立ち読みコーナー
目次
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 前編
 後編
 ミニラフ画集 駒城ミチヲ
あとがき
 前編


 ランク付するなら、間違いなく五つ星クラスのホテル。
 その上階に位置するフランス料理店でいただくフルコースは、申し分なかった。
 だが残念なことにその半分も喉(のど)を通らなかったのは、目の前の魅力的な男のせいだろう。
 ホテルの窓から見おろす品川(しながわ)の夜景は、天音(あまね)が普段から知っている街とは別物の顔をしていた。
 こんな高級な店で食事をしたことなど滅多になく、ジャケットにコーデュロイのパンツという軽装の自分が、まるで場違いのように感じる。
「どうした天音。まだ落ち着かないのか?」
 有名ブランドのスーツをお洒落(しゃれ)に着こなした男が、ワイングラスを片手に聞いてくる。
「いえ……そんなことは、ありません」
 目つきの鋭い、我の強そうな眼。
 小鼻が小さく、高く真っすぐな鼻梁(びりょう)。
 肉感的な唇は恐ろしく情熱的で、男であるにもかかわらずとても色気がある。
 ブラウンがかった長めの髪は軽く後ろに流れていて、前髪は自然に落ちている。
 どこか陰のある風貌(ふうぼう)の彼だが、今日、天音と同じ、都内にある国立大学を卒業した。
 だが、いくら上品な服装で着飾っていても、彼の野性的な匂(にお)いは容易には消せない。
「あの……聞いてもいいでしょうか?」
「なんだ?」
「今日は、どういった用件でわたしを……?」
 卒業式のあと、話があるから二人だけで食事をしたいと改めて誘われたのは一週間前のこと。
 天音は断ることもできたが、あえてそれをしなかった。
 理由は簡単だ。
 それは天音が、中学時代から着かず離れずの距離を保ってきた旧友、九頭竜梁牙(くずりゅうりょうが)に心底、惹(ひ)かれているから…。
「なぁ天音、おまえもいい加減、誰(だれ)にでも敬語を使うのはやめろよ」
「……そんなこと、今さら絶対に無理です」
 即座に天音が拒否すると、九頭竜は声をあげて豪快に笑う。
「さすがは由緒正しい、将念(しょうねん)神社の神子(みこ)様だな。ヤクザの跡取りの俺とは品格が違う」
「そんな……知っているでしょう? うちは古いだけで、本当に貧乏な神社だってこと」
「だからいつも言ってるだろう? 俺が投資してやるって。おまえほどの別嬪(べっぴん)なら、その気になりさえすりゃあ、その手の男はいくらでも金を積むだろうぜ。喜んでな」
 如月(きさらぎ)天音は、典型的な和風美人だ。
 目尻(めじり)が少しあがった涼しげな目元。
 鼻梁はすっきりと通り、ふっくらした唇は薄く紅を引いたように艶(あで)やかに赤い。
 後ろ髪が襟にかかる長さの黒髪は艶(つや)やかで、きめ細かな肌は透けるように白かった。
 だが天音は、女性的な容姿のことを誉(ほ)められるのは、昔から大嫌いだった。
「あなたは、相変わらず最低ですね」
「なぁ、天音。マジで俺のもんになれよ」
 大学に入学した当初から、何度となく繰り返されてきた戯(たわむ)れ言(ごと)。
「冗談もたいがいにしてください。その話は聞き飽きました」
「おいおい、俺はいつだって本気だぜ」
「わたしの質問の答えがまだです。どういう用件で、わたしを食事に誘ったんですか?」
「ふん……そんなに、知りたいか?」
 九頭竜の瞳(ひとみ)が魅惑的に濡(ぬ)れている。
「……はい」
 グラスのワインを一気に干すと、彼は立ちあがった。
「だったら場所を変えよう。最上階に部屋を取ってある」
 唐突な申し出に、天音の瞳が見開かれる。
「……部屋? そんな……行きません」
「今夜、俺がおまえを誘った理由を知りたいんだろう? だったら来いよ。教えてやる」
 放蕩無頼(ほうとうぶらい)。
 野蛮で無神経で乱暴者で最低の……魅力的な男。
 好きだ。今さら否定なんかしない。
 でも、絶対に手に入ることはない。
 なぜならこの男は世界一酷い男だからだ。
 大学時代、流した浮き名と、抱いた女は数知れず。
 だが、不思議と泣かされた女の噂(うわさ)は聞かなかったのだが…。
「部屋には…行きません」
「なぜだ?」
「だって、あなたには…」
 こんな最低な男に、なぜこれほど惹かれるのか…。
 それは、竹刀(しない)を握ったときの、雷神のように優美で勇猛な彼を知っているからだ。
 竹刀を振り下ろす一瞬だけにまみえる、怖いほど研ぎ澄まされた獣の眼。
 一度でも竹刀を交えた者なら、惹かれずにはおれない見事な剣の太刀筋。
