立ち読みコーナー
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 Alience over Manhattan
 Trouble Vacation
 Go Go ジェイク×トム
  あとがき
 Alience over Manhattan

   ◇ 1 ◇

 こんな男に惚れてしまったなんて、我が人生最悪の出来事だ、と思いながらエルンスト・アイヤールは横でつぶれている恋人を、チラッと視線だけで見た。
 濃淡のある金髪頭は、恋人の冷たい視線を感じている様子もなく、グラスを握り締め、カウンターの上に突っ伏し、酔って寝ているくせに、
「う〜ん、エリー、俺を捨てないでくれぇ…」
 などと、アホな寝言を呟いている。
 エルンストはパコッ、と彼の頭を軽く叩いた。
 まるで甘ったるい女の名前のようで、人前では呼んで欲しくない愛称なのである。家ならともかく、外では口にするなと、何度注意してもこの男は分からないらしい。
「…物覚えが悪く、口ばっかり大きくて、ついでに酒にも弱くて、すぐに寝てしまうとは」
 小さく呟いて、グラスの氷を軽く揺らす。
 ここへ来ようと先に言い出したのは、赤い顔で寝呆けているジェイク・カーティスの方だった。
 交代制の勤務が終わったところで、エルンストは家に帰ってゆっくりしたかったのだが、結局付き合うことにした。疲れはあるが、彼も決して酒が嫌いではないからだ。
 それどころか、一日の疲れをアルコールで癒す方法さえ知っている。酷い酔い方をしなければ、アルコールは精神安定剤になり、睡眠薬にもなり、時には頭痛薬にさえなることがあるのだ。ドクターには言えないし、他人にもお薦め出来る薬ではないけれど。
 酒にしろ食事にしろ、精神的にリラックス出来る息抜きは、どこかで必ず必要になる。ニューヨークという、犯罪都市の代名詞のような街で刑事なんて仕事をしていると、身も心もすり減ってしまうのだ。
 西暦二千年を越え、さらに四分の一世紀を過ぎても、ここは旅行者が一人歩き出来る街ではなかったし、住民でさえ人通りの少ない道は昼間でも避けて通る。麻薬や銃器など犯罪の手助けになるものは相変わらず街中に蔓延(はびこ)っていて、パトカーのサイレンが聞こえない日はない。
 中でも彼らの所属する二十三分署の管轄は、犯罪発生率が高かった。犯人検挙率を上げるためには、努力あるのみである。
 今日の酒はエルンストの疲れを癒してくれたが、恋人を兼ねた相棒をぐっすりと眠らせてしまったようだった。平和な寝顔は結構だが、それにしたって、何が、
『飲み比べをしようぜ、エリー。負けた方が飲み代と、一週間分の食事と洗濯を担当するってのはどうだ?』
 なのだろう。意気揚揚と元気にドアを開けた時の面影もない。
「話にもならないじゃないか。まったくもって根性がない」
 一刀両断に切り捨てながら、エルンストの口元は小さく綻(ほころ)んでしまう。
 もう三年にもなる付き合いなのだから、彼が自分よりも酒に弱いことは、知っている。そしてジェイク自身でさえ分かっていながら、性懲りもなく勝負を挑んでくるのだ。体質もあるから、努力したって強くなれるわけじゃないのに、彼はいつかはエルンストに勝てる日が来るんじゃないかと、真剣に考えているようだった。
 根拠のない自信と無謀はエルンストを呆れさせるが、そういう子供じみたところを愛してしまったのが、人生の転落のきっかけとなっているのかも知れないなと思う。ジェイクは性格的にエルンストと正反対で、自分にないものをたくさん持っているのだ。
 性格だけでなく、容姿をとってみても正反対と言えるだろう。彼はたまにオレンジがかって見えるところと、レモン色に見えたりする髪を不規則に配置した一風変わったブロンドで、今は閉じているが、晴天の日の空のように青い瞳をしている。大きな口をニカッと開けて笑うと、気難しい老婆でさえ警戒心を解いてしまいそうなくらいに人懐こく、愛敬のある顔になる。
 長めのブルネットに、切れ長で冷たく見える翡翠の瞳、整い過ぎた容姿がクールビューティーだとか、アイスドールなどと呼ばれてしまうエルンストとは、まったく雰囲気が違う。
 だからこそ、惹かれたのかも知れない。
「…うう〜ん、だって愛してるんだよぅ、エリー…」
 ジェイクは夢でも見ているのか、涎を垂らさんばかりの寝顔でいながら、しつこく繰り返した。
