立ち読みコーナー
目次
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 前編
 幕間
 後編
  あとがき
  おまけ
 前編

   1

 成島学院(なるしまがくいん)高校入学式。
 ――最初が肝心だ。ガツンとかまさなきゃいけねえ。誰(だれ)が強いのか、誰がリーダーなのか、最初にガツンとわからせないと。生徒たちにももちろん、教師にも。
 原田(はらだ)将夫(まさお)は気合いをこめた上目遣いで、短い角刈りのこめかみ部分を手できゅうっと撫(な)で上げる。細い釣り目がますます細くなった。
 この日のために、学生服のカラーを高くし、裾(すそ)を長くし、ズボンは腰周りからたゆたゆと布が余るような仕立ての「制服」を用意した。その改造学生服の下には当たり前だが白いカッターシャツなど着ない。校則違反のTシャツだ。本当は赤がいいけれど、親友の大矢(おおや)篤(あつし)とちがって将夫は赤が似合わない。黒いTシャツの襟首がのぞくように学生服の前を開ける。腰から揺らめく銀鎖も完璧(かんぺき)。
「っし!」
 鏡に向かってうなずき、ただでさえ厚い胸をさらにパンと張り、将夫は兄と共同で使っている部屋を出た。
「行ってくっからな」
 二段ベッドの下の段に並べてあるハムスターとリスのぬいぐるみたちにうなずいてみせてから。


 学校の近くの藪(やぶ)に原付を置けそうな場所は確認してある。――電車通学なんてたるいことはやってられない。不良には不良なりのマジメさが必要だ。
 藪でごそごそやっていると、「おう」と声がかかる。振り向くと、親友の大矢篤がやはり原付を藪に突っ込むところだった。
 将夫はこの、自分より少しばかり背が高く、そしてはるかにイケメンな親友を尊敬している。腕っ節、肝っ玉、どちらも大矢は素晴らしい。この春、先代から譲られて「ブラックジュピター」という暴走族を率いることになった時も、将夫は当然のように大矢を総長に推し、自分は副長に収まった。
「行くぞ」
 大矢が肩で風切って先を歩きだす。将夫はあとにつく。暴走族デビューは中学の時だ。当然、在籍していた中学はバリバリにふたりで仕切ったし、近隣の中学にも睨(にら)みをきかせていた。今さら高校で刃向かってくるような物知らずはいないだろうが、最初が肝心だ。
 あたりを睥睨(へいげい)するように校門を入ると、
「大矢さん! 原田さん!」
 目端のきくすばしっこいのが数人、さっと寄ってきた。同じ中学だった者もそうではない者もいるが、顔は見知っている。
「おう、おまえらか」
 大矢がにやりと笑ってうなずく。これで挨拶(あいさつ)は終わり。寄ってきた者たちは「大矢のグループ」になった。
 大矢は保護者や新入生でにぎわう校舎前を悠然と歩く。将夫はその斜め後ろを行き、「グループ」の者たちは後ろにつく。大矢が行く先、人々は道を開けた。不戦勝、そんな言葉が頭に浮かぶ。
 クラス分けを確認すると、大矢と将夫は同じクラスだった。「おーし」とこぶしをゴツンと合わせる。しかし、中学の担任たちはこのふたりは同じクラスにしないほうがよいと申し送りに書かなかったのだろうか。そう考えて、もしかしたら「お礼参り」が怖かったのかもしれないと思いついた。どちらにしろ、大矢と同じクラスはラッキーだ。
 ――だが、ラッキーなのはそれだけではなかった。
 将夫が別の意味でこのクラス分けが運命的だと知ったのは、入学式が行われる体育館でのことだった。クラス別に三列になって並ぶ中で、将夫の目は成島学院高校には不似合いなふたり組に引きつけられた。
