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 熱砂の夜にくちづけを
 理不尽なおしおき
 Petit Vacances
  あとがき
 熱砂の夜にくちづけを

 欲しいものは、金で買う。
 それがライル・アサディンのやり方だ。アラビア半島の一首長国、シャイザリーの現首長を父に持つ、六番目の息子であるライルには、それだけの財力と権力があった。
 だが、財力、権力に付随している地位というものが、ライルを窮屈に縛りつけ、ときに辟易(へきえき)させる。王族なのだから、ボディガードがつくのは当然で、一般人のようにフラフラと行き先も告げずに一人で出かけることはできない。
「……わかってはいるが、たまには息抜きもしたいのさ」
 ライルはそう呟き、着ていた民族衣装を脱いで、薄いグレーのスーツに手早く着替えた。
 特別に自分専用に宛がわれた控室でなら一人にもなれるが、それは閉じ込められているのと変わらない。ドアの外で番犬のように忠実に立っている屈強な二人のボディガードは、疲れたので少し休むといったライルの言葉を信じているだろう。
 いや、脱走常習犯の雇い主の言うことなど、もしかしたら信じていないかもしれないが、ライルに「待っていろ」と言われれば、彼らはドアの外で立っているしかないのだった。
 心の中でこっそり詫びを入れ、ライルは音を立てないように窓を開けた。緩やかな風が、独特の匂いを運んでくる。ライルの大好きなサラブレッドの匂いだ。
 ここはアメリカ、ケンタッキー州にある、競走馬のセリ市場なのである。馬主として馬を買いに来たライルは、下調べしていたお目当ての馬をすべて落札できて機嫌がよかった。
 ライバルの馬主に吹っかけられて、値段が倍ほどに跳ね上がった馬もいたが、最終的には相手が引いて、ライルが勝った。近く発売の競馬誌には「アサディン殿下、セール最高額で落札」という見出しが躍っているに違いない。
 今回のセールで使った総額は、おおよそ三百万ドル。プライベートジェットで世界中を飛びまわるライルにとっては、たいした出費ではなかった。
 サングラスをかけたライルは、誰もいないことを確認してから、身軽に窓枠を越え、控室から脱出した。ここが二階だったら、これほど簡単には出られなかった。一階の部屋をライルに宛がうから、こんなことになるのだ。
「責任はこの控室にある。レインとブライトンにはそう言おう」
 脱走がバレたときの、ボディガードたちへの言いわけも用意でき、ライルは足取りも軽く、セリ会場の方へ歩いていった。
 屋内パドックではまだセリが行われているが、見せ場の終わった馬と人は順次外に出てくる。浮かれた顔をしている馬主や、今にも首を吊りそうなほど顔色の悪い牧場主がいて、セリ市場はいつも温度差が激しい。
 中には顔見知りも何人かいたけれど、スーツにサングラスをかけているライルを見て、ライルだと気づいたものはいなかった。デンマーク人の母親を持つライルは、白い肌に金髪、基本は淡いグリーンで、光の加減によって金色にも見える不思議な色の瞳をしている。
 百八十センチを軽く超えるスタイルのいい長身は人目を引きはするものの、民族衣装を脱いでしまえば、ごく一般的な欧米人にしか見えなかった。脱走常習犯としては、ありがたいようなそうでもないような、複雑な気分である。
 ライルのアラブ人らしからぬ容姿は、母親の違う兄たちから嫌い抜かれていた。長兄のハシュルだけは、ライルをなにかと庇ってくれるが、それ以外の四人は、顔を合わせれば今でも、侮蔑のこもった視線と言葉を遠慮なく浴びせてくる。その激しさは、憎まれていると言っても過言ではないほどだ。
 肌や髪の色はライルの努力で変えられるものではなかったから、子供のときにはその理不尽さに深く傷つけられた。優しい父は、兄たちからの苛めによって、ライルの性根が暗く捻(ひね)くれてしまうのではないかと憂えていたらしいが、そんな心配はご無用だとライルは言いたい。
 変り種の末っ子も、もう二十八歳。兄たちの振る舞いがあまりにも度を超えて酷い場合には、耐えるしかなかった子供時代の鬱憤(うっぷん)を晴らすように、痛烈な嫌味で逆襲したり、実害を加えられたときは、法に触れないクリーンなやり方で復讐した。