 この愛称で呼ぶことを許されているのはジェイクだけで、彼はそれがとても嬉しいらしく、本人に注意されても、ひけらかすように口にする。本当に子供の自慢だ。
 そう呼ぶことを許可してやったのは、一緒に暮らし始めてすぐくらいだったと思うので、半年ほど前だろう。
『ほんと!? ほんとにいいの? しかも、俺だけ?』
 と叫んだジェイクの顔は、見ている方が幸せになるような歓喜に満ちたものだった。
『その代わり、家の中とか二人きりの時とかだけだぞ?』
『うん、うん!』
 ジェイクはいつも返事だけは満点なのだ。
 実を言うと、彼は出会ってすぐくらいから既に馴々しく勝手にそう呼んでいたので、エルンストがいまさら条件つきで許可したところで、さしたる変化をもたらすものではなかった。
 要するにたいしたことなかったのだが、ジェイクは公約された『俺だけの限定』に大げさなほど喜んで、その夜エルンストをひょいっと抱えあげ、ベッドに運んで囁いた。
『俺が今、どれだけ嬉しいか分かる?』
『…分からないな』
『教えてやるよ、身体に』
『あっ、そんな…っ』
 エルンストが怯えたような仕草で顔を背けると、ジェイクはねっとりと項や耳に口接(くちづ)け、耳朶を含み舌先で弄んだ。
『…ふう、っ、そこはダメだって…ッ』
 ゾクゾクしながら押し退けてみたけれど、彼はびくともしなかった。大きく分厚い手で、子供みたいにあしらわれ、全裸の肢体をくまなく探られ、開かされた。ジェイクの欲望には終わりがなく、エルンストの差恥に染まった肉体は、はしたなくも淫らに悶えた。
 幾度も求められ、深く深く繋がって、身体の中から溶けだしてしまうかと思うような快感。
 情熱的なジェイクは男らしくて、ちょっと素敵だった、と当時のことを思い出し、ついうっかりニヤついた顔をしてしまった時、カウンターの中の女主人、キャスリンと目があった。
 意味深長にクスリと笑われてしまい、エルンストは照れ臭さを隠すために、凄味を効かせた声をジェイクの耳の中に吹き込んでやった。
「ジェイク・カーティス、いい加減寝言を止めないと、ハーレムへ放り出して帰るぞ!」
「あら、そんな可哀相なこと、しちゃダメよ」
「この状況を見て、ものを言ってくれ。飲み比べもなにもあったもんじゃない。可哀相なのはわたしの方だ」
「あなたが強すぎるのよ、アイヤール刑事。比べては彼が気の毒だわ」
 エルンストは髪を掻きあげ、フンと鼻を鳴らした。
 綺麗なブロンドを持つキャスリンは四十代の後半に差し掛かろうという年令だが、引き締まったスレンダーな肉体を持っていて、年より若く見える。
 彼女は何故か同性愛に理解があり、居心地のよさから二人は何度もここへ足を運んでしまうのだが、エルンストは彼女がジェイクの味方をすることが多いのが不満だった。どうやら六フィート二インチ、金髪碧眼の恋人には、母性本能をくすぐる何かがあるらしい。
 二本目のワイルドターキーは殆ど空になりかけている。キャスリンが新しい瓶に手を掛けたのを見、首を横に振ってそれを止めた。
「また今度にするよ」
「そう? どのみち、今日は彼を担いで帰らなきゃならないみたいね」
「遠慮したいがね!」
 エルンストが非常に力強くそう言ったので、キャスリンは小さく吹き出し、同情心もに彼を見た。しかし、女性に同情されても腹が立たないほど、彼の相棒は大きな図体をしているのだ。
「タクシーを?」
「いや、大丈夫。車で来ているから」
 気の利いた申し出を断り、財布から金を出して、カウンターに置く。ジェイクの負けだから、ジェイクが払うべきなのだが、この状態では仕方がない。エルンストはツケで飲み食いをするのが、大嫌いな性格だった。そしてキャスリンがそんな自分を好ましく思っていることも知っていた。
 ニューヨークの警察は正義感だけで出来てる人間ばかりじゃないから、権力をカサにきてかなりあくどいことをする者がいる。もちろん警察官に限ったことではないが、エルンストはそんな奴らが大嫌いだ。あれこれ難癖をつけて、自分の消費したものの代価を払わないなんて、人間の品位を問われる野蛮極まりない行為である。
 エルンストは一事が万事につけそういう調子なので、最初の頃はよく、
『お前のその几帳面さは、ドイツ人だからだろうな』
 とジェイクに言われた。バカにされてるのかと思って、
『お前のだらしなさが、アメリカ人の性質だからだと言うのなら、そうなんだろう』