 真新しい制服を「これが正しい制服着用」と言わんばかりにきっちり着込み、今まで法律にも校則にも背いたことは一度もありませんと顔に書いてある優等生。勉学に向かなかったエネルギーが躯(からだ)に向いたようなそのほか大勢の体格の立派な新入生たちの中で、机の前で縮こまって過ごした時間のせいで躯の伸びも押さえられたかのような小ささは逆に目立っている。
 この学校には珍しいタイプのふたりは、猛獣の中で震える小動物のように肩を寄せ合っていた。
『可愛(かわい)い……!』
 ふたりのうち、ひときわ小さく、ひときわ大きなトンボ眼鏡(めがね)をかけたほうに将夫は目を奪われた。将夫の躯に比べて幅も厚さも半分もないような細い躯、低い背、そしてサラサラストレートなおかっぱ頭にちんまり可愛い顔の造り。
 大袈裟(おおげさ)でなく胸に、心臓に、ズキュンと衝撃があった。将夫にもし文化的な素養があったら、「今、俺の胸をキューピッドの恋の矢が射抜いた」と表現しただろうが、将夫は胸に走った衝撃に、シンプルに『うお!』と思った。一瞬で、その名も知らぬ相手の顔と姿が将夫の脳裏に刻み込まれる。
 将夫は新入生の中で一番小さなその生徒に一目惚(ひとめぼ)れしたのだった。
『ああああ、ハムスターみてえ!』
 緊張のせいだろう、将夫が一目惚れしたその生徒は外敵を警戒するげっ歯類そのままの、小刻みで落ち着かない動きを見せる。灯ったばかりの将夫の恋心はさらにかき立てられた。
 教室に行くのが待ち遠しかった。そこで将夫は、「養和(ようわ)中から来ました。溝口(みぞぐち)孝志(たかし)です」という、その生徒の蚊(か)の鳴くような小さな声の自己紹介を一音も聞き漏らすまいと耳をそばだてて聞いた。
「溝口、孝志」
 将夫はそっと口の中で大事な名前を復唱した。


 成島学院高校は入試の難易度が高い学校ではない。はっきり言えば、偏差値の低い、誰でもウェルカムな学校だ。生徒もそれ相応に乱暴だったり落ち着きがなかったり、あるいは逆に周囲のことがわかっているのかいないのか、反応の薄いおとなしい者だったりする。そんな生徒たちの中で、将夫が一目惚れした溝口孝志と、いつもその孝志と一緒にいる加賀美(かがみ)聖人(きよと)は明らかに異質だった。頭がよさそうで、真面目(まじめ)そうで、教師の質問にはさっと手を挙げて答える。ふたりがこの学校に来たのはなにかのまちがいにちがいなかった。
 そのまちがいに将夫は感謝しながらも、心配は尽きなかった。
 いかにもな優等生っぽいふたりにはすぐにクラス委員長と副委員長という役が押しつけられた。そうでなくても、パシリやイジリ役に使われそうなふたりだ。将夫は彼らを過剰にイジる者がないか、いじめて楽しもうとする者がないか、目を光らせるようになった。
「委員長……」
 と、加賀美を呼ぼうとする者があれば、
「なんだ。あいつになにか用か」
 と先回りして制し、ニヤニヤ笑って孝志や加賀美をからかおうとする者には、ふたりの背後から仁王のように睨みつけた。孝志も加賀美も将夫に庇(かば)われているなどと気づいてはいなかったが、将夫はそれで満足だった。
 手の中でドングリをかじるハムスターは、誰がこのドングリをくれたのかなどということは考えない。人はただ、ドングリを無心でかじるハムスターを愛(め)でていればいいのだ。
 そんな将夫の、陰からそっと孝志を見守ることができればいいという想(おも)いが揺らがされるようなことが起きたのは五月の頭に行われた写生大会でのことだった。
 連休中日に城址跡公園で行われる毎年恒例の写生大会、孝志は姿を見せなかった。それとなく探ったところでは孝志はちゃんと欠席届を出していたらしく、そこは心配なかったが、とにかく孝志がいないせいで、加賀美聖人は「ボッチ」になっていた。そしてひとりでいた加賀美に、将夫の親友であり、サブとしてその活躍を支えていこうと心に決めている大矢篤が目をつけてしまったのだ。
