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 薔薇と犬
 薔薇と犬 番外編ショートストーリー
  あとがき
 薔薇と犬

 (中略)

「前にも言った。あなたと交際を続ける気はない。わかったら早々にお引き取り願いたい」
 男はフランス人で、なんでも父親が織物メーカーのオーナーということだった。育ちもよく、話もそこそこ面白かったが、それ以上の魅力を相手から感じなかった。やがて男が独占欲を見せ始め、最初にした約束が守れないと気づいてからは、いっさい呼び出しに応じていない。
「他の男がいるからか!?」
「そうじゃない。今何時だと思っているんだ。もう少し頭を冷やしてから出直してくれ」
「ずっと君を待っていたのに追い返すのか」
「わたしは待っていて欲しいとは言ってない」
 成瀬は女性より男性と寝るほうが性に合った。自分が生粋のゲイかどうかは不明だが、ラブアフェアの相手としては男性のほうが気楽だ。ただし、誰でもいいというわけではなく、成瀬の定めた条件を受け入れなければ、どんなに地位や財力があろうとも付き合う気はしなかった。
 ここにいるフランス人も、かつてはその条件を守ると確約したのだが、どうやら成瀬の見極めは甘かったようである。
「どうしてなんだ。ぼくが嫌いになったのか」
「あなたにはあらかじめ言ったはずだ。大人としてのマナーを守り、互いの生活を侵害しない。一方にその気が失せてしまったときは、無理押ししないで関係の解消に合意すること。あなたはそれを承知した」
 しかし、眦(まなじり)を吊り上げた金髪のフランス男は「はい、そうです」とは言わなかった。
「あのときは確かにそういう気持ちだった。でも、今は違ってる。君のことが本当に欲しいんだ」
「だけど、わたしは欲しくない」
「なぜなんだ……! ぼくのどこが嫌なんだ。はっきり理由を言ってくれ!」
 男はしつこく食い下がる。成瀬は今日一日ぶんの疲れが肩に乗るのを感じた。
「教えてくれ。なにをすればまたぼくと付き合ってくれるんだ」
 成瀬は「なにもしなくていい」と平坦な声を発した。
 見極めが甘いどころの話ではない。完全に人選を間違っていた。
「あなたはルールを守らなかった。だからこれでおしまいだ」
 すると男は血相変えて、成瀬の胸倉を掴み上げる。とっさに逆らって身を捩(よじ)ったら、バランスを崩してしまった。不自然な態勢で横に倒れ、その上に男の体重が圧(の)しかかる。
「痛……っ」
 ずきりと左の足首に痛みが走る。その直後、男がかけていた身体の重みがなくなった。
「え……?」
 訝(いぶか)しく視線を上げたら、男が誰かに投げ飛ばされたところだった。石畳の上に落ちて、うつ伏せになったまま、腕を逆向きに押さえ込まれる。
「なにをする!?」
「外交官への乱暴は許されない。これから警察に行ってもらおう。申し開きがあるならそこで――」
「やめないか」
 成瀬は五辻を言葉の途中で制止した。
「これはそういうことじゃないんだ。彼の上からどいてやれ」
 乱れた髪を掻き上げながら身を起こす。こんなことで警察に訴えたなら、もの笑いの種になる。
「もう暴力を振るう気はないと思う」
 五辻はうなずき、やにわに男を掴み上げた。一挙動で男を立たせ、厳しい顔で相手に告げる。
「貴様の顔は記憶した。今後、書記官に近づくようなら排除する」
 かっとなって成瀬に掴みかかったものの、根はお坊ちゃんのフランス人は、五辻がその手を放した途端に大慌てで逃げていく。転ぶように逃げ去る彼の姿を見送ってから、自分の上に落ちている長い影の出所に目線を移した。
「……わたしを降ろして帰ってはいなかったんだな」
「そのつもりでいましたが、少し気になりましたから」
「深夜にわたしを男が待ち伏せしていたからか?」
 聞いたが五辻は答えない。成瀬はともかく立とうとして、足の痛みに顔をしかめた。