 とやり返したら、
『怒るなよ、悪いなんて言ってないさ。俺はお前のきっちりしたトコ、大好きだもん。どこの国の血が流れてようと、お前は世界一綺麗なんだし、四角四面なお前と丸ーい俺って、いい組合せだと思わねえ?』
 ジェイクは標準より少し大きめの口で、ニカッと笑った。
 微笑み返さずにはいられない顔だった。お前がどう思ってくれようとも、わたしはお前のだらしないところを好きにはなれない、と正直に思いはしても。
 エルンストの両親は仕事の都合で三十年ほど前にこの地へやって来て、彼を身籠もった。ニューヨークで生まれ、ニューヨークで育ち、国籍さえ米国だが、彼はドイツ風のしつけを厳しく受けた紛れもない生粋のドイツ人の血筋である。
 しかしそれを告げても、殆どの人は気にしない。習慣や考え方の違いが多少あるので、ジェイクのような言い方をする者はいるが、署内には日系人もいればロシア人もいて、イタリア人もユダヤ人もいる。彼らの中には祖国の言葉を喋れない者だっていたが、別段それで不自由をするわけではない。
 だが、エルンストは行ったことも見たこともない故郷を想い、ドイツ語を修得していた。十八才で大学を卒業出来たほど頭は良かったから、両親が喋っているドイツ語を覚えるなんて至極簡単だった。けれど機会に恵まれなくて、未だ彼の地を訪れたことがない。いつかは行ってみたいと思っている。数年前に両親が他界してから、その思いは一層強くなっていた。
 自分でも持て余し、変えてみようと努力したことがある生真面目すぎる性格も、エルンストという名前も、彼は大好きだった。恋人も、チャーミングだと言って誉めてくれる。それが一番嬉しかった。
 嬉しかったのに、誉めてくれた男は、隣でぐでんぐでんに酔っていた。
「さあ、ジェイク。帰るぞ」
 代金を肩代わりしてやった男の頬をピタピタと叩くと、ぼんやりと目蓋を上げる。
 眠気のせいか、ブルーの瞳が灰色に見えた。ジェイクの意志がある時にはとてもセクシーで、エルンストはこの色味を変える瞳が大好きなのだが、寝呆け眼では魅力も半減だった。
「…ああ、エリー、今日も綺麗だ。俺はお前が大好…」
「はいはい。よいしょっと」
 正体のないジェイクがまたバカなことを言い出す前に、エルンストは早々に話を切り、大きな身体を肩で支えるようにして抱えた。
「ありがとう、また来てちょうだい」
 キャスリンはドアを開けてくれながらそう言って、エルンストにウィンクを投げてきた。
 軽く頷いて、背を向ける。店の看板にジェイクの身体が当たって、揺れた。
 キャスリンの店〈シーヴァート〉は、イースト三十六丁目にある。レキシントン街を東に少し入ったあたりだ。彼らが勤務する二十三分署はイーストハーレムとの境目あたりだし、住んでいるアパートメントはドイツ系移住者が大勢暮らしている七十四丁目のヨークヴィルという所だから、ここは職場からも自宅からも離れている。しかし車ならすぐだし、居心地がよくて、簡単な食事も出してくれるから、二人はしばしばここまで足を伸ばした。
 エルンストは六フィートに二インチ足りない身長で、決してチビではないが、ほっそりしたしなやかな体型なので、ジェイクと並ぶと実に小柄に見えてしまう。
 だが、日頃からトレーニングで鍛えている身体は、たいしてよろめくこともなく、一ブロック先の車を停めていた場所に辿り着いた。
 助手席に相棒を無造作に丸めて押し込め、自分もシートに沈む。
「はあーっ」
 ため息は息だけでなく声まで漏れてしまい、気が抜けたら、ちょっと腕と足がぷるぷる震えた。
 百八十ポンドはあろうかという足元覚束(おぼつか)ない男は、やはり重かった。顔には出ないが、ジェイクに付き合ったエルンストだって、多少は酔っているのだ。
 しかし人通りのある街中で、相棒がみっともないのに、自分までみっともなくなることは、エンパイア・ステイト・ビルよりも高い彼のプライドが許さなかった。家に入った途端に気絶しても、人前ではシャキッとする、のがポリシーでもある。
 もう一息吐いてエンジンキーを差し込み、スイッチを入れると、フロントのナビシステムが微かな音と光を伴って作動した。
 ボイススピーカーから軽快な男性の声が飛び出す。
『ハイ、エルンスト。楽しんできたかい?』
「それなりにはね」
『そりゃ良かった。…ジェイクはどうしたい?』