 意地悪な兄が屈辱に顔を歪めて唇を噛んでいるのを見ると、ライルはスカッと爽やかな気分になる。
 とはいえ、兄弟同士の争いは国を衰退させるから、仕返しはたまにしか行わない。三回やられて、一回返すくらいだろうか。
 正直言って、国の衰退云々よりも、毎回相手をするのがしんどいだけなのだが、二回は見逃す私はなんて心優しい異母弟だろう、とライルは自分で思っていた。
 逆襲や復讐をするから余計に憎まれるのではないかとか、二回は見逃すと言っても、仕返しは三倍返しだから帳尻は合っているとか、細かいことを言う側近もいるが、自分の態度を改めようと考えたことは一度もない。引き下がろうが、逆襲しようが、懲(こ)りない兄たちの迫害はライルが死ぬまでつづくだろう。
 負けるつもりはないけれども、この先一生となるとさすがのライルも気が重くなる。
「私の存在がそんなにも気に入らないものか……」
 ぽつりと呟いたとき、ライルは一人の青年にぶつかってしまった。考え事をしながら歩いていたせいか、ライルらしくない無作法だった。
「おっと、失礼」
 ライルは流暢(りゅうちょう)な英語ですぐに謝り、青年を見た。
 大柄なライルの肩に跳ね飛ばされた格好の彼は、前のめりになった身体を立て直してから、ライルに目を向けた。
 黒い瞳だった。艶やかな髪も黒く真っ直ぐで、肌は白いが白人ではない。冷たく整った美貌は東洋人のものだろう。
 青年のまとっている雰囲気がどこか独特で、ライルは思わず青年に見入った。
「……気をつけてください。馬に当たったら危ないでしょう」
 ツンとした態度で苦情を述べた青年は、一頭の派手な栃栗毛(とちくりげ)の馬を連れていた。あいにく、青年にも馬にも見覚えはない。
 売れなかった馬は、すべてのセリが終わったあとで再上場することができる。きっとそれを待っているのだろう。
「申し訳ない。考え事をしていたもので」
 ライルは紳士的な態度で、再び詫びた。
 軽く頷いた青年は、機嫌の悪そうな顔でライルを上から下までざっと見てから、馬と一緒にそっぽを向いた。これ以上ライルと話をする気はないようだった。
 しかし、ライルは立ち去ることができずに、青年をじっと見つめた。
 こんな場所で出会えるとは思わなかった、類稀(たぐいまれ)な麗容である。輪郭の整った顔は、横を向いても美しい。長い睫毛(まつげ)に彩られた目の、白と黒のコントラストの鮮やかさ。崩れない表情が人形のようでもあったが、ふっくらした唇は、人形には持ちえない肉感的なものを感じさせた。
 まだほんの子供にも見えるし、落ち着いた物腰が成人した男性のようにも思わせる。年齢不詳は東洋人の神秘の一つだ。
 見つめていると、目が離せなくなってしまう。ライルは美しいものが好きだった。ここで別れてしまうには、あまりにも惜しい。
 それに、今は凍った蕾のような固さだが、熟練の手によって解(ほぐ)され、柔らかく咲き誇ったとき、どんな色香を見せるのだろう。
 育成は女よりも、男の方が楽しいというのが、ライルの持論だ。女は与えられ可愛がられる愛玩(あいがん)動物のような暮らしの中にも、己の価値と人生を見出し、見事に順応してみせるが、男は男であるがゆえに、男としての矜持(きょうじ)や羞恥心をいつまでも捨てられないから、比較的長い間ライルを楽しませてくれる。
 青年のプライドは高そうだ。高ければ高いほど、腕が鳴る。
 興味は尽きない。青年の美が成長の余地を残しているだけに、手に入れて磨いてみたかった。他人の手でそれをされたくないとも思った。
 なんと声をかけるべきかと悩んでいると、青年がぱっと振り向いてライルを見た。
「なにか、ご用でしょうか?」
 声は冷たく、十センチ以上下から見上げてくる視線は、友好的とは言い難い。その視線の険しさで、ライルは自分が失礼なほど長い時間、彼を見つめていたことにやっと気づいた。
「これは失敬。きみに見惚れていたんだ。気に障ったなら謝るよ」
 ライルは三度頭を下げた。十分足らずの間でこんなに謝ったのは、初めてかもしれない。