「どうしました」
「さっきので足を捻(ひね)った」
「歩けませんか」
「そうでもない。大丈夫だから、武官補はこれで帰って……!?」
 言葉半ばに身体が浮いた。五辻が成瀬を肩に担ぎ上げたのだ。驚いているうちに、五辻は歩道を歩いていき、正門をくぐってしまう。
 この格好は門番をも驚かせていただろうが、五辻の顔は大使館の人間として誰何(すいか)の対象外にある。難なく門を通過して、武官服姿の男は建物の中に入り、成瀬の部屋へと向かっていった。
「下ろしてくれ」
 二つ折りにされた身体は、胃の辺りが圧されて苦しい。
「肩章が当たって痛い」
「もうすぐですから」
 部屋の前で、五辻が「鍵を」とうながしてくる。やむなく成瀬は不自由な体勢でポケットから鍵を出し、求める手のひらにそれを落とした。
「足はどうです。見せてください」
 肩の上に乗せられたまま入り口の扉をくぐり、ようやくソファに下ろされる。
 足首を見ようとしてか、五辻が足元に跪(ひざまず)いた。
「お前は馬鹿か!? 足より痛いのはこっちのほうだ」
 腹部を押さえて成瀬は五辻に毒づいた。
「それは貴官をここに運ぶためでしたから」
 悪びれずに五辻が言い切る。成瀬はますます不愉快になるのを感じた。
「こうすると、痛みますか」
 片方の靴を脱がせ、靴下も脱がせてしまうと、五辻は成瀬の右足首を軽く動かして問いかけた。
「平気だ……おい、わたしは怒っているんだぞ」
「ここは?」
「なんともない」
「骨には異常がないようです。捻ったせいで少し赤くなっていますが、明日の歩行には差し支えがないでしょう。ですが、もしも朝になっても痛むようなら、大使館の救護室に連絡をしてください」
 五辻が触れていた足首から手を離す。成瀬は「ふうん?」と呟いて、うつむいている男の肩に素足を乗せた。
「ずいぶんと親切なんだな。いきなり部屋に押しかけてきて、強引に怪我の手当てか?」
 皮肉を利かせた声をぶつける。成瀬は五辻を怒らせてみたかった。怒りに我を忘れたとき、たいていはその男の地金が出る。肩を踏まれたこの男が憤慨し、顔を歪(ゆが)ませて怒鳴るとき、なんと言うか楽しみだった。
「出過ぎたようならお詫(わ)びします」
 しかし、五辻は平然としたものだった。無礼な成瀬の態度にも気にした様子はまるでない。
「ですが、あなたをあそこに置いて立ち去る気がしませんでした」
「どうしてだ? この部屋に来て、あの男の後釜に座ろうとでも思ったか」
「いえ。そうではなく」
 五辻はあくまでも真面目な表情を崩さない。
「あなたは私が見てきた中で、一番危なっかしい人物に思えるからです」
 瞬間、成瀬の頬が憤りに熱くなった。
「わたしのどこが危なっかしい!?」
「この地区は他と比べればましですが、治安状態は日々悪化しています。特に軍人の横行が目立っている中、足を痛めたあなたを路上に残していくことは危険です」
「それは取り越し苦労だろう。危険なんかどこにもなかった」
 たぶんそうだろうと思う……周囲の様子を確かめたわけではないが。
「あなたが車を降りたとき、道路の向こうに三名の兵士がいました。足取りが相当乱れていましたから、かなり酔っていたものと思われます。彼らはあなたを見た途端足を止め、そちらを熱心に窺っている様子でした。推測の範囲ですが、危険が予想されたときは避けるほうが賢明です」
 成瀬は兵士の存在に気がついてはいなかった。五辻が言うからそれは事実だろうが、それでも彼の主張には納得しかねる部分が残る。
「わたしは男で、外交官だ。少々兵士に絡まれたって、自分でなんとか切り抜けられる」
 そうでしょうかと、五辻は疑念を表さなかった。代わりにもっと失礼な台詞を吐いた。
「それは無理だと思います。これまで二カ月間、同じ部署で公務していて、さすがに私も気がつきました。男であることは、あなたの盾にはなりません。酔っぱらった兵士たちの理性に期待したいのならば、あなたの見た目を取り替えなければ」
