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 狼の妻籠み
あとがき
   1

 第五時限の講義が終わり、水守瀬津(みずもりせつ)は教室を出て、大学の正門に向かって歩いていた。
 午後六時をまわっても外はまだ明るく、髪を揺らす風は爽(さわ)やかで心地よい。六月は瀬津が一番好きな季節だ。
 このままなにも問題が起こらなければ、今日は回り道をして、眺めのいい川沿いの土手を散歩しながら駅まで帰ってもいいかもしれない。
 大学二年生の瀬津は、サークル活動もアルバイトもしておらず、子どものころから親しい友人を作らないようにしている。
 孤独だったが、瀬津が瀬津らしく生きるには、孤独でなければならなかった。瀬津の寂しさは、優しい両親が癒(いや)してくれた。
 しかし、瀬津を理解し、溢(あふ)れんばかりの愛情を注いでくれた両親は、半年前に交通事故で二人揃(そろ)って呆気(あっけ)なくこの世を去ってしまった。
 瀬津を一人置いて。
 両親のことを思い出すと、今でも涙が零れそうになる。たった半年では、悲しみは昇華(しょうか)できない。
 涙を堪(こら)えようと顔を上げ、くんと息を吸った瞬間、不快な匂いを嗅(か)ぎ取(と)った。
 瀬津は生まれつき鋭い感覚を持っており、人間では感知できないレベルの匂いや音を認識することができる。
 その感覚にはムラがあって、満月はもっとも敏感に、新月前夜の今日のような日には甚(はなは)だしく鈍るのだが、鈍った鼻がむずむずするほど気持ちが悪い。
 油断なく周囲を確認すると、一人の男が建物の陰に隠れて瀬津を待ち伏せているのがわかった。
「……やっぱり」
 瀬津は小さく、吐き捨てるように呟(つぶや)いた。
 その男は坂井敦史(さかいあつし)という、瀬津と同じ大学に通う四年生である。ひと月ほど前、坂井はカフェテリアで一人昼食を摂っていた瀬津に、一目で心奪われてしまったらしく、図々(ずうずう)しくも隣の席に座って話しかけてきた。
 初対面の後輩に向かって、親しくなりたい、友達になろう、二人で遊びに行こう、などと熱心に誘うのが一般的なやり方かどうか、友達を持ったことがない瀬津にはわからなかったが、その場で冷静にお断りした。
 友人は募集していないのと、突然すぎて気味が悪かったのと、坂井の目つきの異常さ、呼吸や身動きのたびに漂ってくる男の欲情した匂いがたまらなく不愉快だったからだ。
 坂井がいかに隠そうとしても、発情した匂いは誤魔化(ごまか)せない。
 百七十センチに少し足りない小柄な瀬津は、細身で色が白く、美人だった母譲(ははゆず)りの整った顔立ちをしている。長めにカットしてある髪のせいか、中性的な魅力があるらしく、男性に告白されることが珍しくなかったので、坂井に性的な対象として見られているのがわかっても、ショックは受けなかった。
 ただ、激しい嫌悪感を覚えた。
 帰り道の待ち伏せはこれで三度目になる。考えていたささやかな散歩は中止だ。
 瀬津は方向を変えて近くの棟に入り、いったん坂井の視界から消え、正門ではなく裏門から出ることにした。坂井も人目があるところでは、瀬津にしつこく迫ってこない。
 本当はこんなにふうに逃げるのではなく、容赦(ようしゃ)なく叩きのめして、身のほどを教えてやりたかった。サッカー部員の坂井は百八十センチを超える筋肉質な男だが、瀬津にかかれば、非力で矮小(わいしょう)な人間にすぎない。力の出ない新月前夜であっても、一瞬で倒せるけれど、そうすることで衆目(しゅうもく)を集めたくなかった。
 瀬津の望みは、道端に生えた草のようにひっそりと人知れず生きていくことだ。
 ひょろっとした痩躯(そうく)に、屈強な男でも敵(かな)わない強大な力を宿していることを、誰かに知られるわけにはいかない。一人が知れば、それは尾ひれ背びれをつけて広まり、やがて瀬津の自由を奪うだろう。
 裏門を出て、駅まで走りつづけた瀬津は、息も乱していなかった。なにげなく周囲を見渡し、匂いを嗅いで坂井がいないことを確認してから、改札に入り、ホームに上がると同時に滑りこんできた電車に乗った。
「……なにか、対策を考えないと」
 電車に揺られながら、瀬津は口のなかで小さく呟いた。
