立ち読みコーナー
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 束縛は罪深い優しさで
 番外編SS
  あとがき
   ◇ 1 ◇

 坂道を登ってくる人影を認めて、藤城友衛(ふじしろともえ)は薪を割っていた手を止めた。
 ここは友衛の遠い親戚である、陶芸家、倉木祥山(くらきしょうざん)の工房だ。坂道は一本道で、この先に家はないから、工房に用のある人間しか登ってこない。
「誰だろう、お客さんの予定なんかあったっけ…」
 友衛は独りごちた。
 祥山は気さくな性格で、希望者には工房を好きに見学させているが、もちろんそれは祥山自身が立ち会ってのことだ。
 倉木夫婦と友衛が暮らす住まいは、坂道を数十メートルほど下がったところに建っている。少し前に聞こえた車のエンジン音は、この客を倉木家まで乗せてきたタクシーだったのかもしれない。
 祥山は調べたいものがあると言って家に帰っていたから、来訪者にはちょうどよかっただろうが、工房へ来るのに祥山が同行していないのはおかしい。ここにはこうして友衛がいるけれども、祥山の正式な弟子ではないし、陶芸に関しては素人同然だからだ。
 首を傾げつつ、友衛は縁のない眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。友衛の視力は、眼鏡をかけていても、あまりよくない。
 がっしりした体格の男は、ことさらゆっくり歩いているようだ。顔はまだわからない。
 だが、その歩き方に見覚えがあった。
 男の正体に気づいた友衛は、ハッと息を呑み、思わず後退った。足はとっさに背後の白樺と椴松(とどまつ)の広がる林に向きかけたが、そんなところへいっとき逃げ込んだからといって、どうなるものでもないことはわかっていた。
 友衛はついに、見つかってしまったのだ。
 そして、捕獲される。
 執念深く、北海道の田舎町まで追いかけてきたこの男――宮間圭吾(みやまけいご)に。
 ヘビに睨(にら)まれたカエルのように固まってしまった友衛の前で、圭吾は足を止めた。
「迎えにきたぞ、友衛」
 そう言って笑った圭吾の顔には、凄味がある。
 一年半ぶりに聞いた声だが、友衛は懐かしいとは思わなかった。いつ見つかるか、いつこうして圭吾が連れ戻しにくるか、不安のうちに過ごした一年半は、あっけないほど短く感じられた。
 真正面に立たれると、圭吾の男らしい口許や顎が目に入る。彼の方が、五センチほど背が高いのだ。その差は出会ったときから、広がることはあっても、決して縮まることはなかった。
 秋物のジャケットを粋にはおり、一目で高級とわかる革靴を履き、腕時計も一流品しか身につけない。彼は大手建設業を営む社長の息子で、幼いころから贅沢と我儘(わがまま)が許されていた。
 特筆すべきこともない、普通のサラリーマン家庭で育った友衛には、彼の贅沢に慣れた態度や我儘を我儘とも思わない傲慢さが、鼻持ちならないものに感じられる。
 かといって、安物を身にまとい、媚びた愛想笑いをする圭吾など、想像したくもなかった。
 彼には王様の役割が似合う。
 それは認めるけれど、自分の自由を奪い、配下に置こうとするのはやめてほしい。どうして彼はこれほどまでに、自分に執着するのだろう。
「……今回はちょっと長かったな。お前、痩(や)せたか?」
 圭吾は右手を伸ばし、黙りこくっている友衛の頬にそっと指先で触れた。
 骨張って不器用そうに見えるその指は、友衛の肉体を暴くとき、信じられないほど繊細な動きをみせる。
 目を合わせられずに俯いている友衛の頬を、圭吾は人差し指の甲で数回擦り、そのまま指先を顎の下に滑り落として顔を上げさせようとした。