 細い加賀美の背中の横に、大矢の広い背中が並んでいるのを見て、将夫が覚えた不安は的中した。大矢は加賀美のことが気に入ってしまったらしい。休み明けから、宿題を貸せとか昼を一緒に食おうとか、なにかと加賀美にかまうようになった。加賀美の席の近くに大矢が座ると、その周囲には呼ばれもしなくても大矢の取り巻きが集(つど)う。にぎやかで荒々しい集団の向こうから、孝志が心配そうに加賀美を見る。
『ダメだろ、篤!』
 心の中で将夫は大矢に叫んだ。
『おまえが加賀美をかまったら、溝口がひとりになっちゃうだろ!』
 どれほど声に出してそう言いたかったか。
 口に出さなかったのは、加賀美にかまう大矢がなんだかんだ言ってとても楽しそうだったからだ。大矢にしてみればちょっと毛色のちがうタイプが珍しい程度のことだったろうが、将夫の目には、大矢がかなり聖人を気に入っているように見えた。
 豪快でカッコいい親友が将夫は自慢だった。腕っ節では負けていないと思う。が、人を率いる力というのか、問答無用で自分を印象づけるカリスマ性みたいなものが自分と大矢ではぜんぜんちがう。華やかで快活で存在を強烈にアピールする大矢。その大矢が自分を親友と思い、ナンバー2の位置に認めてくれているのが将夫はうれしい。
 だからこそ、自分の感情だけで大矢の望むことに異議を申し立てるようなことはしたくなかった。
 将夫にできたのは、そっと孝志を見守ることだけだった。ついには、大矢は聖人を昼休みに屋上や中庭に仲間と一緒に連れ出すようになったが、その時も将夫はひとり残った孝志がどうするか、物陰から見守らずにいられなかった。
 孝志は心配そうに大矢たちのあとをつけていき、加賀美が泣かされたりいじめられたりしているわけではないと確認してから、ようやくほっとしたように、人の来ない階段の踊り場で自分の弁当を開いた。
「いただきます」
 お行儀のよい可愛い小声が聞こえてきた時、将夫は危うく叫びそうだった。「いただきます」なんて! 小学校の給食の時間以来、口にしたことなど一度もない将夫だ。
 食べ物の前で手を合わせ、しばし、目の前の恵みに感謝する小さな姿。隠れてそっとのぞき見たその姿に、入学式で恋の矢に射抜かれた将夫の胸に新たな矢が突き立った。育ちがいいんだなとか、よくしつけられてるなとか、親友の大矢なら言っただろう。だが将夫が感じたのはそれだけではなかった。小さな弁当箱を前にわずかに頭を前傾させて両手を合わせる孝志の姿に、将夫は穢(けが)れのない素直さを見て取ったのだ。――恋心というのは怖い。
 もぐもぐと口を動かす孝志の様子はそれこそ小動物めいて可愛い。携帯電話にその姿を収めたい衝動と将夫は必死に戦った。シャッター音がしたら、のぞいていることがばれてしまう。
 記録に残せない代わりに、将夫はいつか孝志と一緒に弁当を食べる妄想に耽(ふけ)った。
『将夫君、これ好きだよね? はい、あーん』
 孝志が箸(はし)で摘(つま)んで差し出してくれるのは、将夫の好物の「たこさんウィンナー」だ。
『いいよ、おまえ、自分で食べろよ』
『ぼくはもうおなかいっぱいだよ? 将夫君、食べて?』
『そうか? じゃあ……』
 あーん――。
「あれ、原田さん、こんなとこでなにしてんす?」
 後ろから声をかけられて、将夫はあわてて開いていた口を閉じ、ゆるみかけていた顔を引き締めた。
「……おう。おまえら、メシすんだか」
「あ、まだっす」
「じゃあ上に大矢がいるから、おまえらも来い」