「ねんねの時間だ。子供だからな!」
 あっはっは、とナビシステムが笑い声を立てた。
 彼の名前は〈ジェシー四号〉という。車に搭載された人工知能の人格名称だ。知識を蓄積するデータベースと推論部に、開発者のジェシー博士の頭脳をそのまま使ったので、この名がついた。
 ニューロ・コンピューターの世界は、年々目覚ましい進化を遂げており、現在、対話型のナビゲーションシステムはますます充実し、〈ジェシー一号〉から始まったジェシーシリーズは、半年前に出た四号まで発売されている。
 女性タイプももちろんあって、それはルイーズシリーズと呼ばれているが、エルンストは購入を決めた時、迷うことなく男性タイプを選んだ。偏見と思い込みだが、車の中でナビの女性ボイスと孤独に話す、というのは、二十七才独身男性として、嫁を貰いそびれた情けない風情に見えそうで嫌だったからである。
 機能的に男女差はないが、いずれも最新型で目が飛び出るほど高額だ。だが頭脳明晰でコンピューターを深く理解しているエルンストは、高額ついでに改造させて高性能のパソコンまで搭載し、接続してしまった。
 よって、この車があれば大抵のことは出来るのだが、自信満々なエルンストに向かって、ジェイクが言ったセリフはこうだった。
『オタクだねぇ、お前も』
 当時のことを思い出し、エルンストはまた少し傷ついた。恋人ならば、さすがだなエリー! とか、尊敬するよエリー! とか、頭のいいお前にしか出来ないことだよエリー! とか、お前は俺の自慢の恋人だエリー! とか言って欲しかった。
 まったく頭の回転が悪くて、他人の心の機微に疎い。
 エルンストだって、ジェイクの趣味であるテンガロンハット収集とか、休日になると頭に巻いている少年じみたバンダナとか、彼の気に入りであるカウボーイ風のブーツを見て、イイ顔はしなかったので、お互い様かも知れなかったが。
 ジェシー四号は喋る間、信号のようにライトを点滅させている。彼に「目」はなく、インプットされた声紋と網膜によって、乗員を識別するのだ。
『寝てるっていうのは、酒だな。また性懲りもなく勝負を挑んで、つぶれたのかい?』
「いつかはわたしに勝てるという夢を見てるんだ。愚かだが、勝負の前に希望を打ち砕くのは、良くない」
『夢? 希望?』
 少し不思議そうなジェシー四号に、曖昧(あいまい)に笑って答え、エルンストはボイススイッチを切った。
 人間と自由に対話し、経験値が増えるに従って成長さえしていく人工知能だが、夢や希望といった抽象的なものは理解出来ない。たとえ理解出来ても、彼らは所詮車で、叶えるべき肉体を持たないのだ。
 仕方ないことだが、こういう疑問を返されると煩わしく感じてしまう。なまじ人間のように喋るだけに無視しづらくて、それだけがこのスーパーナビシステムの、唯一の欠点だった。
 エルンストは東の突き当たりまで車を出し、北に曲がった。ここからアパートまでは、ほぼ一直線である。
 車内ではジェイクの寝息が、BGM代わりになっていた。アパートに着いたら、また駐車場から部屋まで肩を貸さねばならないだろう。みっともないが、せめてエレベーターで住人と乗り合わせないことを祈るしかない。
「着くまでに起きそうな気配は…、ないか」
 ジェイクは押し込められたまんまの格好で、丸くなっている。濃紺のジーンズにブルーのシャツを着、署から出た時にネクタイを取ってしまっていた。
『私服刑事たるもの、市民の信頼と尊敬を得るためにも、常にスーツを着用するべきだ!』とエルンストは主張しているのだが、ジェイクは型にはめられるのと、窮屈なのを嫌がり、所定された日にしかスーツを着ない。金髪頭にラフなジーンズはよく似合っているが、スーツを着たってすごく格好良いのに、とエルンストが口に出して言ったことはない。
 エルンストは少し顔を赤らめ、フワフワしている金色の髪に、自分のしなやかな指を絡めた。
 そんな、何を着てたって格好良い、だなんて、あたかもジェイクに惚れ切っているかのようなセリフは、プライドよりも差恥が邪魔して言えたものではなかった。思ったことをすぐ口にするジェイクと違って、自分はシャイなのだ。
 街も仕事も物騒だが、わたしたちは平穏で幸せだ、と独りこち、ジェイクの寝顔を見るために、首を右に向けていたエルンストは、不意にビルとビルの間の不気味な暗い空間に蠢く人影を見て、急ブレーキを踏んだ。
