立ち読みコーナー
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 夕暮れ時の太陽が、高速道路から見えるビルの間に消えようとしていた。カーステレオから流れるジャズは、セピア色に染まり始めた世界を美しく演出する。フェラーリ612スカリエッティは、周りの車の流れを乱すことなく優雅に走っていた。
「社長。今日はあまりスピードを出されないんですね。いつもこうだといいんですが」
「この前、覆面にやられたからな。あいつらはセコいよなぁ。善良な市民からすぐに金を巻き上げようとする」
 その時のことを思い出し、男はバックミラーを覗いた。後ろにそれらしき車はない。
「善良な市民は六十キロオーバーで切符を切られたりしません」
 髪をキュッと一つにまとめたクールビューティの美人秘書が手厳しく言うと、男は口許を緩めた。男の名を青柳良広という。
 身につけているものはすべて一流品だが、それが嫌味になっていない。三十代の男が持つ荒々しい色気と大人の落ち着きを兼ね備えた魅力のある人物だった。
 お抱えの運転手に社用車を走らせることもあるが、青柳は運転自体が好きだという理由から仕事の時でもこうして自分の車に乗り、ハンドルを握る無類の車好きだ。そしてバイク好きでもある。
 本当はバイクにも乗りたいが、高校の頃に無免許で走らせた原付でウィリーをしながらゴミ収集車に突っ込んで以来、エンジンのついた二輪には乗れない。
「ところで明日の仕事だが……」
 言いかけたところで、青柳の視界を真っ赤な色をした何かが横切った。目の前に躍り出たのはCBR900RR。通称ファイヤーブレード。4ストロークのオートバイで、その名の通りハンドリングが日本刀のように鋭く切れることから『燃える剣』と呼ばれている。
 青柳は、目を見開いた。
「すごいな……。どこから出てきたんだ?」
 つい今し方バックミラーを覗いた時、その姿はなかったというのに、まるで狐につままれたような気分で呟いた。しかも、はるか後方には並走している大型トラックがいる。あのわずかな隙間を縫ってここまで出てきたというのか。いったいどんな人間が操縦しているんだろうという興味が湧き、青柳は思いきりアクセルを踏み込んだ。一瞬目の前のバイクに迫ったが、またすぐに離される。
「ちょっとやめてください。危ないですよ」
「少し追ってみるだけだよ」
 少年のような目をする青柳を見て何を言っても無駄だと悟ったのか、秘書はそれ以上文句は言わなかった。
(すごいな……)
 真っ赤にペイントされたそれは、まさに真紅の怪物だった。しかも、それを操っている人間はかなりの腕前だ。前方には、いかにもスピード狂といったようなスポーツカーが走っており、突然現れたバイクの存在に気づいてスピードを上げて勝負を挑んでいたが、それも難なく抜き去ってしまう。
「ナンバーはわかるか?」
「最後は……1みたいですが」
「だよな? くそ、全部読めない」
 青柳はもう一度近づいてみようとアクセルを踏んで前の車を追い越したがCBR900RRは加速し、あっという間に見えなくなった。ほんの今まで目の前を走っていたというのに、魔法でも使ったのかと思うほど一瞬の出来事だった。青柳のフェラーリは置いてけぼりを喰らい、少しずつ速度を落としていく。それでも結構なスピードだ。あのバイクが相当な速度で走っていたのは言うまでもない。
 無謀ではない計算し尽くされた走り。だが、頭で考えるのではなく、躰で覚えた感覚で操るそれはまさに神業だった。
(どんな奴が運転してるんだ……)
 青柳は、まるで恋に落ちたかのような顔をしていた。それとは裏腹に、秘書は呆れ返った目をしている。
「社長。また悪い癖が出てますよ」
 彼女がたしなめるが青柳の耳に届いておらず、譫言のようにこう呟いていた。
「……欲しい」


 古びたビルに軽快な足音が響いた。それは階段を駆け上がり、あるドアの前で止まる。
 竜崎探偵事務所。
 出入口のドアには、そんなプレートが掲げてあった。外観はみすぼらしいが、ここの探偵が元四課のデカでかなり腕がいいということは、夜の世界で生きている連中の間では常識のように知れ渡っている。そしてこのところもう一人、有能な助手がその仕事を手伝っているという噂も、囁かれるようになっていた。
「ただいま~」
「お疲れさん。荷物は間に合ったか?」
「ばっちり。余裕だね」
 謙二朗は持っていたヘルメットを応接セットのテーブルに置き、奥の部屋へと向かった。そして手にアイスクリームのカップを持って戻ってくる。
