立ち読みコーナー
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 男というのはどうしようもない生き物で、バリバリと仕事をしている最中ですら、ふと邪な妄想に耽る時がある。いや、英雄色を好むという言葉もあるくらいだから、精力的に仕事をこなす男がそちらの方も旺盛なのは当然のことかもしれない。
 國武馨は、朝っぱらから積み上げられた大量の書類に少々うんざりとしながら、息抜きとばかりに顔を上げた。その視線の先には、若い男の姿がある。
 北川慎一――國武の直属の部下で、恋人である。
 癖のない黒髪、すっきりとした切れ長の目。
 営業をしているわりに愛想はあまりよくないが、それが逆に取引先の信用を得ているのも事実だ。最小限のことしか話さずともその仕事に抜かりはなく、かなりの実績を上げていた。また、清涼感のある声は耳に心地好く、まるで今の季節に吹く薫風のような爽やかさすら感じさせることもある。だが、デキる部下はプライベートではまた違う一面を見せてくれるのだ。
 國武だけが知っている、北川のもう一つの顔である。
(今夜辺り誘ってみるか……)
 國武は澄ました顔で書類にハンコを押しながら、アフターナインのことに思いを馳せていた。明日は休日だ。
 書類に目を通すふりをしながら受話器を取り、北川の携帯に電話をかける。すると、北川がスーツの内ポケットに手を伸ばすのが視界の隅で確認できた。社内にいるのに会社の番号が表示されていることを訝しく思ったらしく、少し怪訝そうな顔で携帯に出る。
『はい、北川です』
「俺だ」
 そう言うと、受話器の向こうで北川が息を呑んだのがわかった。わずかな戸惑いとともに、甘い空気が微かに漂う。國武の席からは北川の横顔がよく見えるが、歳のわりに純情な恋人は國武の視線を感じてか、決してこちらを見ようとはしない。
「取引先と電話をしてるふりをするんだぞ。みんなにバレるから」
 その横顔を見ながら、わざとそんな台詞を吐いた。
『あの……いつもお世話になってます』
「実はデートの誘いなんだがな。今晩空いてるか?」
『その件でしたら、折り返しお電話してもよろしいでしょうか?』
「この後部長に呼ばれてるんだ。お前もそろそろ出るんだろ? 今話しておかないと、今夜確実に捕まえられそうにないからな」
 俯き加減の恋人が、微かに目許を染めたのがわかった。こういう悪戯に戸惑っている様子がたまらない。真面目な部下をこんなふうに誘惑するのはこの上ない悦びだった。
 OLたちが黄色い声をあげて噂する國武も、一皮剥けばただの恋するオヤジだ。
「こら、そんな色っぽい顔をするな。資料室に連れ込むぞ」
『……そんな、ご冗談を』
「本気で言ってるんだがな」
『この後ご予定があるのでは……』
「お前を抱けるんならすっぽかすさ」
 戯れにそんなことを言い、くすくすと笑うと國武はまた書類に視線を戻してデートの交渉を続ける。会社の電話を使って何をしているんだと自分でも思うが、会社の業績は右肩上がり。売り上げに十分貢献しているヤリ手の男は、連日の残業で恋人と会う時間もなかなか取れないのだ。多少の息抜きをしたところでバチは当たらないだろう。
 國武の気持ちが通じたのか、今夜九時に会う約束を取りつけることができた。これで二週間ぶりに恋人を存分に抱ける――そんな思いを抱きながら最後にこう言う。
「愛してるよ」
『!』
 次の瞬間、ぶち、と電話は切られてしまった。ちらりと視線をやると、北川は携帯を握り締めたまま硬直している。
 悪戯がすぎたかと思いながらもそっと受話器を置き、國武は何喰くわぬ顔で席を立った。


 國武が北川とそういう関係になったのは、今から約十ヶ月ほど前のことだ。男同士の恋は何かとトラブル続きで、脅迫された北川がクスリを盛られていかがわしいビデオを撮られそうになったり、拉致された北川を助けに行った國武が友人とともに大立ち回りをしてみたりと、スリリングな体験も多くしてきた。だが、ここのところはそういったこともなく、恋人との甘い恋愛を愉しんでいる。