「俺が見てもらいたいのは、馬の方です。冷やかしなら余所でどうぞ。馬を買う気もないのに、ウロウロしないでください」
 邪魔ですから、という最後の厳しい台詞を、彼が舌の根元で止めたのがありありとわかった。理性というものが働いたのだろう。
 先ほどのつっけんどんな態度もそうだが、どうして彼は、自分に馬を買う気がないと決めつけているのだろうとライルは思ったが、すぐに謎は解けた。
 馬を購入するものはだいたい、セリ名簿を片手に持っている。サラブレッドの購買は血統第一で、その馬の両親、母の父、そして近親に活躍した馬がいるかいないかが重要なポイントとなる。
 それらを記載してある名簿を所持せず、一人でフラフラ歩いている男は、セリ市を見学に来ただけで、購買する気がないと見なされても仕方がない。
 だが、自分をケチな男と勘違いされたのなら、不愉快だ。
「買う気がないわけじゃなくて、欲しいのをもう買ったあとなんだよ」
「俺の馬を買う気がないなら、同じことでしょう」
「きみの態度如何によっては、買ってもいい」
 青年の気を引くためにライルはそう言い、彼が連れている馬に目をやった。よく手入れされているらしく、黄金のたてがみは綺麗に梳(す)かれ、馬体もつやつやと輝いている。
 しかし、牡馬なのに線が華奢(きゃしゃ)で身体も小さく、片方の後ろ脚が若干内側に曲がっていた。はっきり言って、ライル好みの馬ではない。
「よかったら、私にこの馬のセールスポイントを教えてくれないか?」
 見た目は悪いが、もしかすると血統にピンとくるものが入っているかもしれないと思い、ライルは訊いた。
 青年は怪しむような目をしながらも、説明を始めた。
「この馬はオブライエンスタッドの生産馬です。父がイフリート、母がミススタンピードで、近親に凱旋門賞に出走した馬がいます。小柄だけど元気で負けん気が強くて、自分より大きな馬に対しても、怯みません。脚が少し曲がってますけど、これは母親からの遺伝で、レースをする上でのハンデにはならないと俺は思っています。こういう脚でも走っている馬は、世界中にたくさんいますから」
 ただ走るだけなら、そりゃ犬でもネズミでも走るだろうさ、とライルは思ったが、余計な突っ込みは入れずに、少しクセのある英語で馬の説明をしている青年が、さっきの冷たい態度とは打って変わって熱心になっていくのを、うっとりと眺めた。
 脚の曲がった名馬の例など、聞かされずとも知っている。ライルはきっと、青年より何百倍も競馬に詳しい。
 だが、やめさせようとは思わなかった。高くもなく低くもない、しっとりした声音が耳を蕩(とろ)かしてくれる。発音は悪いが、それが舌足らずに聞こえて、とてもキュートだった。
 機嫌の悪そうな、無口で無愛想な顔もいいが、一生懸命な顔もいい。頬が紅潮しているのが、白い肌に映えてなんとも美しい色合いだ。
 話が一段落したところで、ライルは口を挟んだ。
「きみは、日本人かい?」
「……え? ええ、そうです。言葉が聞き取りにくいですか?」
 青年は途端に心配そうな顔をした。
 説明がお粗末で馬が売れなかったら、きっと雇い主に叱られるのだろう。日本人は真面目で勤勉で、とても義理堅い。
「いや、なかなかチャーミングで素敵だ」
 困惑と不安を宿した表情が、みるみる怒りに変わっていく。チャーミングが気に障ったのか、素敵という表現が許しがたかったのか、よくわからないけれど、その劇的なまでの変化を、ライルはうわぁ、可愛いなぁとほんわかした気持ちで観察していた。
「俺は男なので、その表現を受け入れるわけにはいきません。あなた、馬を見に来たんでしょう? 俺じゃなくて馬を見てください、馬を評価してくださいよ、俺じゃなくて!」
「これは失礼した。純粋なる褒め言葉であって、怒らせるつもりはなかったんだ。ところで、その脚の曲がった馬の値段は?」
「オブライエンさんの希望価格は、……二十万ドルです」
「二十万ドル?」
 ライルは鸚鵡(おうむ)返しに言った。
 青年の力説は適当に聞き流していたが、この貧相な馬にその値段はちょっとボリ過ぎである。明らかに低価格帯の馬で、五万ドルに大幅値下げしても売れるかどうか怪しい。