「だけどさ、俺はバイク便じゃないっつーの。ほんっとあんたって人遣い荒いよな」
「お前みたいに速いバイク便があるか。ファックスで送るより早いんじゃないか?」
「んなわけあるか。ところでさ、あの台所のデカい鍋はなんだよ。なんで事務所にあんなもんが必要なんだ?」
「ん?」
 文句を言われるのは目に見えているので、竜崎は答えなかった。もちろん、あれは冬場のおでんのためだ。ストーブの上でコトコト煮るそれは、味がしみて最高に旨い。
「またおでん作る気だろ? 俺がせっかく鍋捨てたのに。そもそもなぁ、あんなデカい鍋、邪魔でしょうがないんだよ」
 そんな小言を言う謙二朗の声を聞きながら、竜崎はタバコを咥えて火をつけた。そして、窓の外を見る。
(ああ、もうこんな季節か……)
 窓から見えるビルの向こうの空は、夏の名残を思わせる色をしていた。
 謙二朗がここに来て、一年と三ヶ月ほどが経とうとしている。この生意気な助手は出会ったばかりの頃、周りはすべて敵だというように触れれば切れそうな空気を纏っていたが、今では随分進歩したものだ。こうして少しずつ時を重ねていくのかと思うと、竜崎の心は満たされる。
 ときどき小言を言われ、ともに仕事をし、そして時には愛し合う。節操なく躰だけのつき合いを繰り返してきた竜崎にとって、特定の相手を見つけられたことは、奇跡のような幸運だった。
「うぃーっす!」
 タバコを一本吸い終えて灰皿に押しつけているとドアが開き、崇が勢いよく事務所に飛び込んできた。相変わらず元気な奴だと、竜崎は笑う。
「よ、小僧。仕事はがんばってるか?」
「がんばってるっすよ。あ、それ旨そ」
「喰う?」
 謙二朗がそう言ってアイスのカップを渡すと、崇は遠慮なく手を出した。三口ほど食べ、それを戻すのを見て「回し喰いか……」と妙におかしくなった。謙二朗は今、友達とごく普通にやることを全部やりたい時期なのかもしれない。
 崇が厄介ごとを抱えてこの街にやってきたのは約三ヶ月前。今はその問題も解決し、自動車の整備工場で働いている。警戒心の強い謙二朗と友達になることができた崇は、友達を作る天才だ。この人懐っこい青年のことを、竜崎は信用している。
「なぁ、謙二朗。明日仕事休みなんだろう? 走行会行かね?」
 崇が言うと、謙二朗は最後の一口を食べ、カップをテーブルの上に置いた。
「走行会?」
「そ。バイクの走行会。サーキットを走るんだよ。お前のバイクだって申し込みすれば走れるって知ってた? 俺、前からお前がなんでレースやんないのか不思議だったんだ」
「金がかかるし、時間もなかったからな」
「明日のはもう応募締め切ってるから無理だけど、コースを見るだけでもいいじゃん」
 崇はもうそのつもりになっているらしく、しきりに行こうと謙二朗の腕を掴んで揺すっている。まるで犬が尻尾を振って「遊ぼう」と訴えているようだ。謙二朗は、さしずめ塀の上から冷めた目でその様子を見下ろしている野良猫だ。
「行けばいいじゃないか。何を迷ってる」
「竜崎さんは行かないんっすか?」
「俺か?」
「なぁ~んで竜崎さんを誘うんだよ」
 謙二朗が嫌そうな顔をすると、俄然行く気になって「よし、俺も行く」と即座に言う。
「わざと言ってんだろ、竜崎さん」
 喰ってかかる謙二朗を見て、崇が笑った。
 謙二朗は知らないが、この悪ガキは竜崎たちの関係を知っている。
「いいじゃん、オリーヴさんも誘ってさ。お前バイク出せよ。ツーリング気分で行ったら楽しいって。場所はここなんだけどさ……」
 崇がバイク雑誌を開くと、謙二朗はそれを覗き込んだ。やはりバイクレースには興味があるようだ。待ち合わせの時間などを話しているうちに、次第に本心が表情に出てくる。なんてことないという顔をしているが、本当はすごくわくわくしているのだ。ただ、はしゃぐことに慣れていなくて喜びを素直に顔に出せないだけだ。
 実の母親からは性的虐待という歪んだ愛情しか注がれずに育ち、長いこと友達も作らずに一人で生きてきた謙二朗は、オリーヴという本来あるべき母親のような存在を手に入れ、そして崇という友達を得た。今も他人との距離の計り方が上手くできず、戸惑っていると感じることも多いが、それでもこうして少しずつ周りに溶け込んでいる。
「じゃあ明日八時な。竜崎さんもいいっすよね。車、俺が出すし」
「じゃあガソリン代は俺が出してやる」
「竜崎さんも本当に来るのかよ?」
「ああ、行くぞ。行ってやるとも」
 当てつけがましく言ってやると、謙二朗は恨めしげな目で睨んできた。そんな顔をしても無駄だ。というより、そんな顔を見たくて挑発しているわけだが、謙二朗はまんまと乗せられる。