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 Missing You
 Missing You ―Comic Version―
  あとがき
 Missing You

   ◇ 1 ◇

 二人が愛車ジェシー四号に乗ってイーストリバーを越え、ブルックリンからマンハッタンに帰ってきたのは、夜の十時になろうかという時間だった。
 ジェイク・カーティスは隣に座っている美しい恋人を、運転しながら横目で窺(うかが)った。白い肌に翠(みどり)の瞳が神秘的なエルンスト・アイヤールは、顔を横向けて窓から流れる夜景を眺めている。
 仕事が定時でひけたら、ステーキ専門店に行きたいと言ったのはジェイクだった。
 肉の他には、サラダとデザートくらいしか置いてないが、適当な値段でいい肉を食べさせてくれる店がブルックリンにあるのだ。週末になると予約を入れなければ席が確保できないほど有名な店で、わざわざ橋を渡っていくだけの価値は充分ある。
 肉が大好きなジェイクはもちろん、凝った内装やプロ意識の高いウェイターは、きっちりした性格で、気難しいところもあるエルンストの気に入りとなっていた。
 しかし、そこへ誘うのはもっぱらジェイクの方だった。
「ヘイ、ダーリン。今夜はTボーンステーキかラムチョップをしゃぶりに行こうぜ」
 ジェイクが声をかけると、エルンストはどうしようかな、あんまり行きたくないんだけど、という顔を見せる。本気で迷っているときと、口先だけのときの違いは、同棲生活一年目の恋人なら機敏に読み取って当然だ。
「そんな顔すんなって、俺の奢(おご)りだぜ、橋を渡れば…」
「それなら行こうかな。ちょうど美味い肉が食べたいと思ってたんだ」
 話を遮って返ってくる返事の速いこと。奢りだぜ、と言う前にそう言ってくれればいいのに、とジェイクはいつも思うが、惚れた弱みで文句は零したことがない。奢りだとわかった途端、現金に頬を緩ませる恋人の柔らかい表情を見るのは、密かな楽しみでもあった。
 とはいえ、エルンストはジェイク以外の人間に、そうやってたかったことはいまだかつてないし、ステーキ代が払えないほど生活が困窮しているわけでもない。
 ニューヨーク市警、二十三分署で働く捜査一課の刑事としての給料は、ジェイクと同じくらいだ。警察に入ったのはエルンストの方が一年早かったから、違いがあるとしてもその程度だろう。
 だが、彼には数年前に他界した両親から受け継いだ資産があった。どれくらいあるのかは訊いたことがないので知らないが、多分、本当は働かなくても生活していけるのではないかとジェイクは思っている。
 一年前にジェイクが転がり込んだヨークヴィルのアパートメントも、今運転しているニューロ・コンピュータを使ったナビゲーションシステムと高性能のパソコンを搭載したこの車も、エルンストのものだ。中の装備を見て、『オタクだねぇ、お前も』なんて言ってはみたが、車にかかった費用の総額は、怖くて訊けなかったジェイクである。
 このように、金は腐るほど持っているくせに、細かいところで締まり屋な恋人は、ジェイクの奢りでステーキを平らげ、少し高いワインを飲んでいた。
 赤信号でブレーキを踏んだジェイクは、右手を伸ばし、エルンストのすべすべした頬を人指し指の甲で撫でた。
「エリー? お前、ちょっと酔ったのか?」
 エリーというのは、ジェイクだけが呼ぶことを許されている愛称だ。自分だけが特別なのだというお墨つきをもらったようで、ジェイクはとても嬉しかった。
 シートに深くもたれていたエルンストは、ゆっくりと顔だけをジェイクの方に向けた。
