立ち読みコーナー
目次
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 前編
 幕間
 後編
 ミニラフ画集 雨野ふぉぶ
あとがき
 前編

(中略)

 飛び石で休日が入るゴールデンウィークの一日。成島学院高校の一年生全員は学校からほど近い城址(じょうし)公園に写生大会に行くことになっていた。
 勉強の次に、少しだけ聖人が自慢にできるのが絵だった。小中学校では何度か市や県の賞をもらった。とは言っても、聖人が得意なのは対象を正確に模写することだ。みんながどれほどうまいうまいと褒めてくれても、聖人自身はそこに自分の独創性がなにもないことを知っていた。「想像を膨らませて描きましょう」と言われると、とたんに筆が止まってしまう。線は汚く、彩色は乱暴でも、同級生たちが生き生きと躍動感のある絵を仕上げるのを聖人は寂しく見ていた。
 それでも聖人にとって、写生大会は楽しい場だった。「もう小学生じゃねーのによー」「たりーわー、体操服でお絵描きとか、ねーわー」と文句たらたらな同級生たちの列に混ざり、大きな画板と絵の具の道具を持って、体育用のジャージ姿で聖人はなんの不満もなかった。
 ただ、写生大会のその日、同じクラスで親しくなった溝口孝志(みぞぐちたかし)が家族でヨーロッパ旅行に行っているために休みなのが少しだけ残念だった。
 溝口孝志はやはり特待で成島学院に入学した生徒で、試験本番の緊張に弱く、本来の実力を発揮できずにこの高校に入学したのも、小柄で気弱で自己主張が苦手なところも聖人と似ていた。眼鏡をかけているところまで同じで、聖人の太い黒縁に対して、孝志は真ん丸なトンボ眼鏡をかけている。クラスでは副委員長を押しつけられていて、委員長になった聖人とは自然に仲良くなった。
 孝志がいないのは寂しかったが、もともと「ぼっち」は慣れている。聖人はひとり、みんなから少し離れたところに場所を取り、絵の具を広げた。
 城址公園には針葉樹から広葉樹までいろいろな樹木が植わっている。庭園の跡だとかで、こんもりした築山とその裾あたりに東屋(あずまや)があり、風情があった。どこを描いても絵になりそうだったが、聖人は崩れかけた石垣の跡と花盛りの皐月(さつき)の取り合わせが美しい一角を選んだ。
 鉛筆で下描きの線を取るときから、聖人は夢中になった。鉛筆と指と片目で縮尺を取り、画用紙の上に見たものを正確に再現していく。時々、プラスチックの黒縁眼鏡がずり下がるのを指で押し上げながら描き進めた。
 どれほど時間がたったか。
「――うまいな、おまえ」
 頭上から声がした。低く張りのある声。
 ぞんざいな口調から、聖人は見回りの教師だと思った。
「ありがとうございます」
 手を止めぬまま答えると、
「なあ。俺の分も描いてくれよ」
 横柄な声がそう言った。
 先生じゃないのか。聖人は斜め後ろを振り返り、思わずひっと息を呑(の)んだ。
 ジャージのポケットにだるそうに手を突っ込んで立っていたのが同じクラスの大矢篤だったからだ。
 大矢篤はいろいろな意味で目立つ生徒だった。
 まず、ガタイがいい。高一ですでに身長は一九〇近くあり、その身長に見合うように肩幅は広く、胸板は厚かった。そして態度も大きかった。入学式の時から大矢は制服を着崩していたが、教師でさえ大矢に一睨(ひとにら)みされるとなにも言えなくなった。
 一学期が始まって一ヵ月足らず、大矢の武勇伝は教室の隅にいる聖人にさえ届いている。
 いわく、空手部で部長に鼻血を吹かせて一撃で倒した、絡んできた二年の先輩を一撃で倒した、盛り場でチンピラ数人を一撃で倒した――とにかく大矢は強いらしく、相手が誰でも複数でも、話の終わりは「一撃で倒した」だ。
 暴走族に入っているという噂(うわさ)もあった。現に校内にもすでに大矢派とでも呼べるようなグループができていて、大矢の周りにはいつも取り巻きの姿があった。