 それの動きは非常に緩慢だったから、見付けられたのは刑事ならではの勘だろう。刑事は常にアンテナを張り巡らせて暮らしている。巷(ちまた)で起こっている事件を察知するアンテナは、身についた悲しい習性のようなものだ。
 住宅街で商店が殆どない通りは、明かりも疎(まば)らでタクシーも走っていない。エルンストは静かに車を停め、銃を持って、車の中から様子を窺った。
 人が一人倒れているように見えるが、誰かが(たとえば犯人が)隠れている様子はない。用心に越したことはないので、慎重にドアを開け、車を楯にする格好で回り込む。
 外からも丸見えのシートにはジェイクが眠っているが、この際仕方がない。彼は酔っているし、起こす方が危険な気がした。
 路地は暗かったがどうにか探って、倒れこんでいる一人だけしか人影がないと判断する。
 警察へ通報する前に状況を見ておくべきだと考え、車から懐中電灯を持ってきて、地面を照らしてみた。
 思わず、くっ、とエルンストは口元を押さえた。
 それは見慣れている筈の光景だった。
 車からでは動いたように見えたが、状況は明らかに死亡しているとしか思えない。アスファルトの道路に大量に染み込み、まだなおドクドクと溢れ出ている深紅の液体は、持ち主の身体を離れるとどす黒く変化して、零時を過ぎた深夜の闇に紛れ込んでしまいそうな錯覚を与える。
 だが、それを防いでいるのも、濃厚な鉄分を含む血液という名の液体が持った血臭であった。鼻の奥を劈(つんざ)くようなその匂いは、日常の何物にも馴染まない、金属的で不快な何かを感じさせる。
 仰向いていたが、顔も髪も真っ赤で、衣服と体型からエルンストはそれを男性と判断した。
 それにしたって、状態の悲惨さときたら、刑事仲間の中ではもっとも強靭な精神力と冷静な判断力とを併せ持つと言われていた彼でさえ、しばらくの間は眼前の物体について考えることを放棄してしまったくらいだった。
 これが本当は人間だったなんて、無茶な話だと、エルンストは思った。ぽっかりと頭の中をカラにした後で、現実を見つめ直し、口元を押さえながらも観察を始めてみる。
 目の前に広がっている、死体。腹が裂かれて、内臓が道にまで引き摺りだされていた。よく見ると、首はすっぱりと切れてしまっていたが、胴体とくっつけて置いてあったので、まるでつながっているように見えていたのだ。
 だが、頭の方も無事とは言えない状態である。額が割られて中身が覗いており、右目は抉(えぐ)られたように無くなっている。残された左目は、血塗られた白眼を剥いていた。
 死因は一体何だろう。首を切断されたからだろうか。いやしかし、内臓をあそこまで引き出されては、首が繋がっていても死んでしまうかも知れないし、出血多量で失血死するかも、などといやに冷静になって死因を考え、凝視を続けていたエルンストは、突然ヒュゥッ、と音をさせて息を飲み込んだ。
 辛うじて肉体の正しい位置に納まっていた心臓が、かすかに脈打っているのを見付けてしまったのだ。
 常識的に考えて、いや、考えなくても、ここまで悲惨な状態で生きていられる筈はない。形態はすでに人間とは判別しにくいほどに、破壊され尽くしているのである。それとも人間とは、ここまで生に貪欲になれるものなのか。
 わたしの常識にはない、これはすでに未知の物体だ。決して人間などではないのだ、と必死になって自分に言い聞かせている時、エルンストはまたも信じられないものを見てしまった。
 未知の物体の潰れた右腕が、動いたのである。
「―――――…っ!?」
 ゆっくりと、まるでゾンビが生き返る時のように、緩慢な動きで空を掴もうとしている。
 近くに立っていれば、それが今にも立ち上がって自分に襲いかかってきそうだ。エルンストは一歩一歩下がっていった。
 油断なく銃を構えながら離れると、怪しい右腕は上がった時と同様、スローモーションのように下りて、今度こそ動かなくなった。
 心臓を覗き込む勇気は、今のところ、出なかった。感じたことのない恐怖が、じわじわと背筋を凍らせていくようだ。
 こつん、と足の踵に小石がぶつかった。その感覚を頼りに、これは夢かと疑ってみる。
(…わたしは何をしていたのだろう?)
 エルンストはショックで飛んでしまった記憶をり始めた。息が酒臭かったが、記憶がこんがらがるほど酔っているわけではない。
(キャスリンの店で飲んで、…そうだ、ジェイク!)