 瞳がトロンとして、どこか眠そうに見えるけれど、リラックスした上でのぼんやりとした表情は、いつものしゃきしゃきした彼からは想像できないほど穏やかで色っぽい。眦(まなじり)をキリッと上げて殺人犯を追う彼はとても素敵だが、こんな風情の彼には妙な保護欲を掻(か)きたてられてしまう。
 ジェイクは信号を気にしながら、今度は仄(ほの)かに色づいている唇を、頬と同じように撫でた。そこはとても柔らかくて温かい。
 エルンストは唇を触らせたまま、指にキスするようにしゃべった。
「酔ったって、このわたしが? まさか」
 当然の返事に、ジェイクはそっと苦笑した。我が恋人ながら、彼は時折アンドロイドじゃないかと思うほど酒に強く、酔ったところをジェイクにも見せようとしない。
『わたしがなにより嫌っているのは、我をなくして醜態を晒(さら)したり、二日酔いのだらしない顔で仕事場に出勤することだ』
 と、以前言っているのを聞いたことがある。
 ヘェ、さすがは責任感の強いエリーだ、しっかりしてるなぁと無邪気に感心していたが、
『お前のようにな』
 なんてフフンと鼻で笑われた瞬間、お前も絶対に酔い潰してやるとジェイクは意気込んで勝負を挑んだものだ。勝てないまましばしばそれを繰り返し、己の行動が無謀にすぎないと気づいたのは半年前のことだった。
「そうだよな、お前があれしきのワインで酔うわけないよな。なんかそんなふうに見えたんだ」
 青信号に変わったので、ジェイクはそう言って前を向いた。
「酔ってるわけじゃないが、少しぼぅっとしていた。橋を渡る景色は最高だが、車に揺られてるとなんだか眠くて」
「長距離ドライブならいくらでも寝ていいぜって言ってやるけど、アパートまでもうすぐだ。起きてる方が楽だぜ」
「ん、わかってる」
 エルンストは身体をシートに沈ませたまま、両腕を前に伸ばして軽く伸びをした。気怠げに眉を寄せた表情といい、退屈を持て余したネコみたいでとても可愛い。
 ネコじゃらしを持ってちょっかいをかけたいのは山々だが、一分でも早く家に帰ってベッドに潜り込んだ方が楽しそうだ。少し眠そうなとき、少し疲れているようなときの方が、エルンストの肉体は快楽により忠実になる。
 たぶん、翌朝の疲労度も快感度に比例して高くなるのだろうが、そのことについてエルンストが文句を言ったことはなかった。二人の話し合いと歩み寄りで、セックスは三日に一度と決めているし、OKを出した以上、苦情は申し立てるべきではないと、真面目な彼は考えているようだ。
 今夜のお楽しみに顔がニヤけてこないように注意しつつ、ジェイクはアクセルを踏み込んだ。
 イースト・ヴィレッジを抜け、北東に車を走らせていると、前方にエンパイア・ステート・ビルが光り輝いているのが見えた。夜にライトアップされたところはもちろん、昼間でもじっくり見上げることがないので、なんだか新鮮な気がする。
 ニューヨークのシンボルとして世界中の人に愛されているビルなのに、ジェイクは展望室に上ったことがなかった。行こうと思い立っても、チケット売り場はいつも行列で、ついついそこで挫折してしまうからだ。
 ジェイクはふと思いついて、エルンストに言った。
「なぁ、エリー。今度一緒に休みが取れたら観光所巡りをしようか、ニューヨークの」
「なんだそれは」
 気のない返事だったが、かまわずつづける。
「エンパイア・ステート・ビルに上って、俺たちがあくせく働いてる摩天楼を見下ろすってどう? チケット売り場の行列もお前と並ぶんなら、楽しそうだ。あとは美術館や博物館を巡ってみるのもいいし、教会でもいいかもな。地元に住んでると、なかなかそんなことしないだろ?」
「する暇がないと言った方が正しいな。まとまった休みが取れたら、外へ出て行ってしまうことが多いし。それはトムがしたいと言ってるのか?」
