
「どうしました!」
 人気(ひとけ)のないコンクリートの廊下に啓太の声が響き渡る。啓太がその場に膝(ひざ)をつくと、わずかに男が身じろぎした。
 血の気の失(う)せた顔をした男は、床にべったりと倒れ込んだまま瞳(ひとみ)だけ上げて啓太を見た。
 驚くほど生気のないその目に啓太がたじろぐより早く、乾いた唇が何か言う。
「……カレーの匂(にお)いが……」
「え?」
 思わず男の口元に耳を寄せた啓太に、男はひどく掠(かす)れた声で言った。
「――……ご飯を分けてください……」

 生来のお人好(ひとよ)し気質故に、行き倒れ寸前の男を自室に入れてしまった啓太は、半ば呆然(ぼうぜん)と目の前で繰り広げられる光景を見ていた。
 ダイニングキッチンでは、啓太の部屋の前で倒れていた、トレンチコートを着た男がガツガツとカレーを食べている。
 覚束ない足取りで、啓太に支えられるようにして室内に入った男は、目の前にカレーが差し出されると、途端に傍らの啓太の存在など忘れたようにカレーに食いついた。むしろ襲いかかったと言ってもよい。
 それから男は一言もものを言わず、ただガツガツとカレーを食べている。深皿にほとんど顔を突っ込むようにして一心にスプーンを動かすその顔には、鬼気迫るものがあるほどだ。その上、食べるスピードがとんでもなく速い。きちんと咀嚼(そしゃく)しているのかどうかもわからない。
(……カレーは喉越(のどご)し、か……?)
 コンロの前に立ってぼんやりとそんなことを考えていた啓太の前で、男の手がぱたりと止まった。
 スプーンを右手に握りしめたまま、男は伏し目がちに空になった皿を覗(のぞ)き込んでいる。
 そうやってジッと動かない男の顔は、思いがけず端整だ。華はないけれど艶(つや)があるタイプとでも言うのだろうか。シャープな顎(あご)のラインや筋の通った高い鼻は、精巧な彫像を思い起こさせる。空腹のためか精彩さを欠いた表情が、男の顔を無機質に見せているせいもあるかもしれない。そんな男の切れ長の目が、悲嘆に暮れたような色を宿しているのを見て、啓太はそっと空になった皿を手に取った。
 深皿に山盛りの米をよそい、たっぷりとルーをかけて無言のままに男の前に差し出す。そうすると、男はまた親の仇(かたき)でも見つけたような顔で目の前の皿に掴(つか)みかかって、ガツガツとカレーを食べ始めるのである。
 こういうことを、もうかれこれ三十分近く繰り返している。
 恐ろしいことに、大鍋一杯のカレーと五合の米は底を突き始めていた。
(物理的に考えて、人間の体のどこにあれだけの量の食物が入るんだろう……)
 人間の体の体積がこれくらい、胃の許容量がこれくらい、腸での消化時間がこれくらい、などと考えていた啓太だが、そうしている間にも男はもう何杯目になるかわからないカレーをぺろりと食べ終え、また悲し気な表情で空になったカレーの皿を覗き込んでいたりする。
 なまじ顔立ちの整った男にそういう顔をされるとなんだかひどく悲愴(ひそう)に見えてしまって、啓太は催促されるより早く空の皿を手元に引き寄せた。
「もう、これで最後ですよ」
 炊飯器の底に残った米をかき集めながら啓太が言うと、背後の男が小さな声で、うん、と答えた。
(……子供みたい……)
 そういえば弟たちも、カレーを作った日は皆目の色を変えて台所に集まったものだと思いながら、啓太は大鍋の底に残ったカレーをお玉で掬(すく)った。
 最後の一皿を目の前に差し出された男は、それまでより少しは落ち着いた表情で黙々とカレーを食べ始めた。
 啓太も男と向かい合うようにしてダイニングチェアに腰を下ろす。
 そうやって真正面から向き合って見た男は、くたびれたトレンチコートの下によれたワイシャツを着て、だらしなく緩んだネクタイを首にかけている。この身形(みなり)からすると、サラリーマンか何かだろうか。年はたぶん、啓太より男の方がだいぶ上だろう。
 啓太の目の前で、男は大きな体を縮めるように背中を丸めてカレーを口に運んでいる。だが体が大きいからといって、男が巨漢というわけではない。背は随分と高いが、どちらかといえば痩身(そうしん)の部類だ。これだけの食料を摂取しているにもかかわらず、太っているどころか頬骨がうっすらと浮いている。