 ライルが忌憚(きたん)ない意見を述べると、青年は一瞬気弱な顔をしたが、すぐに挑むような瞳で見上げてきた。
「たしかに、血統からしてもそんなに高いようには見えないけど、でも俺は……そのくらい価値のある馬だと思っています」
「きみ、馬にかかわるようになって何年になる?」
「五年です」
「五年?」
 不信感のこもった二度目の鸚鵡返しで、青年はしぶしぶ白状した。
「……牧場で働き始めて、二年になります」
「私が思うに、きみはこの馬に、相当強い思い入れがあるようだ」
「ええ。出産に立ち合って、俺が初めて取り上げた馬なんです。俺が引っ張り出したんです、母馬の腹から出てきたところを」
「きみが引っ張り出したのは、この馬だけかい?」
「いいえ、あとで何頭もの出産に立ち合ったし、今年もたくさんいい仔馬が生まれました。どの出産も感動的だけど、やっぱり最初の子供は特別に感じます」
 青年は愛しげに馬を撫で、己の宿命をまだ知らない若駒は、あどけない顔で青年に甘えた。
 弱い馬に興味のないライルは、見慣れない異国の絵を見るような気分で、その美しい光景を眺めていた。
 青年の幻想的な期待や華々しい希望は、数年のうちに打ち砕かれるだろう。彼はこの馬が活躍してくれればいい、活躍するのではないか、活躍するに違いないというバージョンアップしていく厄介な妄想に取りつかれているが、現実はセリで売れ残って競走馬としてのデビューすら危うい。
 世界中のターフで王者の走りを見せる馬は、生まれたときから完璧なのだ。
 安値で買い叩かれた馬が、ときおりどうしたことかドラマティックな力走を見せて、観客を感動させることもあるが、勝つか負けるかヒヤヒヤしたり、下克上を連想させるようなレースは、王者に相応しくない。
 生まれたときから期待され、飛び上がるほどの高額で売買され、勝って当然のレースを、勝って当然の期待の中で、汗も掻かずに勝ってのけるのが、本当に強い馬なのだ。
 現実はとても厳しく、そしてとても冷たい。
「このセリで売れなかったら、どうするつもりかな、オブライエンさんとやらは」
「売れます、絶対に売れます」
 思い詰めたように翳(かげ)る秀麗な美貌に、売れても売れ残っても、この馬の未来は明るくないのだなとライルは悟った。
 青年のつっけんどんな態度は、不安の裏返しだったのだろう。絶対に売れると思っていた馬が売れ残り、買い手から打診も受けない状況では、苛立ちも覚えるし不安にもなる。
 ライルは人差し指と親指で顎を摘み、これからの予定を考えた。
 何事においても、初めての経験というものは、人生の記憶に深く刻み込まれてしまう。自分が育てて開花させたい青年に、自分以外に心を占める存在があるのは、よろしくない。
 昔の恋人ならすぐに忘れさせてみせるが、己が初めて取り上げた仔馬を忘れさせるのは、至難の業だ。ましてやその馬が不幸な死など迎えたら。
 悲しむ青年が可哀想そうで、きっと見ていられない。
 この馬は青年のペットだ。ちょっと大きな犬なのだ。ライルはそう思うことにして、ペットごとシャイザリーに連れ去る決意を固めた。
 愛しい馬と一緒にいる方が青年も嬉しいに違いないし、彼がたとえ、シャイザリーで暮らしたくないと駄々をこねても、愛しい馬の命運をライルの手に握られているとあれば、自分だけ逃げ出すこともできまい。
「一石二鳥じゃないか、素晴らしい!」
 ライルは己の隙のない計画を、小声で自画自賛した。
 この馬の所有者と、いっときも早く話をしなければ。
「きみ、オブライエンさんとやらを呼んできて……」
 くれないか、と最後まで言い終える前に、地獄の底から聞こえてくるような声が、背後から突き刺さった。
「お探し申し上げましたよ、殿下」
 振り返るまでもない。職務に忠実で優秀なボディガードたちが、主人を見つけ出したのだ。
「あれほど勝手な真似はなさってくださいますなと、何度も何度も申し上げましたのに。わかっていただけなかったようで、私は非常に残念に思いますよ、殿下」
 トゲトゲしく丁寧にネチネチと抑揚のない声でしゃべるのは、スレンダーなレインだ。機械に強くて、たいていの時限爆弾は解除できる。
 ブライトンはレインの頭ひとつぶん背の高い、傭兵上がりの寡黙な男だ。