 氷が温かく感じるくらいの冷たい態度を取りつづけているのに、坂井はまったく諦(あきら)めない。人目につかず、坂井の逆恨みを買わず、坂井に瀬津の秘密を悟らせないような撃退方法はないものか。
 そう、瀬津には誰にも明かせない秘密がふたつあった。
 ひとつは、満月の夜になると狼(おおかみ)に変身する、人狼(じんろう)だということ。聴覚や嗅覚、動体視力、身体能力に優(すぐ)れているのは、狼の特性を持っているからだ。
 瀬津は三歳の誕生日に、初めて狼への獣化を経験した。夜空には金色に輝く真ん丸の月が浮かんでいた。
 瀬津の父は人狼の雄(おす)と人間の女性とのハーフ、母は人間の男性とハーフの人狼族の雌(めす)から生まれたクオーターで、変身能力はどちらも持っていない。
 狼に獣化できる人狼は、獣化できる純血の人狼同士からでないと生まれないため、瀬津が突然獣化したときは両親も驚いていた。
 両親の話によれば、瀬津たちは人狼族と呼ばれる種族で、その昔は純血の個体のみで人狼の群れを形成し、人間との絶対数の少なさから迫害を恐れ、人間の目を欺(あざむ)き、人間のふりをして生きてきたらしい。
 ところが、人狼はもともと繁殖力が弱いことに加え、近親交配の繰り返しで、さらに子が生まれにくくなり、純血の数は年々減少していった。純血同士で婚姻関係を結べなくなると、人間を伴侶(はんりょ)にする人狼が増え、群れが形成するコミュニティには伴侶となった人間や、その間に生まれた変身できない混血の子どもたちが混在するようになった。
 そこで、人狼たちは変身できないものたちも含めて、人狼族と族称を決めた。
 人狼族ではもちろん、獣形こそが本来あるべき姿であり、純血種のみが人狼と名乗ることを許され、尊敬、憧憬(しょうけい)、称賛(しょうさん)を集め、群れのなかでも高い地位にある。
 また、群れには明確な順位、さまざまな規則、義務があり、それを破ったり怠(おこた)ったりすると罰則を与えられる。瀬津の父方の祖父は規則や義務に縛られる生活を嫌い、群れから逃げだしたはぐれ狼で、母方の祖母の家系も同じだった。
 混血児は、人狼の血が薄くなればなるほど、人間に近くなった。
 ハーフの父は変身できずとも、満月が近づけば血が騒ぐ、といった人狼族特有の習性を持っていたけれど、クオーターの母は聴覚と嗅覚が人間より鋭い程度で、満月が肉体的、精神的に影響を与えることはなかったようだ。
 ほかにも、瀬津は怪我(けが)をしにくいうえに、治癒力(ちゆりょく)が高く、切傷や骨折程度なら一晩もあれば治ってしまうが、両親は人間と同程度の治療、回復期間が必要だった。
 はぐれ狼の子どもたちは一家族という最小限の群れを大きくしないため、自立できるようになると、家を出て、両親、兄弟とのかかわりも断ってしまう。
 瀬津も狼に変身できる父方の祖父に会ったことはない。父の記憶によると、祖父は理性でもって獣性を抑止し、満月期でも人間の姿を維持していたそうだ。
 満月に支配されず、目覚めようとする獣性をコントロールできなければ、はぐれ狼の人狼が人間社会で生きていくことはできない。
 先祖返(せんぞがえ)りしたと思われる瀬津も、例外ではなかった。
 瀬津にとって、狼の姿に変身するのは自然現象に近い。変わりたい、と思うのではなく、狼に戻りたいという強烈な欲求がどこからともなく噴きだしてきて、その衝動を堪(こら)えようとすれば、のたうちまわるほどの苦痛を伴う。
 満月が夜空に上がっても、人間のままでいられる精神力を身につけたとき、瀬津は十歳になっていた。
 つらい日々を乗り越えられたのは、両親の愛と支えがあったからだ。
 瀬津も苦しかったが、両親もつらかったに違いない。唸(うな)り声をあげて暴れ、苦痛に泣き叫ぶ息子を、満月ごとに押さえつけなければならなかったのだから。
 また両親を思い出して涙ぐんだ瀬津は、軽く頭を振って気分を切り替えようとした。
 坂井のつきまといが始まってから、情緒不安定になっている気がする。困惑している現状を誰にも相談できないのも心細かった。
 だが、仕方がない。人間の友人を作る、もしくは、同じような境遇のはぐれ狼仲間を探す、という考えは瀬津にはなかった。