 そんな喧嘩三昧(ざんまい)の、派手で暴力的な噂を撒(ま)き散らしながら、大矢は男らしく、少し甘い感じの整った顔立ちをしていた。秀でた額、かっきりした眉(まゆ)、鼻筋の通った高い鼻梁(びりょう)、少し厚めの唇。眉を寄せ不機嫌な表情になるととても怖い印象だったが、仲間たちの中心で大口開けて笑っている顔は底抜けに明るく、魅力的だった。
 そして大矢はほかの生徒と同じようになかなかにおしゃれでもあった。ヤンキーファッションとでもいうのだろうか、髪は毛先をラフな感じに遊ばせたショートにし、ちらりとのぞく喉元にシルバーのネックレスを光らせ、指にも何連もリングを嵌(は)めていたりする。もちろん、制服下に白いシャツを着てきたことなどない。いつもカラフルなTシャツだ。
 大矢は聖人と真逆な男だった。
 強くて、横着で、仲間が多くて、おしゃれで。
 同じ教室にいても、優等生である聖人と早くも問題児のレッテルを貼られている大矢とではちがいすぎ、まるで接点はなかった。同時に、聖人にとっては大矢は接点を持ちたくない相手でもあった。怖かったからだ。――なのに。
「なあ。俺の分も描いてくれよ」
 なんの冗談なのか、大矢に頼みごとをされている。
 いや、頼みごとというより命令か。横柄な口調は断られることなど想定していないようだった。
「ぼ、ぼ、ぼ……ぼくは下手だから……」
「うまいじゃねーかよ」
 聖人の描きかけの絵に向かって、大矢は顎(あご)をしゃくった。
「そんな丁寧でなくていいからさ。適当にざざっと」
「…………」
 適当にざざっと。そう言われても、下手に描いたらきっと怒られる。だいたい写生大会で他人に絵を頼むなんて、アリだろうか? 聖人が黙り込んでいると大矢は聖人の真横に身軽にしゃがみ込んだ。
「なあ。頼むわ。……たりぃんだよ、写生なんて。ほかのヤツもみんなダルそうじゃん。おまえなら平気だろ?」
 こんな間近で大矢篤を見るのは初めてだ。――男らしく、綺麗(きれい)な顔だった。ギリシャ彫刻のアポロ像を思い起こさせる彫りの深い美貌(びぼう)に、瞬間、聖人は見惚(みと)れてしまった。
「……あ? なんだ、おまえ」
 大矢のようなタイプは視線に敏感だ。一瞬とは言え、正面からその顔に見入ってしまった聖人に、大矢の顔が険しくなる。
「なんか文句あんのか。人の顔、ガン見しやがって」
 怒気をはらんだ大矢の言葉に、聖人はあわてた。
「あ、あ、あ、……ごめん! お、大矢君、ハンサムだから……つい!」
「あ?」
 大矢の眉間(みけん)の皺(しわ)は深いままだ。
「き、綺麗な顔だなって思って……つ、つい見惚れちゃって……!」
 聖人は自分に悪意がなかったことを懸命に弁解した。が、
「男に綺麗とかねーだろ。おまえ、俺のことバカにしてんのか! え!」
 ますます大矢を怒らせてしまったようだった。
「ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」
 殴られる! 聖人は首をすくめ、顔をそらした。
「謝るってことは悪いと思ってんのか」
 首をすくめたまま、聖人は懸命にこくこくとうなずく。
「……よし」
 なんだかわからないが、大矢の声が少し柔らかくなった。
「じゃあ俺の分も描くよな。お詫(わ)びの印だな」
 ……え。思わず目を開けると、口元をゆるめた大矢の顔があった。――にやりと笑って……いるように見える。
 ……嵌められた? 本当はそんなに怒っていなかった?
「画用紙持ってくるわ。待ってろ」
 聖人はぽかんと口を開いて、画用紙を取りに行く大矢の背中を見送った。
 脅して、わざと相手が謝らなければならないように仕向け、要求を通す。そんな無茶な方法で自分のわがままを通してしまう人間は今まで聖人の周りにいなかった。よく知らないが、こういうのを「ヤクザまがい」とか「まるでヤクザのような」というのではないだろうか。
 ――これ以上、接触を持ちたくない。聖人は絵の具をしまおうと腰を浮かせかけた。けれど、ここで場所を変えて逃げたら……大矢は今度こそ本気で怒ってしまうかもしれない。聖人は手を止める。さっさと絵だけ描いてやったほうが無難なのか……?