 男は米の一粒も残さず綺麗(きれい)に最後のひと口を口に放り込むと、部屋に入って初めて真正面から啓太を見た。同時に、きゅるるるる、と男の腹が盛大に鳴る。
(……ば、化け物……)
 十人前のカレーを食べた直後だというのに、まだ飢えたように腹を鳴らす男に、さすがの啓太もうっすらとした恐怖を覚えた。そんな啓太の前で、男がゆっくりと頭を下げる。
「ご馳走様(ちそうさま)でした」
 まだ少し、腹に力の入り切っていない声でそう言った男は、顔を上げると微(かす)かに笑った。カレーに襲いかかっていたときとは打って変わった、穏やかな表情である。
(あれ、意外にまとも……)
 直前まであれだけ獣じみた顔で食料を胃袋にかき込んでいた男は、スプーンを置くと憑(つ)き物が落ちたように理知的な顔をしてみせた。
 そして男は目を伏せて、ほんの少し気恥ずかしそうに笑う。
「本当に、申し訳ない。空腹で動けなくなったところで、この部屋からあまりにもいい匂いがしてきたものだから、つい……」
 フラフラとアパートの二階にまで上ってきてしまったらしい。そして啓太の部屋のドアに体当たりして力尽きたのだそうだ。
 経緯を聞いてもなお不審さが拭(ぬぐ)えない男に、はぁ、と啓太が曖昧(あいまい)な相槌(あいづち)を打つと、その雰囲気が伝わったのか、男はコートのポケットから何やら小さなカードを取り出した。
「よかったら、これ、私の名刺だけれど……」
 おっかなびっくり受け取ったそれに目を走らせて、啓太は男の名前よりも、その肩書に視線を止めてしまった。
『お弁当の巽屋(たつみや) 代表取締役社長』
 名刺には確かにそう書いてある。驚いたように啓太が顔を上げると、男は軽く手を組み、だいぶ落ち着いた表情で笑った。
「巽屋の代表取締役をしております、須藤(すどう)遼一(りょういち)と申します」
 言葉を改め、なだらかな低い声でそう言った男を、啓太は穴が開くほど凝視する。
 だってくたびれたトレンチコートを羽織って空腹で行き倒れになる男なんて、絶対まともな職についているわけがないと思ったのに。
 大体お弁当の巽屋といったら、全国に数百店舗のチェーン店を持つ弁当屋の大手ではないか。その社長がなぜこんな所で行き倒れになるのだと、啓太の不審は薄まるどころか濃くなる一方だった。
 そんな啓太の混乱には一向に気づかぬ様子で、須藤は目元を緩めたまま啓太に尋ねる。
「君の名前も訊(き)いていいかな?」
 啓太は我に返ったような顔で名刺から目を上げると、幾分上ずった声で答えた。
「た、巽、啓太です」
 巽屋の社長は、自社の名前と同じ名を名乗った啓太をわずかに驚いたような目で見詰めた後、またその表情を緩めて頷(うなず)いた。
「啓太君だね。今日は本当にどうもありがとう。助かったよ、もう少しで本当に行き倒れになるところだった」
 言いながら再びコートのポケットを探った須藤は、ダイニングテーブルの上に剥(む)き出しの万札を数枚置いて立ち上がった。そのことにギョッとしたのは啓太で、慌ててそれを掴むとすでに玄関へ向かって歩き出した須藤の袖(そで)を力一杯引き寄せる。
「こ、こんな、もらえません!」
 須藤は数歩後ろによろけてから、振り返って少し困ったように笑った。
「でも、突然押しかけて無理やり食料を強奪したのだから、これくらいのお礼はしないと。材料費だと思って受け取ってくれないかな」
「こ、こんなに材料にお金かけてません!」
「だったら、手間賃も含めて」
 それでも、会って間もない人間からこんな大金はもらえないと啓太が必死で首を振ると、須藤はゆっくりと目を細めて、その大きな手で啓太の頭を軽く撫(な)でた。
「美味しかったから、感謝料も入ってる」
 両親以外の誰(だれ)かに頭を撫でられた経験のない啓太がうっかり言葉を詰まらせると、須藤はもう一度笑って玄関の戸を開けてしまった。
「本当に美味しかった。ありがとう、ご馳走様でした」
 目の前でスチールの扉が閉まる。
 右手に名刺、左手に万札を握りしめ、啓太は途方に暮れたような顔で、遠ざかる須藤の足音を聞いていた。