 そして、孝志がひとりで弁当を食べているのとは別の階段から屋上へと出る将夫だった。


 そんな将夫の気持ちも心配も知らぬ大矢は――どんどん加賀美聖人と親しくなっていった。ついにはある日、将夫は大矢から「明日な……俺、ちょっと聖人乗っけて遊んでくるわ」と告げられた。バイクの後ろに乗せて、海まで遊びに行くのだという。
 その予定を聞かされた時に将夫が感じたのは、『男同士でデートかよ』でもなく、『遊びに行くなら俺も連れてってくれりゃいいのに』でもなく、やはり、『あんま加賀美が篤と仲良くなると、溝口がボッチに……』という孝志への心配だった。
『まあいっけどよぉ……』
 大矢はこれと思い込んだら一直線なところがある。海に行ったという次の日、大矢は昼休みになると、「俺、今日ちょっとヨソで飯食うから」と将夫に耳打ちして、加賀美を連れてどこかへと消えてしまった。おおかた体育館倉庫か校舎裏だろうとアタリはついていたが、将夫はいつものメンバーを引き連れて中庭に出た。
 そこで、ニヤニヤと目を光らせて、
「ちょっと大矢さん、怪しくないっすか。なんかやたら加賀美とかかまってるじゃないっすか」
 と探りを入れてきた取り巻きがいた。周囲の者は無言だったが、同じことを感じているのは空気でわかる。
『篤、おまえ自分で責任取れよ』
 胸の中でそう毒づきながら、将夫は深く息を吸い込むと、スパーン! とその生徒の頭をはたいた。
「つまんねえこと言ってんじゃねえ!」
 低い声で叱(しか)りつける。
 怪しいの怪しくないのでいけば、怪しいに決まっている。大矢の加賀美へのちょっかいの出し方は今までに見たことがない熱心さだし、加賀美だって大矢と顔を合わせただけで赤面したりしている。
 けれどそんなことを仲間に対して認めるわけにはいかない。ナンバー1のメンツを守るのもナンバー2の大事な仕事だ。
「……いいか、おまえら」
 将夫は周囲を睨み回した。重々しい声で続ける。
「これからは『戦略の時代』なんだよ。ビッグになるには頭を使わなきゃいけねえ。だから篤は加賀美を『ブレーンとして迎え入れよう』と思ってんだよ」
 昨日見たドラマに出てきたカッコよかったセリフを適当に繋(つな)げる。……たぶん、使い方はまちがっていないはずだ。
 取り巻きたちが「おお」と感嘆の声を上げた。……よかった。やはりまちがってはいなかった。
「そうなんすね! 加賀美がブレーン……戦略の時代なんすね!」
「なんか……なんかカッコいいっすね! 戦略……ブレーン……」
 目をキラキラさせる取り巻きたちに向かって、将夫は「おうよ」と請け合う。だがそこで、
「でも……原田さん、ブレーンって……なんすか?」
 おずおずと聞いてくるやつがいた。答えを求める視線が将夫にいっせいに向けられる。――ここであわててはいけない。
「ブレーンっつーのは……」
「ブレーンっつーのは?」
 期待の眼差(まなざ)しが痛い。そんなことをさくさく答えられる頭があればそもそもこの学校には来ていない。
「ブレーンだよ」
「…………」
 言い切ったが、返ってきたのは「ええー」とでも言いたげな空気だった。将夫は目に力をこめ直す。
「わかんねーか。ブレーンっつーのは頭なんだよ。戦略を立てたり……いろいろ、ビッグになる方法を考える……そういう考えるのが得意な、人間でいう頭の部分のことなんだよ」
 昨日のドラマで聞きかじった言葉をまたも適当に繋げる。期せずしてそれが大正解であることは将夫自身は知らなかったが、仲間たちの目にはふたたび感嘆の色が戻ってきた。
「なるほど! よくわかったっす!」
 とりあえず危機は切り抜けられたようだ。将夫はほっとした。