 それほど九頭竜の剣道の腕は秀逸だった。
「ついてくるのか来ないのか、早く決めろ。俺がおまえを誘った理由を知りたいんだろう?」
 そう言うと、九頭竜は天音の答えを待たずに背を向けて歩きだす。
「ま、待ってください! わたしはまだ、行くなんて」
「俺は強制なんかしていない。嫌ならおウチへ帰ればいい。おまえ次第だ」
 天音はしばし唇を噛(か)んでいたが、ややあって席を立った。


 最上階にあるスイートルーム。
 両開きのドアから中に入ると、アンティークなスタンド照明が目を引いた。
 壁にはキャメルカラーの腰板が貼ってあり、壁紙は白で統一されている。
 室内がほんのり柔らかな照度に調節されているのは、間接照明だけだからだろう。
 技巧を凝(こ)らした家具や調度品に気を取られていると、いきなり抱きすくめられた。
「ぇっ!」
 驚いて仰向(あおむ)くと、そのまま整った貌(かお)が落ちてきて、反射的に目を閉じる。
 相手の思うつぼだったようで、呆気(あっけ)なく唇が重なった。
「んっ! ……っ」
 最初こそ両手で男の逞(たくま)しい背中を叩(たた)いて抵抗を見せたが、すぐに甘いキスに溺(おぼ)れる。
 いつの間にか、暴れていた両手は九頭竜の背中を誘うように撫(な)でていた。
「なんだ? おまえはキスくらいで、こんなに息をあげるのか?」
 キスの合間に問いかける男。
 だが、彼も涼しい顔の下で、密(ひそ)やかに興奮しているのが痺(しび)れるように肌に伝わる。
 溺れてはだめだと、天音は自分に言い聞かせた。
「わたしは……あなたが今日、わたしを誘った理由を教えてくれるとおっしゃったから、ついてきただけです。さぁ、お話しください」
「理由だと? ふん。馬鹿らしい。そんなものは、おまえをこの部屋に連れ込む口実に決まってんだろう?」
「っ…! やはり、あなたって人は!」
「天音、そんなに俺が誘った理由を聞きてぇか?」
「……はい」
「なぜだ?」
「それは……」
 自分が、この野蛮な男のことを好きだからだ。
 もちろん、そんなことは口が裂けても言えないが…。
「なら、こっちに来いよ」
 背を向けた男が、片手で奥のドアを開けると、そこは落ち着いた雰囲気の寝室だった。
 開放的な大きな窓からは、レストランから見たものとはまた違った夜景が煌(きら)めいている。
「なにをしている? 入れ」
 急(せ)かすように誘われると、まるで催眠術にかかったように足が一人でに動いた。
 ベッドのそばにある籐(とう)のソファーにスーツのジャケットを放り投げると、九頭竜は背を向けたまま、ゆるやかにシャツを脱ぐ。
「っ……!」
 白い布が筋肉の張った逞しい肩をすべり落ちたとき、心臓が止まるかと思った。
 男の背には、重厚な刺青(いれずみ)が描かれていた。
 それは日本古来の伝説の魔物。
 神話に登場する鬼の中でも、数少ない女鬼(めっき)だった。
「これは富山の彫師に彫らせた。俺は夜叉鬼(やしゃおに)と呼んでいる」
 天音は言葉もなかった。
「どうした? 驚いたか?」
「………はい」
 そして天音は気づく。
「まさか、それをわたしに……?」
「あぁ、その通りだ。俺は天陣(てんじん)組の先代の組頭(くみがしら)である親父の後継として、組頭になった。それを、おまえに報告しておきたかった」
 彼はついに、天陣組のトップに立ったのだ。
「でも、なぜわたしなんかに?」
「……そんなことは自分で考えろよ」
 九頭竜は、わざとため息を吐きだす。
「なぁ天音。実はな、背中に墨を入れてから、まだ誰にも触らせてねぇんだ」
「……」
 誘い文句に喉が鳴る。
「天音……これに、触りてぇか?」
 天音はなにかに引かれるように彼のそばに近づくと、そっと指先で触れてみる。
「っっ……天音」
 まるで喘(あえ)ぐような男の吐息一つに、一瞬にして五感のすべてを刺激された。
 全身の血が騒ぐ。
 身体(からだ)の芯(しん)が熱く滾(たぎ)るように、許されるはずのない欲望がふくれあがった。
「夜叉鬼だ。覚えておけよ天音。俺は生涯、これをおまえにしか触らせない」
 そんな言葉、嘘(うそ)だとわかっている。
 この浮気な男が寝室で、どんな女にでも使う常套(じょうとう)句。
「もっと触ってくれ……天音」
 男の声は卑わいにしゃがれている。
 指先で夜叉の貌の輪郭をなぞると、もうたまらなくなった。
 思わず掌(てのひら)を広げ、舐(な)めるように撫でる。
「天音……なぜこれまで、おまえが転生しなかったのか、その理由を知っている」
 彼が、なにを言っているのかわからない。
 新手の誘い文句なのだろうか?