 電車が自宅の最寄(もよ)り駅(えき)に到着し、改札を出て歩きだした瀬津は、大嫌いな匂いを嗅ぎつけて思わず立ち止まった。
「嘘だろ……」
 坂井が瀬津のあとをつけてきているのだ。同じ電車に乗っていたとしか思えない。
 裏門から出て走りつづけた瀬津に、どうやって追いついたのかわからないが、後ろに隠れているのは事実だった。自宅を突き止めようとしているのかもしれない。
 瀬津は舌打ちしつつ、自宅への道とは違う方向へ歩いて撒(ま)こうとした。住宅地の狭い路地の角を何度も曲がり、ときには走って振りきろうとしたが、驚いたことに坂井は瀬津の動きについてきた。
 逃げまわっているうちに日は落ちて、あたりは薄暗くなっているのに、瀬津を見失うことなく追いかけてくる。
「ありえない……。まさか、人狼族か?」
 後ろを気にしつつ、瀬津は呟いた。
 人狼族には人間とは異なる独特の匂いがあり、残(のこ)り香(が)からでも嗅ぎわけられる。けれど、人間の血が濃くなりすぎると、嗅覚での識別は難しい。
 サッカーをしている坂井の運動神経は並はずれてよかったようだし、少し人狼の血が混じっている可能性はある。瀬津に唐突(とうとつ)に絡んできたのも、瀬津の人狼族の匂いを、坂井のほうが嗅ぎつけて仲間だと思ったのかもしれない。
 こんな場合はどうしたらいいのだろう。
 困惑が瀬津の足取りを乱れさせ、街灯のない路地に入りこんだとき、坂井が駆けだして瀬津の背中に抱きついてきた。
「……っ!」
 瀬津はなんとか喉元(のどもと)で悲鳴を止めた。
「捕まえたぞ、水守。散歩にしちゃ、長いだろう。早く家に案内しろよ」
 酔っぱらっているような声と態度だが、酒の匂いはしない。その代わり、今までで一番ひどい発情の匂いがした。
「あなたのしていることはストーカーです。警察に訴えますよ」
 抵抗しながら、押し殺した声で厳しく告げても、坂井はがっちりと両腕をまわして瀬津に食らいついている。
「ストーカーだと? お前が悪いんだ。お前がいつも、いい匂いをさせてるから、離れられねぇんだよ。ああ、水守……、たまんねぇ。こんな匂い、嗅いだことねぇ」
「いい加減にしてください!」
 鼻を寄せられ、くんくんと匂いを嗅がれて、瀬津は坂井を思いきり向こうへ突き飛ばした。人狼の力を使ったので、坂井は呆気なく離れ、地面に尻餅(しりもち)をついた。
「……いてぇ。いい加減にするのはお前のほうだろうが。俺をおかしくしたのはお前だ。俺は男になんか興味ねぇのに、お前の匂いを嗅ぐと、ヤリたくてヤリたくてたまんなくなる。お前が俺を誘ってるんだ!」
 わけのわからないことを叫んだ坂井は、動体視力に優れた瀬津をも驚かせるスピードで立ち上がり、掴みかかってきた。
「うっ……」
 不意(ふい)を突かれてかわしきれず、瀬津は背中をブロック塀にぶつけた。勃起(ぼっき)している股間(こかん)を太腿に擦りつけられ、おぞましさで凍りつく。
 無意識に牙(きば)を剥(む)いて反撃しようとした瞬間、一人の男が二人の間に割りこんできて、坂井を片手で引(ひ)き剥(は)がした。
 そのまま地面に叩きつけ、うつ伏せに這(は)いつくばった背中を片足で踏みつける。
「なにしやがる! 誰だ、てめぇ! ……ぐふっ!」
 四肢(しし)をもがかせながら坂井は吠えたが、背骨が軋(きし)むほどに男が体重をかけると、息苦しくなったのか静かになった。
 瀬津はブロック塀にもたれて呆然(ぼうぜん)と、疾風(しっぷう)のように現れた男を見つめていた。暗がりでも人狼族は夜目(よめ)が利(き)く。
 精悍(せいかん)な顔立ちをした男の年齢は二十代半ばくらいで、野性的な長めの黒い髪ときっちりしたスーツが一見ミスマッチなようでいて、ぴたりとはまっている。筋肉質な身体をしているのが、服の上からでもわかった。
 身長は百八十五センチくらいはあるだろうか、大柄なのに身のこなしはしなやかで、坂井を撃退した一連の動作は優雅でさえあった。
 そして、彼からはとてつもなくいい匂いがした。これまでに一度も嗅いだことのない匂いだ。甘くて、それでいてスパイシーで、ずっと嗅いでいたいと思わせる、不思議な匂い。
 この男は間違いなく人狼、それも大きな群れのボスだ。瀬津も人狼だから、言葉で説明されなくても、近くに寄った瞬間にそれがわかる。
