立ち読みコーナー
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 水底に揺れる恋
 悩める男たち
あとがき
「なぁ、東京(とうきょう)の大学に行くって本当か?」
 少年はタバコの煙をゆっくりと吐きながら、ポツリと呟(つぶや)いた。だが返事はなく、自分の質問に答えない友人を一瞥(いちべつ)してまた前を見る。
 背は一八〇を超えるくらいだろうか。少年と言うには随分大人びた顔立ちで、躰(からだ)つきも十七、八のそれではなかった。
 でき上がった筋肉。日焼けした肌。
 洗い晒(ざら)しのジーンズと白いTシャツというシンプルな格好が抜群に似合っており、タバコを咥(くわ)えた唇は潮風に当たっているせいで乾いているが、いっそう男臭さというものを添えていた。低いしゃがれ声も然(しか)り。
 目の前にはテトラポットが並び、その向こうには群青色の海が横たわったのどかな風景が広がっている。
 この少年には田舎(いなか)臭いというより野性的という言葉の方が似合っていた。このまま街へ連れ出しても、違和感なくその空気に溶け込むことができるだろう。
 持って生まれたものの差というのは、明らかに存在する。
「なぁ、東京行くって本当かって聞いてるんだよ」
 もう一度そう聞くと、隣に立っていた学生服の少年は仕方ないと溜(た)め息(いき)をついた。
「ああ、行くよ」
 耳に心地好(ここちよ)く入ってくる、テノール。
 こちらも、生まれ持ったものが人より優れているのだと思わせる外見をしていた。
 身長はジーンズを穿(は)いた少年には及ばないが、それでも軽く一七五はあるだろう長身でスタイルもいい。切れ長の目が印象的で、あっさりとした顔立ちに艶(つや)やかな黒髪が似合っていた。まだ少年っぽさを多く残しているが、あと二、三年もすれば間違いなく大人の男に成長するだろう。繊細な少年の青臭さが抜けて男の色気が加わると、どんなふうに変貌(へんぼう)するだろうかと思わず期待してしまうような、そんな未完成の魅力を持っている。
 二人はそれぞれの魅力がお互いを魅(ひ)きつけ合っているのを自覚しているのかどうなのか、西に沈む太陽の光に目を細めながら立っていた。
「なんでそんなこと聞くんだよ?」
「俺になんか言うことないのか?」
「別にない」
「あーそうかよ」
 言葉をちぎって捨てるような言い方に、学生服の少年はムッとした顔をした。
「いつ行くんだよ?」
「明日」
「明日?」
「ああ。午前中の便で行くから、明日は六時起きなんだ。じゃあな」
 そう言って踵(きびす)を返すと、ジーンズの少年はタバコを地面に投げ捨てて立ち去ろうとした。だがジリ、とスニーカーの下で砂が音を立て、長く伸びた少年たちの影が重なる。
「――っ!」
 驚きのあまり、唇を重ねられた少年の目が見開いた。そして、すぐさま夕方の穏やかな空気に鈍い音が響く。
「何すんだよ!」
 手加減なしに殴ったというのに、地面に尻餅(しりもち)をついた少年は唇から流れる血を手の甲で拭(ぬぐ)いながら笑みすら浮かべていた。そして、楽しそうにこう言う。
「東京行く前にファーストキスくらい済ませといた方がいいんじゃないかと思っただけだよ。女って怖いからな、少しくらい免疫つけとかないと、馬鹿にされるぞ」
 揶揄(やゆ)の交じった言葉に、唇を奪われた少年の目つきが変わった。
「余計なお世話なんだよ。女が怖いって、馬鹿じゃないのか?」
「童貞のくせに」
「黙れ」
「どーてー」
「てめーみたいな節操ナシとは違うんだよ!」
「お前みたいなカマトトとは違うんだよ」
「喧嘩(けんか)売ってんのか?」
「買ってくれんのかよ?」
 その言葉に少年は何か言いかけたが、すぐに思いとどまり、軽く深呼吸してからこう言う。
「……馬鹿馬鹿しい」