 かっとなって、成瀬は手近のクッションを引っ掴んだ。それをそのまま男の顔に投げつける。
「出ていけ!」
「承知しました」
 五辻は何事もなかったように平然と立ち上がった。扉の前まで歩いていって、それからきっかり百八十度踵(きびす)を回(めぐ)らす。
「人の容姿に触れるような発言は失礼でした。それについてはお詫びします。ただ、あなたは大使の秘書ですから。あなたからトラブルをのぞくことも、大使が安全、また円滑に業務を遂行する上で有益かと思いました」
 姿勢を正しての、堂々とした口上だった。扉が閉まり、男の姿が消えてから、成瀬はもう一度床のクッションを引っ掴み、扉に向かって投げつけた。
 モルドニアの財務官。フランス人のお坊ちゃん。そして、あの最悪に無礼な武官。本当に最低の夜だった。

   2

「昼食をお持ちしました。少し休憩なさってください」
 書類のない場所を選んで、成瀬が机にティーカップと軽食の皿を置く。多忙な大使は、公務の片手間にサンドイッチで手っ取り早く腹を満たしてしまう気でいる。
「君もお昼はまだだろう。一時間ほどゆっくりしてくるといい」
 大使はそう勧めてくれるが公務の最中に、自分だけのんびりと休憩するような気分になれない。二時間後には、大使は来客で応接室に入るから、そのとき適当になにか口にすればいい。成瀬が「はい」と言ったきり、それでも部屋を出ないでいると「それじゃあ、これを」と大使がメモになにか書きつけ、それを畳んで成瀬に差し出す。
「五辻くんに直接手渡してくれないか」
 渡せばわかると言うことだった。成瀬は再び「はい」と応じ、今度は部屋の扉を開けて、館内にいるはずの五辻の姿を探しに行った。
 時刻は十二時を過ぎていて、皆交代で昼食を取っている。館内には職員用の食堂があり、そこには日替わりのランチの他、自由に選べるサラダやパン、それにケーキを始めとするデザートが揃っている。そこだろうかと覗(のぞ)いてみたが、五辻はいない。廊下に出て見回すと、大股で成瀬のいるほうに歩いてくる男の姿が目に入った。
 メモを手にこちらからも踏み出そうとした途端、五辻は誰かに呼ばれたらしい。手前の喫煙室に入って、成瀬の視野から消えてしまう。やむなく成瀬は喫煙室の前で待つことにした。中に入ってもいいのだが、煙草の匂いは好きではない。五辻が煙草を吸うかどうかは知らないが、用事が済めば長居をしないで出てくるだろう。
 ドアの脇に佇(たたず)むと、薄く開いた隙間から話し声が洩れてくる。
 昼の休憩どきに職員たちが喫煙室で雑談を交わし合う。五辻を呼んだ誰かがそのドアを閉め切らないままでいる。どちらもよくあることだろうが、聞こえてきた会話の中には成瀬の名前が含まれていた。
「五辻武官補はここに来てからそこそこ経つよな。成瀬書記官と身近に接してどんな具合だ」
「公務に怠りはないように思います」
 わずかに沈黙があってから、再度の質問が発せられる。
「仕事じゃなくて、性格とか」
「お訊ねの内容が漠然として掴めません。『どんな具合』と『性格とか』では材料が少な過ぎます」
「……成瀬書記官はやりにくい相手だろう?」
「やりにくいかそうでないかは問題になりません。どんな状況下でも最善を尽くすのは当然ですから」
 ……つまりは、やりにくい相手だと言うことか。
 成瀬は内心で舌打ちをする。これ以上ここにいるのは不愉快だし、立ち聞きをしているようで気分も悪い。離れた場所で待っていようとドアから背を向けたとき、またもや誰かの問いかけが耳に入った。
「書記官が警備部の松本(まつもと)をこっぴどくふった話は聞いてるか? あいつ、そのせいで胃炎になったって話だぞ」
 途端に嫌な思い出が甦(よみがえ)り、眉をひそめて足をとどめる。