 男と目が合った瀬津は、慌てて斜め下を向いて視線を逸(そ)らせた。強い雄に対し、敵愾心(てきがいしん)がないことを知らせる、人狼族の条件反射のようなものだった。
 視線が向いた先で、もう一人、男が立っているのに気づく。
「真神(まがみ)さま」
 その男が声をかけた。
 真神と呼ばれた大柄な人狼のボスは、坂井の背から足を下ろすと、従者と思(おぼ)しき男に命じた。
「こいつを神名火(かんなび)に連れていけ。血の薄さに見合わない凶暴さだ。矯正ケージにぶちこんで教育しろ。みっちりとな」
 低くて張りのあるいい声だったが、その内容は瀬津を震え上がらせた。
 矯正ケージとは人狼族のコミュニティにある隔離施設(かくりしせつ)で、群れに属している、いないにかかわらず、人間社会で問題行動を起こした人狼族を収容する拘置所(こうちじょ)だと父は言っていた。
 父も祖父からの又聞(またぎ)きで、実際にはどんなものか知らないそうだが、収容されたものは改心するまでそこから出られないという。瀬津が坂井につきまとわれても、できるだけ穏便(おんびん)にやりすごそうとしたのは、この話を聞いていたせいだ。
 坂井に手を出す前に仲裁に入ってもらえてよかった、と瀬津は心から思った。カッとなって一口でも噛みついていたら、喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)で瀬津も矯正ケージ行きだったかもしれない。
「承知いたしました」
 従者は頷(うなず)き、坂井の腕を無造作(むぞうさ)に掴んで立たせた。真神ほどではないが、従者も長身で、真神よりも年上に見える。
 真神の言葉は聞こえただろうに、坂井は暴れもせず、なすがままに起き上がり、口を噤(つぐ)んでおどおどと視線をさまよわせていた。これもまた、人狼族の服従行動である。
 坂井には自身が人狼族であるという自覚はなさそうだったが、自分を踏みつけている男の強さ、人間とは違う異質の威圧感などを感じ取り、本能的にそうしているようだった。
 二人が去り、狭い路地には瀬津と真神だけが残された。
 瀬津は斜めがけにしているバッグの紐(ひも)を、両手でぎゅっと握り締めた。
 礼を言って、一刻も早く彼の前から走り去ってしまいたいが、彼はそれを許さないだろう。瀬津が彼をボスだと理解したように、彼も瀬津が人狼族だと気づいている。
 どうにかして、逃げる方法はないものか。
「水守瀬津、だな」
 名を確認され、瀬津は絶望的な気分になった。偶然、瀬津と坂井の諍(いさか)いを見つけて割りこんできたのではないようだ。
「……はい。あの、ありがとうございました。助けてくださって」
「アルファとして当然のことだ。俺の縄張(なわば)りで勝手なふるまいは許さない。それがたとえ、群れに属していないはぐれ狼や、混血によって己(おのれ)のルーツを見失い、人間だと思いこんでいる哀れな人狼族であっても。俺は真神鋼(はがね)。瀬津、お前に話がある」
 威厳(いげん)のある声でゆったりとしゃべられ、瀬津はバッグの紐をますます強く握った。
 群れには順位があり、アルファとはボスを意味している。知力、戦闘力に秀(ひい)でた人狼が、戦いによって勝ち取る最高位だ。
 アルファの下はベータ、ガンマとつづき、下位は上位の命令に逆らえない。
 瀬津は群れに属さないはぐれ狼なので、真神の命令に従う義務はないのだが、逆らえば、力でねじ伏せられて言うことを聞かされるだけだとわかっていた。
 野性の荒い血を持つ人狼族は、力がすべてだ。戦いを挑もうという気にさえなれないほど、瀬津を真神の間には力の差がある。
「どこに行けばいいですか?」
「ここからだとお前の家が一番近い」
 話し合う場所を訊(たず)ねた瀬津に、真神は当然のように答えた。
 瀬津の名前はもちろん、住所も押さえてあるらしい。たとえ相手がアルファであっても、自分の縄張りには入れたくなかった。
「でも、アルファをお招きできるような家では……」
「俺がいいと言ってる」
「……わかりました」
 ささやかな抵抗は無駄に終わった。
 無言で歩きだしながら、彼はいったい瀬津になんの話があるのだろうかと考えた。