 迷っているうちに、大矢が写生道具を持って帰ってきた。
「さっさと描けよ」
 手の止まっている聖人に傲慢(ごうまん)に命じ、その隣に座り込む。そのまま聖人の隣で絵の具を出し始める大矢に、聖人はあわてた。
「が、画用紙だけ預かったら……描いておくから」
 一緒が嫌だなどとは言えない。だが、
「教師見つかったら、ヤバイじゃん。自分で描いたふりしとかねーと」
 大矢は動くつもりがないらしい。
「おら。ちゃっちゃっと自分の分、描き上げろ」
「う、うん」
 俺の分の絵も描けと無茶を言いながら、大矢はとりあえず聖人の絵が完成するまで待つ気らしい。意外だった。聖人の絵を取り上げるとか、もっと無茶をしそうに思っていた。
「おら。時間ねーぞ」
 うながされ、聖人は絵筆の動きをスピードアップさせた。――とりあえず、さっさと自分の分は仕上げてしまおう。隣にいる大矢が気になったが、聖人は神経を画面に集中させた。


 そろそろ完成かなと筆を止めると、すかさず大矢が、
「すっげ、うまいじゃん。じゃあ交代な、交代」
 と自分の画用紙を差し出してきた。
「あ、う、うん」
 まだ白いままの画用紙を持ってどうしようと思っていると、大矢の手が聖人の画板に伸びた。
「おまえの絵、こっち貸せ」
「え!」
「教師見回ってきたら、うぜーじゃん。自分の分ねーと。おまえに描かせてんのもろバレだし」
 そう言われてしまうと断れない。聖人は嫌々自分の絵を差し出した。かわりに受け取った大矢の絵には乱暴に鉛筆の線が踊っている。
(ここが石垣。ここが皐月……)
 書き殴ってあるだけのような線でも、丁寧に目でなぞると、大矢が聖人の絵を真似ようとしたものだと見て取れる。荒い線だが、形は取れている。聖人は大矢の線をそのまま使うことにした。と、大矢はと見ると……。
「ああっ!」
 思わず大声が出た。
「なんだよ、びっくりするだろ」
 絵筆を持った大矢が振り返る。大矢は聖人の絵に筆を加えようとしていたのだった。
「だ、だって……それ……」
「あ? ああ、大丈夫だって。描いてるマネだけマネだけ。おまえの絵をぐちゃぐちゃにしたりしねーって」
(でも)
 反論は声にならない。乱暴で喧嘩に強い大矢。彼の機嫌を損ねたら、なにをされるかわからなかった。
「いいからさっさと俺の絵、描けよ。時間なくなるぞ」
 俺の絵。描け。この二つの言葉の矛盾に、大矢は気づかないのだろうか。そんなツッコミも聖人には口にできない。
 だが、大矢は聖人の絵を台無しにしたりしなかった。
 それどころか。
「……大矢君……絵心あるね……」
 大矢が手を入れた聖人の絵はただ風景を正確に模写しただけの絵から、陰影に富み、春のあたたかさまで感じられるような、趣のあるものに変わっていた。
「そうか? ちょっと影つけてやっただけだぜ?」
 鼻の脇(わき)をかきながら大矢が答える。
「……すごいよ……センスある」
 眼鏡をずり上げながら、聖人が食い入るように大矢の筆の効果を見ていると、
「そりゃあな」
 大矢は心なしか胸を張った。
「旗も俺のデザインだからな」
「旗?」
「おう。族の旗」
「族?」
「暴走族」
「暴走……」
 ぽかんと口を開けて大矢の顔を見つめてしまった聖人に大矢はにやりと笑った。
「一五〇人もいるんだぜ」
「ひゃくごじゅう……」
「金曜の晩に走ることに決まってんだ。『ブラックジュピター』ってんだ。カッコいいだろ」
 ここで初めて聖人はあわてた。
「ぼ、暴走族って……そんな……は、話しちゃっていいの?」
「はあ? どうせみんな知ってるだろ」
 聖人はごくりと唾(つば)を飲んだ。
「……大矢君が旗をデザインしたってことは……その……かなり、グループの中で……エライ人なの?」
 怖いのと好奇心を比べて、好奇心がわずかに勝った。
「まあな」
 自慢げに大矢は笑う。

(中略)

 それから半日、聖人は大矢とふたりで海辺で遊んで過ごした。午前中は当初の目的通り聖人はスケッチして過ごし、大矢は濡れるのもかまわず海の中に入ってざぶざぶと歩き回っていた。
「うおーずぶ濡れえ」
 笑いながら上がってきた大矢は言葉通り黒のデニムがたっぷりと水を吸い、重たげになっている。
 下はいいけど上はウザイ、と大矢はデニムのジャケットを脱いでしまった。その下は赤いタンクトップ一枚で、引き締まりながら盛り上がっている肩や二の腕が剥(む)き出しになり、聖人はなぜだかどぎまぎと目をそらした。そんな聖人の態度がおもしろかったのか、大矢はわざと、
「モデルになってやるぜ」
 とボディビルダーのポーズを真似て見せるので、ついに聖人は噴き出してしまった。
 昼は仲良く海に向かって並んで座り、聖人が持ってきた弁当を食べた。
「おまえのかあちゃん、料理上手だよなあ」
 大矢が本気で感心したように言ってくれるので、聖人はうれしくなった。