「いいや。なんで?」
「お前らしくない意見だと思ったから。その口から美術館、博物館に教会だなんて。明日、大雨か嵐になったらお前のせいだぞ」
 エルンストは確実に雨が降るような口振りで、形のいい眉を顰(ひそ)めて文句を言った。
「お前って、綺麗な顔で失礼なこと言うよなー…」
 少しがっくりきて、ジェイクは唇を尖らせた。
《仕方ないよ、ジェイク。それが君という男のイメージなんだ》
 すかさず得意げにジェイクの頭の中に話しかけてきたのは、トムだった。
 トムは今から半年前、宇宙広域指名手配犯のジェリーを単身追いかけて、はるかこの地球までやってきた宇宙人刑事だ。異種依存型有機生命体で、ジェイクに寄生しており、実態は半透明のゼリー状の小さな生物である。
 エルンストとジェイクはトムに協力し、三人で凶悪殺人犯のジェリーを葬り去ることに成功したが、地球に墜落したときに宇宙船を失ったトムは、宇宙局の捜査官が迎えにきてくれるまで、自力で母星には帰れないらしい。通信機器さえ持っていないので、居場所を報告することもできず、捜査官に見つけてもらうのを待つばかりの身の上である。
 宇宙人の存在すら知らない、無知で野蛮な地球人の中に独りぼっちで生活せざるを得なくなってしまったトムはしかし、寂しさや心細さというものをジェイクにあまり感じさせなかった。
 それは、宿主である自分との共生が上手くいっていることと、情熱的な恋をしているせいだろうとジェイクは思っている。
(おいおい、トム。俺のイメージってなんだよ、それ)
 トムとの会話はテレパシーで話すようなものだ。声を出す必要がなく、楽といえば楽だが、そのときの感情が表情に出てしまうので、最近は努めて無表情を保つようにしている。
《そのままのことじゃないか。美術館と博物館を見ると言っただけで、嵐が来ると思われている男。あながち間違いでもないと思うけどね。君はそういうのに、あんまり興味がないだろう?》
(まぁな)
 ジェイクはあっさり認めた。トム相手に、隠し事や虚勢はなんの意味もなさない。
 寄生した時点で、寄生体は宿主の個別情報をある程度、読み取ることができる。同じように、宿主も寄生体の過去の記憶やそのときの感情に触れられるので、お互い様だ。
(エンパイアに上ってみたいと思ったのは本当さ。絵画や彫刻に興味はねぇけど、あいつが喜ぶかなと思って言ったんだ。それなのにあの言い方は酷いんじゃねぇか? 大雨や嵐はいいとして、普通言うかよ、『帰ったら忘れないうちにレインブーツを用意しておかないと』なんてよぅ。俺たち恋人同士なんだぜ?)
 ジェイクの愚痴に、トムはフフンと軽く笑った。
《実は恋人だと思われてないんじゃないのかい? そんなふうに一言多くて、容赦のないところも素敵だ、エルンスト。ジェイク、君って男は知的探求という言葉に縁がない。エルンストがああ言うのも、仕方がないさ。君が人生をいい加減に生きてきたことの報いだね》
(あのなぁ、こんな些細なことで知的探求とか人生とか、大げさな言い方すんな! 俺がまるっきりバカみたいによぅ!)
《なにが大げさなもんか。そんな男に寄生している僕の不安がわかるかい? エルンストが持っている僕のイメージまでそういう方向に行ったら、どうしてくれるんだ。僕は君と違ってインテリジェンス溢(あふ)れる寄生体だというのに!》
 エルンストに熱烈に恋している異星人は、いつもジェイクに辛口だ。宿主なのに、ライバル視しているのである。
 ジェイクだって、ここまで貶(けな)されては黙っていられない。
(ヘッ、お前からなにが溢れてようが、関係あるか。俺たちはお前が入り込む隙間もないほどラブラブな恋人同士なんだよ!)