 振り向くとダークブルーの愛車があって、恋人はやはりぐっすりと寝ているようだった。丸くなった大きな背中が、窓全体を埋めているみたいな、平和だった現実。
 震えそうな足と強ばった身体を愛車にもたせかけ、エルンストはさっきまでの穏やかな世界に戻ろうと恋人の横顔を見つめた。
〈シーヴァート〉を出る時から重い身体を抱えさせられ、ため息を吐いた彼に気付きもしないで、ジェイクは呑気に良い調子だろう。きっと明日になって目が覚めても、彼はすべてを忘れてしまうか、自分の足で帰ってこれたとでも思っているに違いないのだ。
 この楽天的な男にかかると、エルンストの苦労はいつも水泡に帰してしまう。
 エルンストはずっと、他人と暮らすこととは、己れの半分を犠牲にすることだと思っていた。相手が男でも女でも関係ない。一人で居られる時間が減って、自分自身が自由でいられた生活の場が、妥協と忍耐を学ぶ場に変わるのだと。
 好きな相手と二人で暮らせる幸せを声高に話す人もいるが、自分には当てはまらないと決めつけていたので、踏み切るまでに時間も掛かった。
 ようやく決心して、恐る恐る始めた同棲生活がもう半年である。嫌気が差すかと思われた日々は、順調に過ぎて問題も起こらない。
 確かに、妥協と忍耐を学ぶ場であるという認識は、あながち間違ってはなかったが、不思議にそれを苦痛と思わなかった。学ぶべきものは辛いことばかりではなく、喜びや感謝の気持ちが二倍になり、悲しみや憂いは半分に減ることを知った。そして、感動した。
 ふとエルンストはまた現実に戻った。
 風が吹いて、路地に溜まった血臭を運んできたからだ。
 目の前には平和に眠る恋人、後ろには殺人事件の被害者がいる。
 二十三分署の管轄ではないが、まず署に連絡を入れた方がいいだろう。冷静に考えて、死体が動いたように見えたのは勘違いだろうから、妙な報告はしない方が無難だ。だが、そうする前に寝ている相棒を起こさなくてはならない。
 エルンストは助手席のドアを開けた。
「ジェイク、ジェイク! しっかりしろ、事件だぞ!」
 肩を掴んで揺さ振ったが、ピクリともしない。背中を強く叩き、髪を乱暴に引っ張ってみる。
「おい、ジェイク、しっかりするんだ!」
 耳元で怒鳴っても、ジェイクは起きなかった。
「―――彼は駄目です。意識の底まで泥酔しきって、目覚める気配もない」
「っ!? だ、だれだ…!?」
 不意に聞こえてきた声に、エルンストは正真正銘飛び上がった。振り向いたが、目の前には悲惨な死体らしきものがあるだけだった。
 銃のグリップを握り直しながら、慎重に辺りを見回す。
「…どうか、驚かないで見て下さい。僕はここです」
「……どこだって?」
「ここです。あまり時間がないんです。宿主が死んでしまうと、僕も生きてはいられないから」
「宿主? なんだ、それは?」
 頭の中に直接響いてくるような、低く決して耳障りではない声を、エルンストは必死に辿ろうとした。パニックを起こさずに冷静なままでいられたのは、得体の知れない声が妙に気を落ち着かせてくれる類いの音だったからだろう。必要以上に刺激を与えない、精神を和らげる柔らかいが低くて印象的なトーン。
 声は優しげに繰り返した。
「驚かないで。僕はあなたの目の前の人間にいます。…折れている腕のあたりを見て」
 声がするとおりに、なぜか逆らおうとも思わずに、エルンストは愛車にへばりついたままで死体もどきの潰れた腕を見た。
「――――っ!?」
 驚愕の声すらも出せないうちに、どす赤い血を流している裂傷部から、半透明などろどろした物が流れ始め、やがてそれは人の形を取った。五インチ程度の小さなパン人形のように目鼻のないそれは、不気味ながらも奇妙にコケティッシュな感じをエルンストに与えた。
「…ありがとう。あなたが驚いて騒ぎだすタイプのヒトではなかったことに感謝します。初めまして。僕は銀河系外の異星からやってきた異種依存型有機生命体です」
「は、はあ…」
 口をあんぐりと開け、エルンストはきょとーんとして、間の抜けた返事をした。
 あまりの展開に、まるで自分が何かに騙されているような気分になってきたのだ。たとえば、狼狽えて大騒ぎすると、ジェイクの陽気な友人たちが物陰から現れて、ほうけている自分を写したポラロイドとかビデオカメラを持って「サプラーイズ!」と笑って出てくる…。
 遊びにしては趣味が悪すぎるが、実際問題その方がどんなに良かっただろう。エルンストは深呼吸を繰り返した。自分が死体もどきの中から出てきた、ゼリーを固めたみたいなパン人形と、会話をしているなんて。
 まったく常識的でない。実に馬鹿げている。そして、異種なんとかかんとかの話によると、この死体もどきの男がまだ生きているというのだ!