「それでも俺は待っていた。おまえが再び俺の前に現れる刻(とき)を。俺には、どうしても伝えなければならない言葉があるからだ」
 男の隆起した逞しい背筋の感触が、掌の皮膚ごしに伝わってくる。
「あぁ、梁牙…梁牙っ」
 この野性的な肉体に支配され、滅茶苦茶にされたいという危うい衝動が突きあげる。
 自分は異常なのだろうか?
 本気でそう思った。
「あぁ……もっと触ってくれ。天音…」
 それだけで九頭竜が快感を得ているように、自分も同じように快感を得ていた。
 まるで今このとき、眼下のベッドで絡み合い、深く溶け合っているような生々しい錯覚さえ覚える。
 天音は己の欲を制御することもできず、そのまま両手を男の胸にまわし、背中から頬(ほお)を寄せてすがりついた。
 まるで誰かの思念に操られるかのように…。
「っ…天音……?」
「梁牙、梁牙」
 魂の芯から湧(わ)きあがるような恋慕が胸に満ちる。
「天音!」
 次の瞬間、痩(や)せた身体が軽やかに宙に浮き、天音が次に見たのはステンドグラスで装飾された、洒落た天井だった。
「っ……ぇ! あ…梁牙」
「天音、天音! 俺が欲しいか?」
 これまでも、何度かこんなふうに組み敷かれたことはあったが、一度も彼に身体を許すことはなかった。
 なぜなら、自分は神に仕える神子だから…。
 でも…今はもう、欲望を抑えることができない。
「天音、こんなところまで俺についてきたってことは、それなりの覚悟があってのことだと理解するぜ」
「……っ」
 狡猾(こうかつ)な自分。
 これまでずっと、彼を完全に拒絶することもせず、受け入れることもしなかった。
 どっちつかずでいれば、少しでも長く九頭竜の気を惹けると思っていたから。
「俺に…抱かれてぇか?」
 答えなんか決まっている。
 天音はただ、懺悔(ざんげ)するように目を閉じた。
 すると、それを了解と取った男の手がシャツのボタンを外し始める。
「いい覚悟だな、天音。だったら言えよ。これから一生、俺だけのものになるって」
 天音は両手を九頭竜の首にまわす。
「一生、俺の傍にいろ。俺はおまえを離さない。心も身体も、俺に縛りつけてやる」
 そんな殺し文句が耳に届いたとき、記憶の底から浮かびあがってくる一つの映像がある。
 それは、九頭竜と腕を組んで街を歩く、若い女性の姿だった。
 反射的に、天音は男を突き飛ばしていた。
「なんだっ。どうした?」
 呆気にとられる男を尻目に、ベッドに身を起こして乱れた衣服を整える。
「おい、なんだよ!」
 天音が九頭竜のものになれない、もう一つの理由。
 それは…。
 彼には婚約者がいる。
 天音はとたんに頭が冷めた。
「わたしは、わたしは…あなたなんか大嫌いです! だから、あなたのものにはなりません!」
 そう断言され、九頭竜は興ざめした様子でベッドから降りる。
「今夜のわたしは、どうかしていました」
 今日が卒業式で、ずっと好きだった男と会うのもこれが最後だと思ったら、急に感傷的になって流されたのだろう。
「あなたには、もう二度と会いません。さようなら……」
 捨てゼリフを吐いて夢中で部屋から逃げだす。
 頑(かたく)なな後ろ姿を見送りながら、九頭竜は苦々しい顔で舌打ちをした。
「天音、これで終わりと思うなよ。俺は二千年もの刻を経て、ようやくおまえを見つけたんだ。二度と逃がさないからな」
 強い思念に満ちた宣告は、天音の耳には届かなかった。

 そんな最悪だった大学の卒業式から三年。
 天音には一度も、九頭竜と話をする機会が訪れなかった。
 だがときは、必然として二人を再会へと導いていく。