《それだ。なんて嘆かわしいことだろう。君とエルンストが恋人同士なんて、まったくもって信じ難い話だよ》
(…調子いいじゃねぇか相棒。お前はその嘆かわしい男に寄生してるんだぜ?)
 これは最後の切り札で、返す言葉のないトムは沈黙する。
 まったく、失礼な異星人だとジェイクは思う。自分に言わせれば、それはとても素敵なことだ。自画自賛するわけではないが、ジェイクに寄生しているからこそ、トムはエルンストのもっとも官能的な姿を体感できるのである。
 宿主の体内のあらゆるところに神経細胞を行き渡らせ、ジェイクがエルンストとのキスやセックスで感じる快感を、すべて同じように感じ取っているはずなのに、トムはそれでは満足できないらしい。
 エルンストはトムに好意を抱いているし、しばしばジェイクよりも頭の中身が上等で、自分と話が合うと言っている。
 最大級の賛辞だとジェイクは思ったが、それはエルンストに愛されているのと同じ意味ではない。エルンストに愛され、必要とされているのは、ジェイクであってトムではないのだ。
 そして、トムがエルンストに言われてみたいのは「話が合う」でもなく、「頭が上等」でもなく、「ジェイクよりも愛してる」だ。ジェイクを通さなければ、エルンストとキスをすることもできないのに、オンリーワンの愛情を求めつづけるその一途さには正直、頭が下がる。
 そして、最愛の恋人がそんな台詞を言う日が来ないことを、ジェイクは信じながらも祈っている。もちろん、手のひらに載る程度の小さな寄生体に負けるつもりはさらさらないが、恋愛関係に完全な安心感はないのだ。
 ジェイクがトムと揉めているうちに、車はアパートの駐車場まで帰ってきていた。
《君はともかく、僕は美術館&博物館&教会巡りツアーに賛成だと、エルンストに言ってくれ。地球人の文化を知るのは、とても楽しいと。彼が忘れないうちに早く》
 どうにかして自分の株を上げたいと思っている懲(こ)りないトムにせっつかれ、ジェイクは車から降りながら、ハイハイと頷いた。
「なにが、ハイハイなんだ?」
 口を開く前に、エルンストに訊かれて、ジェイクは思わず無言で恋人を見た。頭の中で会話しているつもりだったが、もしかして声に出してしまっていたのだろうか。
「なんだ、その顔。間抜けた顔がよりいっそう酷くなっているぞ」
 エルンストはからかうように口許に微笑を浮かべてそう言うと、先に歩き出した。
 見送りかけたところ、二、三歩大股で走って追いつき、隣に並ぶ。
「間抜けた顔って、そりゃまたステキなお言葉だけど…。その前に俺、ハイハイって声に出して言ってたか?」
「いいや。でもなんとなくわかったから。トムと話していたんだろう?」
「うん。なんとなくわかるって、どんなふうに?」
「どんなふうって」
 エルンストは首を傾げた。
「さっきはそういう感じに、口がもごもご動いてたから。もともとおしゃべりなお前が、車でも急に黙り込んだりするし、わたしと話していなかったらトムしかいないわけだし」
「普通にしてるつもりだったんだけど、そんなにあからさまにわかるもんなのか?」
「わたしが見ればな。お前ごときがわたしを誤魔化(ごか)そうなんて、百年早いさ。で、最初の質問。なにがハイハイなんだ?」
 内側からトムにせっつかれたが、ジェイクはなにもないんだと首を横に振った。エルンストは怪訝な顔をしたが、重ねては訊いてこない。
 エレベーターボックスは一階に下りていて、すぐに乗ることができた。いつも苛々するほどドアの開閉が遅いわりに、昇降スピードは速い。
 五人乗ったら、重量オーバーでブザーのなるボックスは、二人と異星人を乗せて八階で止まった。

 8―Eの札が打ってある部屋に帰ってきて、エルンストはリビングの長いソファにどっかりと座った。
