立ち読みコーナー
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 パソコンの横のドットプリンターが、忙しなく用紙を吐き出していた。
 ブラインドから漏れる夏の日差し。少し効きすぎたクーラー。
 女子社員たちは、いつもよりいささか険しい表情になって机に向かっている。
 毎月この時期になると、経理課のあるこの一角は、ピリピリとした空気に包まれる。月例報告など、本社に提出する書類に追われるからである。いつもは愛想のよい女の子たちも、この日ばかりはしごく冷たい。
 まるで、誰かに恨みがあるかのようだ。
 國武馨は、その名前にそぐわない面に深い皺を刻み込ませたまま、物思いに耽っていた。
 三十六歳、離婚歴あり。会社での役職は課長ということになっている。
 大学の頃、ワンダーフォーゲル部で鍛えていたためか、その肉体はまだ二十代を思わせるものがある。先日行われた社内での健康診断の結果は、かなりの好成績であった。
 いささかタバコの吸いすぎで肺は真っ黒だが、連日の接待にも音を上げない強靭な肝臓は衰えることを知らないし、体脂肪率なんかは、二十代男性の平均値を軽く維持している。
 かといって痩せぎすというわけではなく、その躰を覆うはずだった脂肪が筋肉に取って代わったにすぎないのだ。
 羨ましい限りである。
 オフィスに閉じ込めておくのは勿体ないような肉体を持て余し、國武は椅子の中で身じろぎすると、自分のところからは頭のてっぺんしか見えない位置に座っている部下を呼んだ。
「北川。ちょっといいか?」
「はい」
 よく通るハイ・バリトンが返ってくる。
 ざわついたオフィスの中でも、その声の存在感は損なわれることはない。どんなに澱んだ空気の中でも、それは一種の清涼感を伴いながら耳に飛び込んでくるのだ。
 心地好く響くのではなく「飛び込んでくる」という表現がぴったりとくる芯のある声だ。
 声の主は席を立つと、慇懃な態度で上司の前でしゃんと背筋を伸ばしてみせた。
「なんでしょう?」
 彼の名を、北川慎一といった。
 若い連中の中でも、國武が一番目をかけている男である。
 名の知れた大学を出ているだけあり、頭の切れはかなりよかった。しかし、それを鼻にかけるでもなく、どんな人間の言葉にも耳を傾け、もしそれが間違っていると判断すればたとえ上司でも真正面から突っかかってくる。
 お世辞にも世渡りが上手いとは言えないが、賢いわりに不器用であるというアンバランスな魅力を備えた男であった。
「昨日の商談のことだがな」
「後は自分が引継ぐという話でしたが、何か変更…」
「──いや」
 部下の言葉を遮ると、今朝から故意に逸らしていた視線を彼へと向けた。当然のごとく目が合う。
 目を見ずに人の話を聞くような相手ではないのだが、なんのためらいもなく真っすぐに見据えるこの視線を、今ほど厄介だと思ったことはない。
 すっきりとした切れ長の目に見下ろされると、心に後ろめたさを抱えている時などは、責められているような気分になる。
 ちょうど今、國武がそうであるように。
「そのことでいろいろ話したいんだが…もうすぐ昼だ。一緒に飯でも喰うか」
「ええ」
「何が喰いたい?」
 空になったタバコの箱を丸めると、國武はそれをゴミ箱に放り込んだ。
「えっと、腹に溜まるモンがいいですね。飯粒が喰いたいんですけど…どんぶりものとか」
 課のほとんどの人間が夏バテしているというのに、北川は聞いただけで胃がもたれるようなメニューを平気で口にした。
「…まぁ、なんでもいいが」
「もしかして課長、夏バテですか?」
 いつもと変わりない部下の態度に、國武はいささかムッとしながら曖昧に返事をする。
「やっぱり弁当にしましょう。俺買ってきますから。広場で待っててくださいよ」
 弁当を買うというのに、わざわざ外へ誘うのだから、北川には上司の意図がわかっているのだろう。個人的な話をしようというのは、伝わっているようである。
 昨日の今日だ。当然だろうと、國武はおとなしく部下の言う通りにすることにした。金を渡してオフィスを出ると、よく使う広場のベンチへ向かう。
 夏の日差しを受けるコンクリートはゆらゆらと陽炎を立ちのぼらせており、國武はなんとなく溜め息をついた。


 溯ること、約十四時間前───。
 國武と北川は、取り引き先との商談を終え、夜の繁華街を歩いていた。
 きらびやかな表通り。少し入った路地には怪しげな店の看板。そのもっと奥の方では、闇が息を潜めている。
 蒸し暑い空気の中に人間が吐き出す腐臭が交じり、街はなんともいえない熱気を孕んでいた。街路樹の幹の蝉は、人工の光に騙されて腹の器官を震わせている。