 どこで知り合ったのか知らないが、ライルが初めて紹介されたときから、二人はいいコンビでいつも一緒だった。個人的に契約を結んでいるライルは、彼らを信用している。
「やぁ、元気だったかい? あの控室、窓が開いていたんだ。開いてる窓を見ると、人間ってそこから出たくなるもんなんだよ。私のせいじゃない」
 ライルは用意していた言い訳を、にこやかに披露した。
「鍵がかかっていても、ご自分で外して脱走なさるでしょう。つまり、殿下の性格の問題であって、断じて窓のせいじゃありません。いつもよくそんなくだらない言いわけを思いついて、かつ我々に臆面もなくおっしゃることができますね」
「だって、『脱走したかったんだ、反省はできない』って言ったら、それこそ怒るだろう?」
「怒りませんが、呆れます。殿下が『自分勝手な行動を取っているときに、生命の危機にさらされても、ボディガードに落ち度はない』と誓約してくださっているのは幸いですけど、雇い主を危険にさらすようなガードをしたとあっては、今度は我々の名誉と自尊心の問題になりますから」
「ボディガードにもいろいろあるんだな。心中お察しするよ」
 他人事のように言うと、レインは吊りあがった目で睨み上げてきた。
「では、おとなしくお戻りくださいますね」
「……殿下って?」
 控えめに口を挟んできたのは、青年だった。
 形のいい眉が不安げに顰(ひそ)められている。訊ねてはいるが、ライルの正体に思い当たる節があったのかもしれない。
「すまない、話の途中だったな。彼らは私のボディガードなんだ。優秀だが、脱走した私を発見するのが早すぎる」
「お褒めに預かり光栄です、殿下」
 ライルの軽口に、レインが嫌味ったらしく礼を言う。
「殿下ってもしかして、シャイザリーのライル・アサディン殿下? ……いえ、殿下でいらっしゃいますか?」
「いかにも、そのとおりさ」
 取ってつけたように丁寧にしゃべろうとした青年は、驚愕と困惑で青褪(あおざ)めていた。
「も、申し訳ありません! 俺、すごく生意気なこと言っちゃって…!」
「気にしなくてもいい。慈悲深く慈愛あまねくアッラーの御名において。私は気さくな性格だし、きみとの会話はとても楽しかったよ。さて、馬(ときみ)の話をしようか。私はどうやら、その馬(ではなく、きみの方)が気に入ったようだ。ぜひ(きみごと)買い取りたいと思っている。きみの雇い主はどこにいる?」
 自分に都合よく言葉を省き、それに気づかれないように、外国人には神秘的に聞こえるアラビア語を無意味に盛り込みながら、ライルは青年に訊いた。
 姑息なライルの罠はちゃんと機能していて、青年は一瞬にして喜色を浮かべた。
「……この馬を、買ってくださるんですか?」
「もちろん(きみのペットとしてね)」
「とても嬉しいんですけど、ああ、でも……」
「細かい話はあとでしよう。私も暇なわけじゃないのでね」
 急きたてると、青年は慌てて携帯電話で連絡を取り始めた。
 オブライエンは近くにいたらしく、すぐに現れた。青年は電話口でライルの名前を出していたが、彼は自分の生産した馬の価値をよく知っているようで、青年以上に困惑した顔だった。
 疑わしそうな目をしているのは、ライルを偽物だと思っているのかもしれない。脱走用のサングラスにスーツ姿では、そういう誤解を受けても致し方ない。しかも、エージェントも連れずに本人が直接交渉など、普段のライルなら絶対にしないことだ。
「初めまして、ミスタ・オブライエン」
 ライルは自己紹介代わりに、手っ取り早くサングラスを外して見せた。これでライルが本物かどうかわからないような生産者では、この先この商売をつづけてもうまくいかないだろう。
「シェ、シェイク・アサディン殿下……! お、お目にかかれて光栄です」
 本物のライルとわかると、オブライエンはにわかに頬を紅潮させた。差し出してきた手を握ってやってから、ライルはニコリと微笑んだ。
「さっそくでなんだが、彼が連れているこの馬を買いたいんだ。先ほど偶然ここを通りかかったら、彼がこの馬を勧めてくれてね。あなたはいい従業員を持っている」