「コーヒーかなんか、飲む?」
 ジェイクに訊かれて、首を振る。
「店で飲んだから、べつにいらない」
「じゃあ、ミネラルウォーターとか?」
 エルンストは苦笑を浮かべ、もう一度首を横に振った。
 同棲中の恋人は非常に大雑把な性格で、部屋の掃除はあまり好きではなく、トイレの電気は消し忘れることが多い上、床に落ちたテレビのリモコンは何度注意しても足の指で挟んでとるようなだらしない男なのに、自分に関係することだけは、異常なほどに細やかな気配りをみせる。
 嬉しいのだが、それがあまりに一生懸命なので、ついついからかいたくなってしまうのだ。
「なにもいらないけど、…そうだな、明日に備えてレインブーツを出しておいてもらおうかな?」
「………」
「あはは、冗談じゃないか。そんな水溜まりに落ちた犬みたいに情けない顔をしなくても。突っ立ってないでお前も座ったらどうだ?」
 ジェイクは拗(す)ねて尖らせた唇のまま、エルンストのすぐ隣にちょこんと座った。
 身長も高いが、百八十ポンドはあろうかという体重なので、いくらちょこんと遠慮がちに座られても、エルンストの身体は彼の方に傾(かし)いでしまう。ソファのクッションが柔らかいため、アリ地獄に落ちるみたいなものだ。
 ズルッと流されて、エルンストはジェイクの右腕にもたれかかった。
 すると、すぐさま太い腕が腰に回ってきて、逞しい胸に抱え込まれてしまう。下ろしたてのシャツの、パリッとした感触が頬に気持ちいい。
 ブルックリンの店を出て、車に乗った時点でネクタイは外してしまっていたが、今日の淡いブルーグレーのスーツは、とてもジェイクに似合っていた。先日ショッピングに出かけたときに、自分が見立ててやったものだから、余計にそう思ったのかもしれない。
 テンガロンハットを集めるのが趣味の本人は、仕事に行かなくていい日には、バンダナを巻いてカウボーイ風のブーツをよく履いている。ラフな格好が好きで、堅苦しいスーツを着るのを嫌がっており、自分には似合わないと思っているようだが、しかしそれは間違いだ。
 ジェイクはトラディショナルなスーツを着ると、男前が三割方上がる。
 いついかなるとき、どのような格好をして、誰と一緒にいても、真っ先に人目を惹(ひ)くのは、すべてにおいて秀でているエルンストの方なのだが、今日のジェイクは自分の足元くらいには及んでいたと思う。
 紳士然とした出で立ちで、豪快に肉を平らげる姿があんまり格好よかったものだから、エルンストはなんだか嬉しくなって、アルコール度の高いワインを飲みすぎてしまった。ワインはどの酒よりも、深く身体に回って醒めにくい。意識ははっきりしているし、顔が火照っているわけではないが、やはり少しは酔っているのかもしれない。
「ふうっ」
 と大きく息を吐いてから、エルンストは分厚く筋肉質な胸板に顔中を擦りつけた。嗅ぎ慣れた彼の体臭は精神安定剤みたいなもので、とても落ち着く。
 ジェイクはエルンストの髪を撫で、頭のてっぺんに軽くキスを落とした。微かに吐息が顔にかかったが、ジェイクからはアルコールの匂いがしない。飲んだ量は同じくらいなのに。
 匂いどころか、異星人を寄生させるようになってから、彼は酒に酔うことがなくなった。なんでも、アルコール成分をトムが体内で分解してくれるらしい。
 寄生体のトムは快適な共生生活を確保するためにも、宿主の身体の新陳代謝を促し、体内の悪性因子を強制的に排出させてくれるという。要するにトムさえいれば、風邪もひかないし、怪我や病気も医者要らずで治るというわけだ。
 いずれトムは帰ってしまうけれど、恋人が無敵のスーパーマンになった気がして、エルンストは嬉しいような悔しいような、ちょっと複雑な気分になった。