 どこにでも見られる、猥雑な繁華街の風景である。
 その日の商談相手は、今のホテルから独立し、これからイタリアン・レストランを経営しようという若い料理人だった。修行時代に苦楽をともにした仲間と共同で、自分たちの味を出せる店をやっていきたいのだという。
 そこで声がかかったのが、かつてつき合いのあった國武なのである。
 専属のデザイナーを抱える國武の会社は店舗内装などの施工を専門に行っているが、パチンコ店、ブティック、ファーストフード等、取り引き先はさまざまであり、ソープランドの内装を手がけることもある。
 いわゆるピンからキリまで、というやつだが、課長である國武が出向いたのは、彼らが独立する前のホテルと取り引きがあるからだ。さして大きくもない契約であったが、挨拶くらいはしておくのが國武が通すべき義理である。
 直接の担当は、上司に世辞の一つも言うことのできない北川だったが、先方は表面だけ調子のいいことを言う人間よりも、こういう男を望んでいたと、多大な信頼を寄せてくれた。
「まさかお前のその仏頂面が、こういう形で役に立つとはな」
「これでも愛想よくしたつもりなんですがね」
「お前、笑ったの二回だけだったぞ」
「呆れた。数えてたんですか」
「嘘だよ」
 真面目な部下をからかうと、國武はケラケラと笑いながら、饐えた匂いのする路地を通り抜け、卑猥な看板の誘いをやりすごした。
 胸元を露出した女が、掃き溜めに迷い込んだ若い鶴を肌で誘っていた。
 社内でも、部下はモテるのである。
 もちろん國武も例外ではないが、そんなことには頓着しない男は自分もその対象だとは微塵も思っておらず、側にいる部下を肘で小突いた。
「誘われてるぞ」
「やめてくださいよ」
「真面目すぎるのもなんだなぁ…」
 足を止めると、國武は浮いた話一つない部下をしげしげと見つめた。
「素材はいいんだが」
「なんですか、それ…」
 ジロリ…、と睨み返す北川に、國武は肩を竦めて独りごちる。
「なんでもないよ…」
 咽び声をあげ、熱を放出し続ける夜の街の中で見るそれはいつもと少し違って見えた。
 突き刺すように睨むのは、敵を威嚇し、身を守ろうとしているようにも見える。さらに言うなら、自分に向かって伸びてくる欲望の手に、近づくなと逆毛を立てる気位の高い猫。
 しかも、爪の先まで真っ黒な、愛想のない黒猫だ。
「…あ。課長、アレ…」
 國武がタクシーを拾おうと通りに目をやると、その後ろで黒猫が小さく声をあげた。
「どうした?」
 振り返ると、すぐ後ろにいたはずの北川の姿がない。見ると、五十メートルほど先にある建物を覗き込んでいる。
 やはり黒猫だ。動きが素早い。
 しかも、國武にその気配すら感じさせなかった。
「ここですよ。藤瀬が言ってたホテル」
 北川が覗き込んでいるのは、ブルーのライトが建物全体を覆っているホテルだった。
「ラブホテルじゃないか」
 不倫カップルでも入りやすいよう、入口のところは高い塀に囲まれていて、一歩踏み込めばすぐにその陰に隠れてしまうような造りになっていた。スポットライトは、足元だけをじっと眺めている。
 コンクリートの箱の中で、いったい何人の女が嬌声をあげていることであろうか…?
「内装がいいって評判らしいですよ。ラブホテルだからって侮れないって。タイムサービスやってないのに、平日の昼間もそんなに空き部屋がないって言ってました」
 好奇心の塊になった北川は、身を乗り出して中を覗き込んでいた。
「藤瀬とそういう話をするのか」
「あいつはデザイナーだし。俺も内装がいいって言われればねぇ…。立地条件は変わらないのに、新しくできたところよりも客集めてんですよ? 課長は興味ないんですか?」
「──ある」
 國武は即答した。
 直接内装のデザインを手がけるのは専属のデザイナーだが、営業といえどまったくのオンチでいいわけではない。資材の発注を含め、予算の範囲内でいい仕事をするには、それなりのセンスと知識が必要だ。
 ここでノーと言うのは、営業として学ぶべきものを放棄するのと同じである。
「男同士で入れますかねぇ…」
「入るのか?」
「興味あるって言ったじゃないですか」
「言ったが…」さすがの國武も、二の足を踏んだ。
「課長の奢りということで…」
「接待費で落ちると思うか?」
「無理でしょう」
 先にフロントに向かったのは、北川だった。
 こういう場面に慣れているのか。同伴者が男でも躊躇した様子は見られない。
 さすが最近の若いモンは違うと、國武がその後を追う。
「やっぱりパネルじゃなくて、実物見たいですよね…」
 言いながら、答える隙すら与えずに、北川はその中で一番高い部屋のボタンを押した。