 半透明の人形は、気が引けた様子ながらも訴えた。
「詳しい話をお聞かせするのは、後にしたいのですが」
「……後にしてもらったら、困るじゃないか。そもそも、なにの後にしたいんだ?」
「すみません、時間がないのです!」
「なにが? どうして?」
 生来の生真面目さで、エルンストは話を端折(はしょ)られるのを快く思わなかった。
 そもそも、こんな場面に出くわして、これだけ冷静に対処できるのは、エルンストだからなのだが、彼にしてもいつもよりは酒に酔って、気が大きくなっていたからこそ出来たのだと思われる。
 とてもじゃないが、素面(しらふ)の時に乗り切れる状況ではない。
 よくよく見れば、人形の頭部には、唇らしき器官の形が浮き上がっている。エルンストはそこが動きだすのを、呆然と見た。
「詳しくは話せないのですが、僕たち生命体は異種の生体に寄生し、依存することによって、その生命を守られる生命体なのです。僕自身はこの地球という星の環境に適合した身体を持ち合わせません。地球人の身体の中に入らせてもらわなければ、生命を維持出来ないのです。僕が今まで宿主として依存していた身体が、このように死を眼前にしています。彼の命が尽きるまでに、僕は新しい宿主に移動しなければなりません」
「その、それがまだ生きているのは、お前の所為か?」
 エルンストがそう訊くと、ゼリーは少し得意そうに答えた。
「そうです、僕が限界に果てしなく近い彼の生命を、引き伸ばしています」
「要するにそんなことが出来るわけか」
 なるほど、と頷き、エルンストはまったく関心して、今やこの状況を楽しむ余裕まで出始めていた。もともとが物事に動じない、変なところで醒めている性格なのだ。
 エルンストに落ち着かれて、パン人形は困ったように言った。
「僕は早く新しい宿主になる人間に移動したい。でなければ、僕は彼諸共に死んでしまうのです」
「生か死か、一刻を争う生涯の一大事ってワケか」
 それでもエルンストは思慮深く首を傾げ、人に寄生して生きるという生命体を凝視していた。
「僕が宿主に危害を加えることはありません。それどころか、寄生によって宿主の怪我を癒し、病を治すことさえ出来る。僕には任務がありますが、それが終われば速やかに故郷へ帰るつもりです。僕を助けて下さい」
「任務? 君らの星にも仕事やノルマが?」
「…詳しいことは必ず話すと約束します。僕は無理強いしたくありません。出来るなら、あなた自身の賛同を得てから移動したい」
「……ふむ」
 短い返事は決して肯定ではなかったが、落ち着いている。
 生涯の職を刑事と決めて、早や七年。殺人課に転属して四年が過ぎようとしているエルンストは、自分の目の前の異種生命体を、目の球を飛びださんばかりにしげしげと見つめていた。
 スキップして十八才でニューヨーク大学を卒業し、ポリスアカデミーを出て正式に刑事となり、最初の二年こそ交通管理課で、無法に暴れ、スピード違反の禁を破る暴走族相手にパトカーを走らせていたものだが、四年前に自分が希望したのと、功績が認められたのが重なって、殺人課に転属が決まった。
 二十三分署殺人課、アイヤール刑事、といえば、だれもが知っている若手で遣手(やりて)の将来有望な男と評判が立っている。ボディやルックスはもちろん、その灰色の脳細胞も、すべてが超一流で揃えられた彼は今、大変失礼なお願いをされているようだった。
「…要するにそれは、わたしに寄生したい、ということなのだろうか?」
「恐縮ですが、その通りです」
「君がわたしの中に入ってくると、わたしはわたしでなくなってしまうのか?」
「それはありません。僕は僕の意思を持ち、あなたはあなたのままの意思を持って動くでしょう。ちょうど、ひとつの器の中に二つの意識が入り込むと考えてもらえばいい」
「そうするとだな…」
 エルンストがもっと詳しいことを聞こうとした時、パン人形はひどく慌てたように、その半透明の身体を揺らせた。
「ああ、早く…! 時間がありません。早くしないと、彼が死んでしまう! 了解、と一言言って下さい。後は任せて!」
「いや、それは、困る! どうせなら、この男の中に入れ!」
 きっぱりと自分の意思を示して、エルンストは無情にも意識を失い、泥酔したままのジェイクを指差した。
「これはジェイク・カーティスと言う刑事なんだが、わたしの相棒で、今は酔っ払って深く寝入っている。寄生するベストチャンスだ。更にこれの性格からして、君が入ったところで衝撃もわたしよりは少ないだろうと思う。わたしの中に君が入れば、この男が絶対に気付くし、他の連中も不思議に思うに違いない。君には意志があって、一つの肉体で共存することになるんだろう?」
「それはそうですが、」