 同じ男として、できたら、自分もスーパーマンになりたかった。ジェイクに寄生するようにトムに勧めたのは、誰でもないエルンスト自身だったのだが。
 早まったかなぁと頭の中でボヤきながら、気まぐれな猫のように懐いていると、ジェイクが微かに笑いを含んだ声で訊いてきた。
「お前、やっぱり酔ってないか?」
「酔ってない」
 エルンストは素気無く返して、恋人の背中に腕をまわした。
 酔っていると認めれば、ジェイクは皺(しわ)が寄らないように服を脱がせ、一緒にバスルームに入って身体を洗い、湯気でほこほこしたエルンストをタオルで包んだまま、大きなベッドまで抱いて運んでくれるだろう。そういう世話を焼くのが、好きな男なのだ。
 エルンストのトレーニングで鍛えている足腰は、アルコールが原因で立たなくなることはないけれど、ジェイクのせいで、どうしてもベッドから起き上がれそうにないときはしばしばあって、そんなときに彼はそういうことをしてくれる。
 二人で一緒にシャワーを浴びて、なおかつ身体や髪を洗ったり拭いたりされるなんて、最初は恥ずかしくて顔を上げられないほどだったが、最近ではさすがに慣れたし、それが非常に楽チンだということもわかった。
 ジェイクの不器用そうに見える太くて長い指は、洗っているときも拭いているときも、まるで愛でているような慎重さで動く。それがいたく、エルンストの気に入ってしまったのだ。
 しかし、いくら気持ちがよくても、恋人に甘えたり、あれこれ世話を焼かせて面倒をかけさせたりするのは、エルンストが望むところではなかった。
 ああいうことは、ジェイクがやりたがっているから仕方なくさせてやっているだけだし、今の自分はただ、身体の力を抜いて、憎まれ口を叩きながら恋人に抱きついているだけだ。べつに、甘えているわけでもなければ、世話を焼いてくれと催促しているわけでもない。
 エルンストは自分の行動が自分のポリシーに反していないことを確認し、さらに強くジェイクにしがみついた。
『んーもう、甘えちゃって可愛いー! 気のない振りして、俺に世話を焼いてもらうのが好きなんだから』
 とジェイクが心の中でハートマークを飛ばしながらにやけていることを、エルンストはもちろん知らなかった。
「エリー、このままじゃスーツが皺になっちまうよ。脱がせてやるから、ちょっと離してくれ。服を脱いだら、風呂に入れてやるよ」
 ジェイクは恋人として、至極もっともなことを言ったが、〜してやる、という言い方に引っかかりを覚えて、エルンストは断った。
「わざわざ、してもらわなくてもけっこうだ。子どもじゃあるまいし、そんなこと自分でやるから」
「お前が一人でできることは、ちゃんとわかってるよ。俺がそうさせてほしいんだ。綺麗に洗うよ、丁寧に優しく」
 ここまで下手に出られると、断るのが可哀想になってきて、エルンストは指先でジェイクの背骨を撫でながら考えた。
「…どうしても、そうしたいのか?」
「どうしてもしたい。…お願いだ」
 低く甘い声に、胸が絞られるような感触を覚え、エルンストは軽く首を振って身悶えた。耳元で掻き口説くように囁く恋人の『お願い』には、とても弱いのだ。
 あとで後悔する羽目になっても、心優しい自分はなんでも聞いてあげたくなってしまう。
 そしてたぶん、ジェイクはそれを知っているのだろう。
 これまでも、エルンストは断りきれずに彼の『お願い』を聞いてしまい、ものすごく恥ずかしいめに遭わされたことが多々あるのだが、羞恥の度合いが大きいと、愉悦もそれに比例してしまうので、あまり痛い経験にはなりえず、何度も同じ罠にハマってしまうのだった。
 ずるい男め、と思いながら、今回もエルンストはコロッとハマった。
「お前が…そこまで言うのなら」