「お褒めいただき、ありがとうございます。ですが彼はまだ若く、競馬についても未熟ですし、セリ市に慣れておりません。どのような説明をしたのかはわかりませんが、この馬は殿下がご購入になるような馬では……」
「私がこの馬を気に入ったんだ、それでいいじゃないか。突発的なことなのでエージェントはいないが、できればここで決めてしまいたい。かまわないだろうか」
「そ、それはもちろんですが……」
 オブライエンは流れ落ちる額の汗を、手の甲で何度も拭っていた。ライルは彼を手招きし、会話が青年の耳に届かないところまで離れてから、本題に入った。
「正直な話をしよう。私は馬よりもあの青年が気に入ってしまったんだ。馬と一緒に彼も私のところに引き抜きたいんだがどうかね」
「イ、イズミをですか?」
「それが彼の名前? いい響きだ。彼はあなたの牧場に、なくてはならない存在かい?」
「フルネームはイズミ・ハセです。彼は友人の息子で、二年ほど前から私が預かっています。家族は日本で、競馬とは関係のない生活をしておりまして、彼は五年前の家族旅行で私の牧場に遊びに来てから、競馬の魅力に取りつかれてしまったようで。高校を卒業すると家族の反対を押し切って渡米してきました。馬に関しては素人ですが、勉強熱心でいい子です」
 オブライエンの言い方には気取ったところもなく、ライルに媚びておこうといういやらしさも感じなかった。
「なるほど。競馬の勉強なら、私のところでもできるよ。私が奨励金を出して、自費では海外に行って勉強できないホースマンたちを支援、育成しているのはご存知かな?」
「ええ。では、イズミもその中に加えてくださるのですか?」
「当然だよ、ミスタ・オブライエン。あなたのご友人であるイズミの家族にも、よい報告ができるでしょう」
「それは、イズミにとっても申し分ない話と思いますが、彼自身はなんと言ってるんでしょう」
「まだ聞いてないんだ。一筋縄ではいかない性格のようなのでね、私から話すよりも、あなたから言ってもらった方がスムーズだと思うんだ。……無理を承知で言うんだが、私は今日このまま彼をシャイザリーに連れて行きたいと考えている。荷物や生活費、ビザのことは心配ない、すべてこの私が保証人になるのだからね」
「き、今日とおっしゃるのですか? シェイク・アサディン、いくらなんでも……」
「無理は承知の上だと言っているんだ、ミスタ・オブライエン。あの馬ごと、イズミを私に譲ってほしい。イズミはあの馬の値段を二十万ドルと言ったが、嘘だろう?」
「二十万ドルですって? お聞き間違いをなさってるんでしょう。あれは午前中のセリで声がかからなかった馬です。私は四万ドルで売れてくれれば上々の首尾だと思っていました」
「では、馬とイズミで五十万ドル出そう。どうだ?」
「ご、五十万ドル……?」
「なんだ、気に入らないのか。たしかにイズミの価値が五十万ドルでは、安すぎるな。では、百万ドルでどうだ? あなたがOKなら、今すぐ小切手を切るよ」
 そう言って周囲を見まわすと、レインたちが連絡を取ったのか、秘書のハルファンの姿が目に入った。ライルはハルファンを呼び、小切手帳を出させた。
 サラサラと記入して、オブライエンに渡す。
 なにが起こっているのか、よく飲み込めていないオブライエンは反射的にその小切手受け取ってしまい、呆然とした顔でライルを見上げている。
「ミスタ・オブライエン。あなたはイズミを解雇して、私のところへ来るように言うだけでいい。私は人攫いではなく、シャイザリー首長国の第六王子だ。なにも心配することはない。イズミは幸せになるだろう」
「シェイク……」
「行きたまえ」
 ライルが王族にしか出せない厳粛な声で命じると、オブライエンはまるで雲の上を歩くように覚束(おぼつか)ない足取りで、イズミの方へ向かっていった。
 帰りのジェット機ではイズミを隣に座らせて、いろんな話をしよう。あの肌理(きめ)の細かい東洋人独特の肌に触れてもみたい。口づけなどしたら、彼は怒るだろうか。
 こうしていろいろ考えているときが、一番楽しい。
 ライルは満悦の表情で微笑んだが、すぐ近くでは、ライルの奇行に慣れていながらも、うんざりしているレインとハルファンがため息をついていた。