 あの男は無礼千万なやつだった。業務用の書類ケースにしばしば私信を投じたあげく、館内の内線電話でしつこく誘いをかけてくる。だから成瀬はいかに相手を迷惑に思っているか、面と向かって一つ一つ丁寧に伝えてやった。そうしたら、その翌日から成瀬の姿を見ただけでこそこそ隠れるようになり、反対にこちらとしては実にすっきりした気持ちでいたのだ。
 彼らの会話の内容は、主に成瀬がどれほどきつい性格か、高慢であるかに傾き、「観賞用には最高なんだが」との感想へと続いていく。
 別に中傷と言い立てるほどもない。休憩時間の噂話だ。けれども次の主張にはどうにも承服できかねた。
「なんたって、父親は外務副大臣だろう。睨まれたら相当やばい。松本は馬鹿やったよな」
 そこまでを背中で聞いて、成瀬は身体を反転させて喫煙室の扉を開いた。
 予想されたことではあったが、成瀬の顔を見た瞬間、そこにいた三名の事務職員が度肝を抜かれた様子になった。
「あ、あの……」
 成瀬は無言で、彼らの顔を見渡した。そうすると、五辻をのぞく全員が肩を窄(すぼ)めて消え入るように部屋を出ていく。
「大使から預かってきた」
 成瀬はその場に唯一居残っていた背広の男にメモを渡した。五辻は畳まれた紙片を開き、一瞥(いちべつ)してからポケットにそれを収める。
「それでは食堂に行きましょう」
 どこから『それでは』の台詞になったか不明である。
 成瀬は不機嫌な内心を隠さないまま「食事なら独りで行く。すでに決まったことのように言われるのは不快だが」と唇の端を曲げて五辻に告げた。
 確かにこういう言い方だから、高慢と見做(みな)されるのも一理ある。自己を冷静に分析すればそうなるが、成瀬は自分を変えようとは思わない。すべての人間に好かれることが不可能である限り、批判は参考意見に過ぎない。
「大使の指示です。お嫌でも、この昼食は私と同行願います」
「ふん。それでも嫌がっていることだけは理解できるか」
 けれども指示があれば従う。本当に融通の利かない男だ。
「それはお前の受けた指示だ。わたしが付き合う義理はない」
 食堂とは逆の向きに歩を運ぶ。口惜しいことに、たったの数歩で追いつかれた。
「成瀬書記官」
 呼びかけには無視を決め込み、館内から外に出る。敷地の庭は青葉が繁り、瑞々しく爽(さわ)やかな大気が広がっている。葉陰の下を早足で進んでいって「ついてくるな」と背後にいる男に命じた。
「先ほどの彼らの話を気にされているのなら」
「馬鹿を言うな」
 身体をくるりと向き変える。真正面から男を見据えて、成瀬は諭す口調になった。
「外に出たのは煙草の匂いを消すためだ」
 成瀬は癖のない髪をさらりと振ってみせる。
「ですが」
「お前は考え違いをしている。わたしをどう思うかは彼らの自由というものだ。そしてわたしにも自分なりの考えがある。わたしは外務副大臣が自分の父親であることを誇りにしている。そうして父も、いずれはわたしが息子であるということを誇りに思うときがくる。わたしはそれを将来の確定事項と思っているが、別にお前の同意はいらない。そのことはわたし自身が知っていればいいだけだ」
 五辻は奇妙な表情で成瀬を見ている。怒るでも、笑うでもない、むしろ厳かと言いたいくらい真剣な顔つきだった。
「いいからここを去れ。わたしはもう少し――」
 そこまで言ったとき、総務課の職員が成瀬の名を口にしながら木立の向こうから駆け寄ってきた。



「どうでしたか」
「今夜は駄目だな」
 五辻に問われて、成瀬は肩を竦(すく)めてみせる。
「色々と当たってみたが、収穫なしだ」
 今夜、国立歌劇場の演目はワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』で、白い手のイゾルデ役は新人だったが、声もよく美しかった。休憩になり、人々はホールに出て飲み物や軽食を注文している。大使夫妻も周囲に知己が寄ってきて、なごやかに歓談し、その間に成瀬だけは情報収集に当たっていたのだ。