「拗ねた顔してないで、なんとか言えよ。子供じゃあるまいし」
 獲物を追い詰め、じわじわといたぶるような意地の悪さを感じた友衛は、これまでも常に自分を思いのままに従わせようとしてきた圭吾の強引な手を振り払い、
「…駄目なのか」
 と小さな声で呟いた。
「なにがだ?」
「どうしても俺でないと駄目なのか? 俺を解放してはくれないのか?」
 喉の奥から搾り出した言葉は、圭吾によって笑い飛ばされた。
「まだそんなことを言ってるのか。俺がお前を逃がすわけがない。どこへ逃げようと、俺はお前を見つけて連れ帰る。何度言わせれば気がすむんだ? いい加減に諦めろよ」
「…圭吾!」
「ほかには誰もいらないんだ。お前だけいれば、俺はそれでいい」
 お前がよくても俺はいやなんだと、友衛は叫びかけたが、祥山がこちらへ歩いてくるのを見つけて、口を噤(つぐ)んだ。
 接近しすぎている圭吾を、祥山には気づかれないように押し退けてみたものの、百八十センチを越えた大柄な圭吾はわずかにも揺らがなかった。
 彼は堂々とした、まるで友衛の保護者のような態度で祥山に会釈をした。
「先ほどは、突然お伺いして失礼しました。おかげさまで、友衛くんにも会えました」
 やはり圭吾は、工房へ来る前に家の方へ寄って、自己紹介やら友衛を訪ねてきたことなどを祥山に話していたらしい。
 圭吾がいったいどんな嘘をでっちあげたのか気になったが、それはあとで訊くことにして、友衛は圭吾の前に出ると、祥山に頭を下げた。
「先生、すみません。彼が急に訪ねてくるなんて、思わなかったものですから」
 圭吾を客として扱いたくはないが、それは祥山には関係のないことだし、今すぐ帰れと友衛が言ったところで、引き下がるような圭吾ではない。それに居候としてやっかいになっている祥山に、自分と圭吾のドロドロした醜い関係を、知られたくもなかった。
「友達が遊びにくるのはいいことだよ、気を遣わなくてもいい」
 祥山は朗らかな笑顔で友衛にそう言い、
「ええと、きみ、宮間くんといったかね。こんなところで立ち話もなんだから、友衛くんと一緒に家の方へおいで。家内がお茶を淹れてるんだが、ゆっくりする時間はあるのかい?」
 と圭吾に向かって訊いた。
「実は帰りの飛行機は取っていないんです。こんなに順調に友衛くんに会えるとは、思っていなかったので。宿もこっちに着いてから探すつもりだったんですよ。どこかいいホテルを教えていただけないでしょうか?」
「それなら、今夜はうちに泊まっていくといい。明日も時間があるなら、友衛くんと街へ出て観光でもしてみたらどうだい。北海道は初めてなんだろう?」
「そんな、先生! そこまでしていただくわけにはいきません」
 友衛は慌てて叫んだ。愛想よく頷きかけた圭吾を睨んでしまったが、祥山はその咎(とが)めるような視線を、図々しい友人を遠慮深くたしなめるためのものだと思ったらしい。
「いいじゃないか、せっかくきみを訪ねてきてくれたんだし、うちのベッドは余ってるんだ。今から街へ出てホテルに泊まるなんて、面倒なことをする必要はないだろう。宮間くんはきみのことを心配して、ここまで来てくれたそうだ。そういう友達は大事にしなければいけないよ」
 祥山は幼い子供に言い含めるような口調で、友衛に言った。
 こうなったら、言うとおりにするしかない。この心優しい陶工が、世間から隠れるように生きている自分を心配してくれていることを――本当は圭吾から逃げているだけなのだが――友衛はよく知っていた。
「友衛くんと話したいことがたくさんあるので、泊めていただけるなんて本当にありがたいです。厚かましくて非常に恐縮なんですが、お世話になります」