 そしてそれ以降、「加賀美はブレーン」、この言葉は「ブラックジュピター」の中に定着したのだった――。
 しかし。
 そんな将夫の、大矢の名誉を守るための懸命な援護射撃があったとは知らぬ大矢は……その昼休みのあと、なぜだか加賀美にかまわなくなった。
『飽きたのかもしれない』
 と、将夫は推測した。大矢と加賀美がどうなろうと、実はどうでもいい将夫である。将夫はただ、昼休みも放課後も大事な友人とまた一緒に過ごせるようになった孝志の笑顔を見られれば満足なのだ。
 気のせいかなんとなく元気がないように見える加賀美に、孝志は笑顔で懸命に話しかけている。
『いい子だなあ』
 ふたたび友人と一緒にいられるようになった孝志を見る将夫の釣り目は目尻(めじり)がいつもより垂れていた。
 そう、将夫は笑顔の孝志をそっと見ているだけでよかったのだ。大矢が加賀美を連れ回したように、自分も孝志を連れ回したいとは将夫は思わなかった。――いや。もちろん孝志が近くにいてくれたらうれしい。たこさんウィンナーあーんとかしてもらえたらめちゃくちゃうれしい。
 だが、将夫は自分を知っていた。四角い顔、四角い躯。目は細くて釣り上がっていて顔も躯もどこもかしこもごつい。大矢も立派ないい体格をしているが、筋肉のつき方が大矢はスマートだ。たとえればなめらか流線型の筋肉とでもいえばいいだろうか。上へ上へと盛り上がるように筋肉がつく将夫とは同じ筋肉質でも体型がまるでちがう。その上に、大矢はハンサムだった。イケメンだった。ナヨナヨしたところはまったくない、男らしく、力強く、しかし整った顔なのだ。――男らしいのと力強いのは共通項だが、しかし、将夫は自分が決してハンサムではないことを知っていた。
 白くて、小さくて、きっとさわればあちこちやわやわな孝志は、自分などが触れたら壊れてしまうにちがいない。
 将夫は最初からあきらめていた。
 だが、そんな将夫にもついにチャンスの女神が微笑(ほほえ)んでくれる時が来た。
 放課後、空手部へと向かう途中の渡り廊下だった。将夫はフェレットよろしく伸び上がるようにして前方の様子をうかがっている溝口孝志に行き合ったのだった。孝志は右へ左へと、背伸びしながらふらふらと揺れていた。
「どうかしたのか」
 頭の中ではそう声をかけようと思っていた。あるいは、「誰か探しているのか?」
 だが、そんな言葉がすらすら出てくるようなナンパな将夫ではなかった。
「……踏むぞ」
 将夫の口から出たのは、不機嫌そうな低い声での一言だった。
 はっと孝志が振り返った。
 将夫は身構えた。孝志の大きな瞳(ひとみ)には怯(おび)えと緊張が走るにちがいないからだ。――だが。振り返って将夫を見た孝志の顔に浮かんだのは、怯えでも嫌悪でもなかった。その顔に浮かんだのはなんと笑顔だったのだ。丸い眼鏡の奥の瞳がきらめき、可愛らしい口元が笑みの形にゆるむ。
『可愛い……!』
 将夫の胸にまたもキューピッドの恋の矢が打ち込まれた瞬間だった。
「あの!」
 笑顔のまま、孝志が両手を胸に握って将夫へと一歩二歩と近づいてきた。
「ちょっと聞きたいことがあるんですが」
「……なんだ」
 でれーっと顔がにやけないようにするには、怒ったような仏頂面になるしかなかった。その顔が怖かったのか、孝志の顔から笑みが消えた。代わりに緊張の色が浮かぶ。
 怖がらせるつもりなどなかった将夫は内心あせったが、すぐに孝志は意を決したように、
「あの」
 と切り出してきた。
「誰か好きな人、いますか」
 その問いが耳から脳へと届いた瞬間、将夫は重心が失われるようなふわりとした感覚に襲われた。急いで踵(かかと)に体重をかけてバランスを取る。買ってもいない宝くじの当選を告げられたような感覚だった。