「一番の事情通は、あさってまで捕まらないし……とりあえず日を待ってみるしかないな」
「そうした人物の心当たりがあるのですね」
 多少はな、と成瀬は軽い調子で認める。
「日本人のジャーナリストで、以前高木書記官に紹介された。電話をしたら、あさってには自宅に帰ると言っていた」
 今日の昼、庭から大使に呼び戻されて聞いた話は、カメラマンの訃報だった。
 日本人のカメラマンが、銃で撃たれて殺されたという。彼の死体は旧市街の教会前に捨てられていて、モルドニアの警察は物盗りの仕業だと断定している。邦人保護も大使館の仕事であり、成瀬も気になって調べてみたが、現状では不明のままだ。
「死体は凄惨な状態だった」
 調書の文面を思い返して呟くと、五辻が唇を引き結んで首肯する。
「医師の死体検案書には、全身に十三発の弾痕が認められたとありました」
「専門家として、意見があるか」
 五辻は殺し屋でも警察でもないのだが、大使の護衛に派遣される立場なら、銃は身近に扱っているだろう。果たして彼はうなずいた。
「銃創から見て、凶器は散弾銃ではなく、拳銃だということでした。被弾していた身体の部位も、致命傷になったのは心臓への一発だけです。この点から見て、犯人には余裕があり、相手をより苦しめて殺すのが目的だと推測されます」
「……嬲(なぶ)り殺しか」
 顔をしかめて声を落とすと、成瀬が手にしたグラスの中で血色の液体がわずかに揺れる。
「彼の家族には連絡をした。今夕には日本を発って、明日こちらに着くそうだ」
 他国で息子を殺された親の心境を推察すると、成瀬も心が重くなる。彼の家族は嘆きを胸に、海に囲まれた日本からこの国を訪れる。
 成瀬がこの地に赴任してから、日本人が殺されたのは初めてだった。置き引きや、詐欺や、スリはときたまあるが、凶悪な犯罪とはこれが最初の遭遇だ。
「イリアの市民は日常的に銃を持ち歩くわけじゃない。強盗、放火、殺人など凶悪事件の発生率は市民の間でも極めて低い。むしろ……」
 あとの言葉は発しなかったが、たぶん五辻も同じことを考えているだろう。
 日常的に銃を扱う人々とは誰なのか。犯罪まがいの暴行をおこなう集団とはなんなのか。もしも成瀬が考えている通りの相手なら、おそらく犯人は見つからないままだろう。
 成瀬はホールの中にいる軍服姿をちらと見た。彼らは毎夜、歌劇場で楽しんでいる。夜ごと、大統領官邸でパーティに興じている。基本的に兵士たちは物資を消費するだけの存在だ。彼らを養う一般市民は、そのような遊興とは無縁だろうに。
 辛辣(しんらつ)な気分が胸から湧いてきて、成瀬はふと呟いた。
「この国に海はない。あるのは独裁者の宮殿と、かつての支配者の城だけだ」
 シャンデリアの光を弾くグラスを片手にそう言うと、五辻がこちらを見返してくる。
 男らしい顔立ちに、逞しいその体躯。いっそ感動を覚えるほどに、彼は見事に白い礼服を着こなしている。
 しかし、と成瀬は考えた。彼の凛々しい武官姿は、銃剣を持つ男にこそふさわしい。どんなに颯爽としていても、軍人の礼装であることに変わりはなかった。彼もしょせんはその手で他人を傷つける側なのだ。
「お前はそうした暴君たちにはさぞかし重宝する部下だろうな」
 皮肉交じりの声を放つと、五辻はそれを否定する。
「私はそのどちらにも伺候(しこう)したいと思いません」
「どうしてだ。誰かに仕えて生きるより、自分が一番になりたいか」
「いいえ、そうではありません。私はそれとは異なる意義で闘いたいと思います」
 五辻の大仰な台詞が可笑しい。からかいと好奇心を半々に、成瀬は武官補に問いかけた。
「それではお前の意義とはなんだ」
 それは――と、男は瞬時宙を見る。まるで自分の内側を覗くようにしたのちに、五辻はおもむろに口を開いた。