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 花盗人のくちづけ
あとがき
 花盗人のくちづけ

 もうすぐお母様に会える。お母様に…。
 白い頬(ほお)を薄紅色に染めて、一人の少年が初夏の緑に彩られた白樺(しらかば)の道を駆け抜ける。大きな目をきらきらと輝かせ、大事そうに何かを手に持っていた。
 夏彦(なつひこ)の母は現在、東京の本宅に住んでおり、一か月に一回、夏彦の住む軽井沢(かるいざわ)に顔を出しに来てくれる。
 夏彦は今年六歳になったが、東京の水が合わないのかすぐに熱を出し、ここ軽井沢に療養に来て半年ほどになっていた。
 まだ六歳。母と離れて暮らすのは非常に辛(つら)いものがある。そんな中で、月に一度の母との面会は夏彦にとってかけがえのない大切な日であった。
 しかも今日はさらに特別だった。軽井沢で人気の鳩村(はとむら)屋の金平糖(こんぺいとう)が手に入ったのだ。でこぼことした小さな砂糖菓子はいろんな色に染められ、陽(ひ)にかざせば宝石のようにきらきらと輝いて、見ているだけでも夏彦をわくわくさせる。これを母に一刻も早く見せたくて、夏彦は全速力で走っていた。
 母は以前、この鳩村屋の金平糖を見て、綺麗(きれい)ね、と笑ってくれたのだ。
 今度もきっと喜んでくれるに違いない。
 どきどきしながら屋敷まで続く小道を精いっぱい早く走ろうと、草履(ぞうり)を脱いだ。
「この木に草履を引っかけといて、後で三矢(みつや)に取りに来てもらおう」
 草履を道沿いの木にかけようと手を伸ばした。
 その時だった。押し殺したような泣き声が、夏彦の耳に聞こえてきた。
「あれ…?」
 目を凝(こ)らせば、一人の青年が道から少し外れた大きな木の下で蹲(うずくま)っていた。夏彦はどうしようか悩んだが、泣いている人を放っておくこともできずに、青年がいる場所へ近づいた。
「どうしたの? お兄ちゃん。おなか、痛いの?」
「え…」
 顔を上げた青年の頬は涙で濡(ぬ)れていた。
「あ…おなか、すごく痛いの? 大丈夫?」
「おなかが痛いんじゃないから、大丈夫だよ」
 青年は小さく微笑(ほほえ)んで答えてくれた。その優しげな笑みに、何故か夏彦は恥ずかしいような、くすぐったいような、不思議な気持ちにさせられた。その笑顔を見ていると、もっとこの青年と話してみたくなる。
「どうしたの? お兄ちゃん」
「どうもしないよ」
「嘘(うそ)。泣いてるもん。どこか痛いんでしょ? どこが痛いの?」
 泣いているという言葉に、青年は驚いたように目を見開くと、慌てて手の甲で涙を拭(ぬぐ)った。どうやら本人には自覚がなかったらしい。
「僕の別荘、すぐそこなの。三矢もいるから、お医者さまを呼んでもらおっ」
「ありがとう。でも僕はどこも具合は悪くないから、大丈夫だよ」
 とても大丈夫ではなさそうな表情で青年は笑った。夏彦はそんな彼が心配で、その手を引っ張った。
 するり…。
 手首にかけていた巾着が落ちる。中に金平糖が入っている巾着だ。
「あ…」
 巾着の口がきちんと締まっていたおかげで、中から金平糖が零(こぼ)れ落ちることはなかった。
 でも―――。
 夏彦は巾着を拾うと、そこから綺麗な桜色の懐紙に包まれた金平糖を取り出した。
「これ、半分あげる」
「え?」
 夏彦はポケットからチリ紙を出し、金平糖を半分そちらに乗せた。
「僕のお母様、この金平糖を見て、綺麗ねって笑ってくれたんだ。だからお兄ちゃんも笑って…」
「でも君の分が少なくなるだろ?」
「お母様にあげる分があればいい。お兄ちゃん、はい」
 青年が再び瞠目(どうもく)した。
「ありがとう…。綺麗な色だね」
「うん。この色、僕も大好きなんだ。だからお兄ちゃん、元気だしてね」
 夏彦は満面の笑みで答えると、青年も嬉(うれ)しそうに笑みを浮かべてくれたのだった。
 ―――それは十二年前、初夏の軽井沢での小さな出来事であった。