 男になんてまったく興味のなかった國武だが、女にはないストイックな色気を持つ北川を手放すことなんて考えられないほど、この恋にのめり込んでいた。
 人生、何が起こるかわからない。
「失礼します」
 國武は会議室のドアをノックし、中に入った。ブラインドで入ってくる光を調整しているが、外は眩しいくらい晴れ渡っている。
「すみません、もうおいででしたか」
「いや、わたしも今来たところだよ。朝の忙しい時にすまないね」
 部長はそう言うと、にこやかに椅子を勧めた。
「関西支店のことなんだがね」
 國武の会社が関西に支店を作る話が出たのは、およそ二年前。それから十分な期間を費して検討を繰り返し、準備を進めてきた。約半年前からオフィスの確保や優秀な人材の引き抜きなど、具体的に動き出している。新卒で採用した社員も三月から研修を開始し、四月からは先輩の営業部員につかせて現場で仕事のやり方を叩き込み、いつでも使えるように今も指導を続けている。
 特にここ三ヶ月は忙しかったが、七月の関西支店開設にはなんとか間に合いそうだ。
「実はな、急でなんだが、支店が軌道に乗るまで、こちらの営業部から優秀な人間を派遣しようという話が出てるんだよ」
「優秀な人間をですか」
「そうなんだ。今でも十分だとは思うんだが、最初は何があるかわからんしな。上から指導する立場の人間というより、実際に営業として新しく入った社員の見本になるというかね。ほら、現場の活気というか、黙っていても周りを刺激してくれるような若い社員がいると立ち上がりもいい雰囲気で始められるだろう。君なら誰を推薦する?」
 営業一課の中で一番有能な部下といえば、北川だろう。恋人関係になる以前から、國武は北川に目をかけていたのだ。純粋に仕事の面で評価していた。
「北川なら適任だと思いますが。今も北川は新人の指導によく関わってますし、信頼もされてます。こっちで仕事のノウハウは叩き込んでいても新しい支店でやるとなると不安もあるでしょうし、あいつが現場に入ると安心なんじゃないですかね」
「君もそう思うか?」
 部長も、はじめから北川に決めていたようだ。相談というより、これは確認だ。自分と國武の考えが同じだということに、安心したような顔で頷いた。
「問題は今抱えてる仕事の方だが」
「今は特に大きな案件は抱えてないはずですから、誰か代わりの者に引き継げば、半年くらいの異動は可能だと……」
「じゃあ、あとは本人の意思確認が取れたら決まりだ。君から有能な部下を奪って悪いが、半年だから我慢してくれ」
 そう冗談めかして言うと、部長は思い出したようにこうつけ加える。
「ああ、それから北川には主任ということで向こうに行ってもらうよ」
「主任ですか」
「今でもそれだけの評価をされる仕事はしてる。本社に帰ってきてもそのまま主任ということで話が出てる」
(北川が主任か……)
 入社した時からその働きを見ていた國武は、自分のことのように嬉しく感じた。部長の言う通り,そう評価されるだけの仕事はしている。
 それから部長は、内線で営業一課に電話を繋いだ。ほどなくして会議室のドアがノックされ、折り目正しい態度で北川が入ってくる。
 先ほどは色気のある表情を見せた北川だったが、今は仕事をする男の顔になっていた。
「朝から悪いね。時間は大丈夫かな?」
 北川は腕の時計で時間を確認すると、あと五分ほどで会社を出る予定だと言った。
「今、課長とも話をしてたんだがね、半年ほど関西支店に行ってもらいたいんだ」
「関西支店ですか」
「営業主任だぞ、北川」
「……え」
 國武の言葉に、北川はきょとんとした顔をしてみせた。部長が詳細の説明をすると、その表情が引き締まる。
「とりあえず半年だ。あっちで君の手腕を発揮してくれ。期待してるから」
「ありがとうございます。自分を試すチャンスですし、もちろん受けさせていただきます」
「正式に上に返事をしてもいいね?」
「ええ、もちろんです」
「じゃあ、がんばってくれよ」
 部長が手を伸ばし、二人はしっかりと握手する。こうして、北川の関西支店への半年間の転勤は、すんなりと決定した。