 圭吾は祥山に向かって、ぺこりと頭を下げた。人懐こい笑顔で、躊躇(ちゅうちょ)なく頭を下げる仕草は素朴に映り、いかにも金持ち然とした彼の生意気そうな雰囲気を、綺麗に消し去ってしまう。
 もちろん、圭吾は自分をよく見せようと計算してやっているのだが、それにしても、祥山の様子から見て、彼は短い時間でかなりの好感を与えたようだ。如才ないふるまいは圭吾の得意とするところだから当然かもしれないが、友衛は苛立たしい気持ちになった。
 彼がその気になって、味方にできない人間などいないのではないかと思ってしまう。誰もが彼を魅力的な青年だと認め、彼を拒絶する友衛を、頭の悪い駄々っ子のように感じるのだ。
 あまりにも理不尽だが、自分にはその理不尽さを訴えることさえ許されない。
 怒りはすでに失われ、諦念(ていねん)と自嘲(じちょう)だけが、友衛の心を満たした。
「すみません、それじゃあお言葉に甘えることにします。薪の整理はあとでしますから、先生は触らないでくださいね」
「気にしないで、ゆっくりしなさい。薪は今日明日に使うものではないし、割った薪を小屋に入れるくらいは、私でもできるからね。早くしないと、家内の淹れたお茶が冷めてしまうよ」
 祥山はそう言い置いて、途中で放ってあった作業をつづけるために工房の方へ入ってしまった。
 薪は登り窯を焚くときに使用するが、焚き口にくべやすい太さに割らなければならない。割った薪は崩れないように縛って、工房の後ろに建っている薪小屋に保管しておく。
 腰痛を患っている祥山には、薪割りがことのほか身体に堪えるらしく、力仕事や腰に負担がかかるような雑用は、全部友衛が引き受けていた。陶芸に縁も興味もない生活を送ってきた友衛ができることといえば、そういった力仕事や雑用しかなかったのが事実だ。
 気にするなと言われても、唯一できる自分の仕事を祥山にやらせるわけにはいかないから、友衛は圭吾に声をかけることなく、割った薪をまとめて縛り、手早く整理して体裁を取り繕った。
 水場で手を洗い、無言で坂道を下り始めると、圭吾もついてきた。
「働き者だな。どういう触れ込みで、ここに逃げ込んできたんだ? 倉木祥山といえば、小さな作品でも百万円以上の値がつく大作家だ。お前と遠い親戚だとは俺も調べるまで知らなかったが、まさか、陶芸家になりたくて弟子入りさせてくれ、なんて嘘八百を並べ立てたわけじゃないだろう」
 返事をするのもいやで、友衛は黙っていた。
 しかし、圭吾は気にした様子もなく、楽しそうに友衛の現状について推測してくる。
「お前に陶芸の趣味がないことは知ってるが、それでも一年半も彼のそばで弟子の真似事をやってきたんだ。焼きものの道を目指してみたくなったんじゃないのか?」
「…今さら目指せるわけがないだろう」
 友衛は吐き捨てるように言った。
 ――こうして連れ戻しにきたのはお前のくせに、俺の将来のあらゆる可能性を奪うのはお前のくせに。
 そう思うと、腹が立って仕方がなかった。
 確かに、焼きものの道とは奥深く、興味をそそられるものがあった。友衛には芸術的なセンスがあったから、これまでも祥山に幾度となく弟子入りを促されていた。
 それを断りつづけていたのは、最後までやり遂げることができないと思ったからだ。圭吾から逃げているかぎり、友衛は見つかれば、東京の彼の家に連れ戻される。
 不安材料を抱えたままでは、自分がいくらやりたくても、北海道に工房を構えている祥山に正式に弟子入りして、陶芸家を目指すことはできない。
 友衛の人生は、圭吾の干渉なしにはありえないのだ。
 友衛は憎しみを隠さない、刺すような視線で圭吾を睨んだ。



「…お前は相変わらず、外面がいいな。先生もすっかり信用してるみたいだけど。どんな口上を用意して乗り込んできたんだ?」