 会場は大きなホテルだった。今宵は三直(みのう)侯爵の還暦祝いの夜会で、華族を含め、名だたる上流階級の人々が招待されていた。楽団がワルツを奏でる中、多くの紳士淑女がホールの中央でダンスを楽しんでいる。
 一体、この中でどれだけの人間が、明日の生活にも困り家財を競売にかけ、日々の糧にしているのだろうか。
 外見からは判断できないが、多くの華族が没落している昨今、優雅に見える招待客でも内情は火の車であることが多い。
 夏彦は誰にも気づかれないように小さく溜息(ためいき)を零した。
 夏彦は花房(はなぶさ)伯爵家次男であるが、ご多分に漏れず、没落の一途を辿(たど)る華族の一つだ。大正の時代に入って、ますます家の状態は傾いている。父も兄も暇があれば金策に駆けずり回っているが、それもいつまで続くか問題であった。
 長男は裕福な子爵家令嬢と結婚したが、姑(しゅうとめ)が事業に失敗し多額な借金を抱えてしまい、当初の目論(もくろ)みも泡となり、どうにもならない状態だ。母親はお嬢様育ちで、世間知らずに屋敷で過ごしている。父は次男の夏彦に資産家の娘を嫁に貰(もら)うか、または婿に出すかで、日々画策しているようだが、花房家の内情を知った上で、夏彦に娘を差し出す者などいなかった。花房家の家計の面倒を見るのは並大抵ではないのだ。
 夏彦はウェイターから渡されたシャンパンにその唇を寄せた。口の中で甘く弾(はじ)けるそれは、今や花房家の日常ではとても飲むことのできぬ代物だ。
「夏彦」
 ふと、後ろから声がかかる。振り向くと幼馴染(おさななじ)みの泰成(やすなり)が、同じくシャンパンを片手にこちらへやってくるのが見えた。
「泰成…」
 泰成は淡いグレーの仕立てのいい礼服をきちりと着こなし、堂々と歩いてくる。その姿にしばし見惚(みほ)れる。
 彼から愛の告白を受けたのは、もう一年以上前になる。幼馴染みとして一緒に過ごしてきた夏彦にとって、泰成はいつも憧(あこが)れの友人であった。その彼が自分に愛していると告げてきた時、夏彦は夢でも見ているのではないかと思ったくらいだ。
「夏彦、こういった場所で会うのは久しぶりだな」
「ああ、なかなか夜会にも顔を出せなかったから…大河内(おおこうち)子爵は?」
 泰成は夏彦の家と同様、没落しつつある華族の一つ、大河内子爵の嫡男である。嫡男ということもあって夏彦よりも気苦労が多いはずだが、彼はそんな様子を微塵(みじん)も見せずにいつも夏彦を温かく見守ってくれていた。
「ああ、父は今夜はどうしても外せない仕事で他(ほか)の集まりに出掛けている。それでこの夜会の出席を押しつけられたんだが、夏彦に会えたなら、父に感謝しないといけないかな」
「泰成…」
 夏彦の頬に熱が俄(にわ)かに集まるのがわかる。
「テラスの方へ行かないか。二人っきりで話がしたい」
「うん…」
 泰成の腕が夏彦の袖(そで)を掴(つか)む。人目があるせいか手を握ってくれないのが、少し寂しかった。だが、手を握られたら握られたで、躰(からだ)が震え足が動かなくなりそうで怖い。
 夏彦は泰成に促されるままテラスへと出ようとした。
「まあ、鷹司(たかつかさ)男爵ですわ」
 突然、夏彦の傍らに立っていた婦人方から声が上がった。
「なんて運がいいのかしら。最近、鷹司男爵、夜会にお顔を出す回数が減りましたもの。なかなか会えなくて残念に思っておりましたところですのよ。奥方もまだ軽井沢で療養中とのこと、ウフフ…、お声をかけるチャンスですわね」
 婦人方の声につられ、夏彦は広間の中央へと目を走らせた。多くの人が談笑する中、一際目立つ男がいる。鷹司男爵家、当主、鷹司宗敬(むねたか)だ。艶(つや)やかな黒い髪を後ろに流しているのだが、髪をかっちりと固めず、その秀でた額にぱらりと零す様が、なんとも男の色気を醸し出している。全体的に甘い雰囲気であるが、それをただの甘さで終わらせないのは、彼の鋭い眼光のせいだ。男らしいきりりとした眉(まゆ)の下に、ただの道楽金持ちではない、理知的な輝きを秘めた深い黒色の瞳(ひとみ)が存在している。