 目許(めもと)が染まっているのは、怒ったからなのか友人にキスをされたからなのかわからなかったが、明らかに注がれる夕日のせいではない紅潮がそこにはあった。だが、少しばかり速い鼓動は、ときめきというにはあまりに甘さに欠けていた。
「お前の顔見なくていいと思ったらせいせいするよ。――じゃあな」
 学生服を着た少年は忌々しそうに奥歯を噛(か)みながらそう吐き捨て、歩き出す。
 残された少年の方はしばらく立ち去る友人の背中を見ていたが、それが建物の陰に消えると地面にごろりと寝そべって空を見上げた。そして、もう一度タバコに火をつける。
「繊細な男心もわかんねーくせに、女相手に何ができるってんだよ。あンの馬鹿……」
 少し拗(す)ねたように呟いたその言葉には、先ほどのような余裕はなかった。

   * * *

 潮風が吹いていた。
 どんよりとした不機嫌な空を鳶(とんび)が鳴きながら旋回している。群青色の海は表面こそ穏やかに凪(な)いでいるが、その下は潮流が激しくぶつかり合っており、何かが息をひそめているような、そんな底知れぬ深さがあった。
 民家の軒下には魚が干してあり、くさや独特の匂(にお)いがその一帯に深くしみ出している。
 それが高田(たかだ)直己(なおき)の約十年ぶりの故郷だった。
 この土地を離れたくて東京の大学に進学し、卒業と同時に警視庁警察学校へ入学してからほとんど戻る機会などなかった。交番に配属されてからも、忙しさを理由にわざと帰郷を延ばしていた。しかし今、故郷に引き寄せられるかのように再びここへ戻ってきた。
 一度東京の警察を辞め、わざわざ県警の採用試験を受け直してまで地元に帰ってきたのは、癌(がん)の手術をした父親の背中が思いのほか小さくなっていたからだ。心細さのせいか、母親も少し体調を崩したため、年老いた両親をいつまでも放っておくわけにはいかないと思った。
 二人とも再就職までする必要はないと言ったが、せめて近くにいてやろうと思ったのは、一人息子(むすこ)としての責任感もあったのかもしれない。
 高田はバスを降り、かつては通学路だった道を歩き始めた。しばらく歩いていると、埃(ほこり)を被(かぶ)ったアスファルトの上を軽トラックが粉塵(ふんじん)を巻き上げながらゆっくりと通り過ぎていった。道端の雑草が、排気ガスを浴びながら小刻みに揺れている。風。
 向こうから歩いてきた女子高生の四人組が、見慣れない男の姿に目を留めた。彼女たちはすれ違いざま、旺盛(おうせい)な好奇心を見知らぬ男に容赦なく注ぐ。
 高田の実際の年齢は二十八だったが、彼女たちはもっと若く見積もっているだろう。目が合うと、まるで有名な俳優でも見たかのような反応をしてみせる。
 しかし見られている本人は、子供がはしゃぐ声を聞いたにすぎなかった。
(変わんねぇな、この辺りも……)
 高田がこの小さな漁村で過ごしたのは、五歳から高校を卒業する十八歳までの約十三年間だった。することと言えば、海の中に釣り糸を垂らしているか空地で草野球をするか、そのくらいのものだった。中学に上がると、一応は不良の真似事(まねごと)なんかもやってみたりしたが、所詮(しょせん)は何もない田舎である。
 悪いことと言っても、今のように中高生がドラッグに手を出すような時代でもなく、せいぜい他校の生徒と殴り合いの喧嘩をするとか、タバコを吸うとかその程度だった。同じ歳頃(としごろ)の不良グループの中ではその名はかなり知れ渡るようになってはいたが、自然の多い土地がそうさせるのか、死人が出るようなリンチや恐喝まがいのようなことはした覚えがない。
 喧嘩に明け暮れようがタバコを吸おうが根元まで腐ることなどできず、悪い遊びに飽きると空地に集まってタバコを咥えたままバットを構えている――そんなかわいらしいグレ方だった。
「直己っ」
 漁港に入ると、聞き覚えのある声に呼び止められ、高田はそちらの方へ目をやった。すると派手なシャツが目に飛び込んでくる。
 繁華街なら少しはマシだろうが、どちらにしろいい趣味だとは言えなかった。いかにもチンピラといったふうで、できれば並んで歩きたくない。