「学生時代から親しくしていた友衛くんのことが心配で、ずっと探していたんですって、至って普通に話しただけさ。俺から逃げた小鳥を捕まえて連れ戻しにきたなんて一言も言ってないし、俺たちが十年以上も前から肉体関係を結んでるってことも言ってない。安心したか?」
 訊きたいことはまさにそれなのだが、いちいち癇(かん)に障る言い方をする圭吾を、さらに睨む。人をわざと怒らせて愉しむこの陰険な性格は、きっと死ぬまで直らないだろう。
 捻(ひね)くれた性格にならざるを得なかった彼の家庭環境に、同情を寄せたこともあったけれど。
「まあいい。先生は俺のこと、なにか言ってたか…?」
「心配してたぜ。まだ若いのに、目的もなくこんな辺鄙(へんぴ)な場所に引きこもって暮らしてるのは、よくないと思ってるみたいだった。お前が社会復帰できるように励ましてやってくれって、頼まれたよ。心配しなくとも、彼は俺と一緒に東京へ帰りますよって…」
「言ったのか!?」
 圭吾は人の悪い笑みをニヤリと浮かべ、首を横に振った。
「言ってない。まずはお前の意見を聞かなくちゃいけないからな。お前がおとなしく帰ると言えば、俺とお前は親しい友人のままだ。だが、少しでもごねたら、この写真が倉木家のリビングに落ちることになる」



 圭吾がズボンのポケットから出してきた写真を、友衛は最初、信じられない思いで見つめ、次の瞬間には飛びかかって奪おうとした。
「おっと、行儀が悪いなぁ」
 圭吾は身軽にかわして、人差し指と中指で挟んだ一枚の写真を、ひらひらと揺らしている。
 友衛の視力はよくないが、なにが写っているかはわかった。二人の間で持ち出される写真といえば、それしかないからだ。
 全裸の自分が、大きく開いた脚の間に男を咥え込んで、淫らな顔で喘いでいる。抱いている男は圭吾だが、背中しか写っていないので圭吾だと断定するのは難しい。愉悦に我を忘れている友衛だけが、この世から消え去ってしまいたいほど恥ずかしい姿態を晒(さら)しているのだ。
 自分が知らないうちに撮影されていたこの写真のせいで、友衛は圭吾と別れられなかった。家族にこの写真を見せるぞと脅されれば、言うことをきくしかなかったのである。
 人当たりがよく、年上からは可愛がられ、同年代や年下の人間からは憧憬(どうけい)の眼差しで見られることが多い圭吾の、傲慢で卑怯な本性を知っているのは、自分だけだ。
 誰に言っても信用してもらえない。反対に、圭吾の悪口を言うなと、たしなめられてしまうのが関の山であろう。
「写真は全部始末したって、言ったじゃないか! 騙したのか!」
 友衛は不満を溜め込んだ犬のように吠えた。



「騙したのはお互いさまだろう? もう俺から逃げないから、写真を捨ててくれって言ったのはお前だった。俺が写真とネガを焼くのを見届けてから、お前は逃げた」
 反論できずに、友衛は奥歯を噛み締めた。
「この写真の使い道は、お前次第だ。言っとくが、写真はこれ一枚じゃない。覚悟を決めろよ」
 圭吾は写真に写る高校生の友衛に軽くキスをして、ポケットに戻した。彼にその気がなくても、ふとした拍子に落ちてしまうかもしれないところへ、わざと無造作にしまってみせるのは、友衛にプレッシャーを与えるためだ。
「…卑怯者!」
 嫌悪で尖った声を浴びせても、圭吾はそれを受け流すように、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべたままだった。
 気づけば、二人は倉木邸に着いていたが、友衛は玄関のドアを開ける前に、腹立たしい気持ちを抑え込もうと、深呼吸を繰り返した。圭吾とここで言い争っても、意味はない。自分が怒れば怒るほど、彼はおもしろがって挑発するのだから。
 どうにか強張った表情から硬さが抜けたとき、内側からドアが開いた。