 午後はスケッチを切り上げ、ふたりで岩場を探索した。その時もまだ大矢はジャケットを脱いだままで、五月も末とは言いながら海風が寒くないかと聖人が心配すると、「鍛え方がちがうぜ」と大矢は胸を張った。
 岩場には潮が満ちたときにできたらしい汐溜(しおだ)まりがあちこちにあり、海草、フジツボ、亀の手などがびっしりとへばりついていた。中にはナメクジの親分のような軟体動物系の気持ち悪い姿のものもあって聖人は何度か声を上げそうになった。
 沖に向かって突き出した岩場の端まで行くと、四方とまでは行かないがぐるりを海に囲まれてしまっているような錯覚があった。遠くを行く船が見える。広々と濃い蒼(あお)が広がるのを見ていると、まるで自分も波に揺られているような気がしてくる。このまま沖に向かって引き寄せられてしまうような、不思議な感覚。
「――なんか、このまま遠くまで行けそうだよなあ」
 大矢が呟く。
「……ぼくも。同じこと考えてた」
 聖人の半歩前に立っていた大矢が振り向いた。
「そうだ」
 振り向いてから思いついたように言う。
「おまえの眼鏡、貸せよ。遠くまで見えそう」
「度はきついけど……双眼鏡のかわりにはならないよ」
 そう言いながら眼鏡をはずして大矢に手渡すと、大矢は目の前にかざして「おおー見える見える」と声を上げた。眼鏡の見え具合を楽しんでいるようだったが、大矢はすぐにまた聖人を振り向いた。
「……なあ、なんでおまえ、コンタクトとかにしねーの?」
 それは単純に目に物を入れるのが怖いからと聖人が答える前に、大矢が続けた。
「眼鏡ないほうが……おまえ、可愛(かわい)いっていうか……うん、絶対いいぜ」
「でも……なんか子供っぽく見えない? 親にも言われるんだ。眼鏡してないと中学生にまちがえられるわよって」
「そんなことねーと思うけどな……」
 大矢にしては歯切れ悪く言い、また海に視線を投げる。なぜだか眼鏡は返してくれない。
「あの、眼鏡……」
「なあ」
 聖人が言いかけたのをさえぎって大矢がまた振り向く。
「なんか今日のこれってさ。超健全なデートって感じじゃね? なあ、ちょっと『眼鏡返して、大矢くぅん』とかやってみろよ」
 いきなりなにを言い出すんだ。その思いが、
「へ、変だよ、そんなの」
 というセリフになった。大矢はすぐに「そうだよな」とうなずいた。
「デートもくそもねーよな。男同士だもんな。俺たち、ダチだもんな。男同士だもんな」
 まるで自分に言い聞かせるように繰り返す。聖人は横でこくこくとうなずいてみせる。
「デートとか、ないよ。ね、眼鏡そろそろ返して」
 ところが、大矢は眼鏡を持った右手をすいっと高く上げた。
「取ってみ」
「え……」
 聖人の身長は一六〇を少し超えた程度だ。一八〇を楽に越えている大矢に長い腕を上げられて届くわけがない。
「腕、下げてくれないと……」
「おまえ、男だろ。男だったらトライしろよ」
 そんな。しかし「男なら」という言葉はすべての男性にとって一種の呪縛(じゅばく)効果を持っている。その言葉を冠に使われたら男は否(いな)とは言えないように生まれた時から呪(のろ)いがかけられているのだ。
 聖人は大矢の右側に回り込んだ。……と。
 大矢が右腕を高く上げているために日にさらされた、脇のくぼみとそのくぼみに密生している黒い茂みが目に飛び込んできた。
 心臓がひとつ、トクリと鳴った。見てはいけないものを見てしまったような気がするのに、目が離せない。自身が若い雄であることを誇示するように、大矢は自身の体毛をさらして堂々としている。その強烈な存在感に引き込まれそうになる。大海原を見ていて、沖へと引き寄せられていくように感じるのと、とてもよく似た感覚だった。くらりとする。
 聖人の貧弱な体格や脇や局部に生えたひょろひょろした体毛とはまるでちがう、大矢の逞(たくま)しい躯。自分とはなにからなにまで正反対の……。
「どうした、返してほしくないのか」
 大矢の挑発的な声。聖人ははっとして眼鏡に視線を向けた。
「か、返してよ!」
 瞬間、大矢の躯に見入ってしまったことをごまかすように、聖人は大声を出した。大矢の手の先の眼鏡に向かってぴょんと飛ぶ。
「返してって」
 ついさっき、大矢自身にリクエストされたとおりの行為をしているとは気づかぬままに、聖人はジャンプを繰り返した。間の悪さをごまかしたくて、足場の悪い岩場で夢中で飛ぶ。当然のように聖人はバランスを崩した。
「あ!」
 何度目かの着地の瞬間にぐらりと身体が揺れた。が、ひやりとするより早く、力強い腕に上体を抱え込まれていた。
「あ、ありが……」
 礼を言いかけて、大矢の胸に抱き込まれているような姿勢に初めて気づいた。大矢の顔が至近距離にある。真剣な、ふざけたところなど微塵(みじん)もない表情の。