 しかし高田は、声の主に親しみを込めた返事を返した。
「達夫(たつお)か?」
「ああ、久し振りだな。元気にしてたか?」
 達夫と呼ばれた男は隣に並ぶと、ポケットからタバコを取り出した。視線が高田より五センチほど低い。少し猫背で、肉づきはあまりよくなかった。日頃の不摂生が躰全体から滲(にじ)み出ているような男である。
「水臭ェぞ。帰ってくるなら早めに連絡しろよな」
「……ああ。忙しくってさ」
「出迎えは俺だけかよ。みんな冷てェな」
「はっ、何言ってる。昼間っから仕事もせずにブラブラしてるのはお前くらいだよ。ほんとどっから見てもチンピラだな」
 古くからの友人に悪態をつき、高田もポケットから一本取り出して手の中でジッポの火を踊らせた。赤い舌先がマルボロの先を舐(な)めると、独特の泥臭い匂いが辺りに広(ひろ)がる。
 口から吐いた煙は海からの風に煽(あお)られ、漂う間もなくすぐに消えてなくなった。
「仕事はしてるぜ? 夜の仕事だって立派な仕事だよ」
「今度は続きそうなのか? もう何度も仕事変わってるって聞いたぞ。進(すすむ)を見習え。町役場の退屈な仕事を毎日真面目(まじめ)にやってんだからな」
「俺には向かねーよ。どっちかってーと漁師の方がいいな」
「じゃあ志堂(しどう)の船に乗せてもらえ」
 高田は口のタバコを手に取りながら、目を細めた。達夫は、そんな高田の何気ない仕種(しぐさ)の中に軽い羨望(せんぼう)の念を抱く。
 子供の頃から達夫が好意を寄せた女は、大抵この高田か志堂を好きになった。スポーツは万能で喧嘩も強く、しかも二人ともそれを鼻にかけるような態度は見せたことがない。かつてはそれを妬(ねた)んだりしたが、今は張り合う気さえ起こらない。
 もう一人、よくつるんでいた進は小動物のような外見で二人とは別の意味でモテていた。俺が一番女とは縁がなかったなと、達夫は自分の青春をそんなふうにふり返る。
 しかし、タバコや喧嘩に明け暮れる青春もそう悪くはなかった。
「あ、孝臣(たかおみ)の船。今戻ってきたみたいだぞ……。おーい、孝臣っ!」
 達夫は湾内に入ってきた船を見て、大声で友人を呼んだ。タバコを咥えたまま、高田が目をやる。
 ドッドッドッ……、とエンジンが唸(うな)っており、何艘(なんそう)かの船が白い帯を従えてゆっくりと岸へ近づいてきていた。 ちょうど漁から帰ってきたところなのだろう。浅黒く日焼けした男が船の上から陸にいる男に何か叫んでいる。
 不意に、一度だけ重ねたことのある唇を思い出して高田の心がざわめいた。
(志堂……)
 タバコのせいか潮風のせいか、少ししゃがれてはいたが、海から吹き込んでくるこの乾いた風のように、立ちはだかるものをすべて切り裂くような声だった。海を相手に仕事をする男たちの中でもその存在は一際目立っている。 体格のよさがそうさせるのだが、ただそれだけというわけでもない。
 時折狂暴な牙(きば)を剥(む)くこの海と同じように、その奥底に獣を飼っている――そんな装った静けさを持っている男だった。
「お~い、孝臣! 直己が帰ってきたぞ!」
 志堂は一度だけ高田の方に目をやったが、まるで何も見なかったような顔でまた船の中へと姿を消した。海猫が船の近くに舞い降りてきて、水中に首を突っ込んでいる。
「なんだよ、孝臣の奴。冷てェな。せっかく直己が帰ってきたってーのに」
「仕事中だからだろ?」
 相変わらずの友人に落胆する気にもなれず、高田は実家のある方へ歩き始めた。それを達夫が小走りで追う。
「夜はお前の歓迎会やってやるからな。孝臣も進も来るってさ。四人集まるなんて久し振りだもんな。今日は飲もうぜ」
「ああ。でもお前、夜は仕事じゃないのか?」
「休み貰(もら)ったよ」
「真面目に働け」
「今日は特別だって」
 口を尖(とが)らせて言う幼馴染(おさななじ)みに、高田は小さな笑みを一つ零(こぼ)した。