「君がどう観察したのかは知らないが、人間はこれで敏感な生きものだ。特に我々のような職種のものは。ジェイクに寄生して、もし誰かが異常を感じて怪しんでも、わたしがフォローを入れればトラブルは少なくなるだろう。察するところ、君は出来るだけ他の人間には知られたくないようだし、どうせならこの男をお薦めする」
 わたしは君を理解出来ると思うし、何かあったときにはフォローを入れやすいし、何よりこのジェイク・カーティスという男は、身体がとりわけ頑丈に出来ているんだ、とエルンストは熱弁に熱弁を奮いまくった。
 実のところ、彼には潔癖症の気があったのだ。自分の中に違う人格が入ってくるなんて、エルンスト自身には耐えられない。どころか、吐き気さえ催すほどの嫌悪感は免れないだろう。
 じゃあ、ジェイクならいいのか、と問われると、それはもう間違いなく彼を愛してはいるが、それとこれは別問題だった。被害に遭うのが、自分になるか他人になるか。
 イエス・キリストじゃあるまいし、そんなの決まりきっている。
 いそいそとエルンストはジェイクの身体を車から引っ張り出した。
「ジェイクはいい男だ、わたしが保証しよう。君だってどうせ一緒に住むのなら、居心地のいい人間の方がいいだろう? さあ、遠慮せずに入ってくるがいい。こいつの身体はわたしのものだ。わたしの身体は、わたしだけのものだがな!」
 エルンストは自分の胸を叩かんばかりに、ジェイクに入ることを薦めた。パン人形が遠慮しているような感じだったから、一層強く頷き、手招きまでしてみせる。
 寄生されたジェイクと、後々のことを考えないではなかったが、ジェイクにしろ自分にしろ、寄生そのものを拒否したら、無理やり乗り移られそうな気がした。
「…そ、それでは失礼して!」
 切羽詰まった状況が焦りを生んだのか、人形がどろどろと溶け出して、死体もどきの人間から離れた。そして丸い固まりになると、まるでジャンプでもしたみたいに、ポーンとジェイクの顔面に着地して、薄く開いていた口の中に滑り込んだ。
 ジェイクを抱えたまま様子を窺いながらも、エルンストは死体もどきが完璧な死体となったことを横目で悟った。
「…ジェイク?」
「はい」
「うわあっ!」
 エルンストは思わず叫び、彼の頭を放り投げてしまった。ジェイクの声で返った馬鹿丁寧な返事に驚いたのだ。
 地面にしたたか頭を打ちつけて、眠っていたジェイクは打ったところを手で押さえながら、ゆっくりと起き上がった。
「…痛いんですけど」
「…す、すまん。…ジェイク、なのか?」
「いえ、僕は×××です。あなたが、この人の中に入っていいとおっしゃったもので、入らせてもらったんですけど」
「?」
 エルンストには彼の自己紹介が聞き取れなかった。ジェイクの声なのに、理解出来ないのだ。
「僕の星の言葉は、地球人には発音出来ないようです。前の宿主は、僕をトムと呼びました」
「…オーケイ、じゃあトムでいこう。さっそくだが、ジェイクはどこにいる?」
「彼の意識はまだ眠っています」
「君が目覚めていても、ジェイクは眠ったままなのか? 身体は動くのに?」
「そういうこともあります。僕たちは宿主に強制したりはしません。我々の星の法律でそう定められています。彼の目覚めるべき時がくれば、自然に目覚めるでしょう」
 ヘンな異星人のせいで、ジェイクが目覚めないのではないか、意識は共存出来ると言っていたのに、本当はその身体を乗っ取られてしまったのではないか、というエルンストの危惧の念を払い飛ばすように、ジェイクの顔をしたトムは、ジェイクの声でそんなことを言った。
 自分に対しては、一緒に暮らして肌を合わせている者としての気安さから、特にぞんざいな言い方をするジェイクが、急に敬語を使ってくるのが妙な気分になって、エルンストは小首を傾げ、まるで知らない誰かを見るみたいに醒めた顔をした。
「そんな顔をしないで…。彼は、きっと、…そう、明日の朝になれば、目が覚めますよ。僕に驚くでしょうがね」
 トムは、まるでジェイクがよくエルンストにするように、左手を伸ばして人差し指の甲でエルンストのすべすべした頬を撫でた。
 その行動に違和感はない。トムが眠れるジェイクに接触体の触手を伸ばし、彼の脳と記憶にアクセスして今の癖を読み取り、行動に移したなんて、エルンストには分からなかった。
 触れたところが温かくて、張り詰めていた気持ちが緩む。これがジェイクでないなんて、信じられない。彼となら、さっきまでの自分の経験と驚愕を分かち合いたいと思った。
「…ジェイク?」
「…………」
 混同するエルンストに、トムは何も答えなかった。代わりに、
「…家に戻ろう、エリー。ここに居ては駄目だ」
「――――」
 エルンストは思わず黙り込んだ。
 外見はまったく変わらず、喋り方も行動も温かささえジェイクと同じなのに、どこかが微妙に違う。自分の意識の差だろうか。似ていても、中身が恋人だけじゃないことを知っている、でも肉体は彼そのもので。
 所在なげに立っているジェイクは、まるで記憶喪失にでもなったようだ。