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 純情ヤクザは悪辣弁護士の腕の中
 ミニラフ画集
  あとがき
 純情ヤクザは悪辣弁護士の腕の中


 シャワーの熱い飛沫(しぶき)のなかで、太く長いものが体内からずるりと引き抜かれる。男が裕(ゆたか)の内部で放った白濁がどろりと太股(ふともも)を伝う。
「あ……」
 支えを失って崩れ落ちそうになるのに、男の力強い腕がそれを許さない。壁についていた手を取られ、背後にいた男のほうへと躯(からだ)の向きを変えさせられた。
 裕は正面から男を見上げる。
 知らない男がそこにいた。
 いつもの、知的なエリート然とした紳士ではない。降り注ぐシャワーの湯に男の前髪は額に乱れ落ち、飛沫に細められた黒い瞳(ひとみ)はまだ足りないとでも言いたげに、裕を見つめる。その荒々しい瞳の光は裕の知っている物静かな男のものではなかった。
 広い肩幅、厚い胸板……スーツの下に隠されていた男の本性を目の当たりにして、いまさらながら怯(おび)えに似た震えが躯の中心を走る。
 裕がわずかに身を引くと、それが気に入らないのか男の眉間(みけん)が険しくなった。
「もう……」
 放せと言おうと開きかけた口を唇で塞(ふさ)がれる。湯が流れ込むのもかまわずに男は裕の唇を貪(むさぼ)り、舌で裕の口中をかき回す。
 ただでさえ、ぼうっとしていた頭が再び熱を持って、さらになにもわからなくなる。
 裕はきつく抱き締めてくる男の腕のなかで、ただ激しいキスに喘(あえ)いでいた。

   *    *    *    *

 周りから次々と祝福の声が上がる。
「おめでとうございます!」
「若頭、おめでとうございます!」
「末永くお幸せに!」
 それらの声にゆったりと右手を上げて応(こた)え、渋い男前の顔に少しだけ照れの滲(にじ)んだ笑みを浮かべて田原祥司(たはらしょうじ)は事務所を横切る。
「若頭、おめでとうございます……」
 裕も兄弟分たちにならい、田原が前を通るタイミングに合わせて直角に腰を折った。胸がずきずきと痛む。
「ああ、ありがとな」
 重低音の少しかすれた声が落ちる。それは特別、裕一人に向けられたものではない。裕はこの事務所のなかにいる多くの若衆と同じく、なんの役もないチンピラの一人でしかない。
 悲しさと虚(むな)しさがないまぜになった気持ちを切なさと呼ぶのだろうか。田原にはこの胸の痛みどころか、自分の存在さえ見えていないのではないか――そんな情けない思いが込み上げて、顔を上げた裕は、切なく田原の背を見つめた。
 と、コツ、と靴音がして大きな影が裕の前で足を止めた。はっと気づいて視線を返すと、田原と一緒に出社してきたらしい顧問弁護士に見下ろされていた。高木(たかぎ)というその顧問弁護士は裕より頭ひとつ分高い背から、じっと裕を見つめている。
「あ、お、おはようございます! 先生!」
 裕は慌てて深く腰を折る。
「…………」
 ほんの数秒だったが、沈黙があった。なんか俺、やばかっただろうか? 裕が内心ひやりとしたところで、ようやく高木は軽い会釈を裕に返し、再び歩き出した。なにも言われなかったが、自分の感情に引きずられてだらしない顔をしていたところを見咎(みとが)められたような気がした。
 裕は自分の頬(ほお)を軽く両手で打つと、気合を入れ直した。――この事務所にいるあいだは気の抜けたところは見せられない。……田原のためにも。


 桜庭(さくらば)裕は松橋(まつはし)組系昇竜(しょうりゅう)会の組員だ。十八で昇竜会組長の杯をもらい、二十三の今日まで地道に兄貴たちのパシリを務め、チンピラ業に精を出してきた。ハンパ者が集まる極道の世界。そのなかで裕は真面目(まじめ)にヤクザ道を歩んでいる。
 裕が杯を受けた昇竜会は二十三区の外れにある、構成員三十名ほどの中堅どころの暴力団だ。シマ内に特急列車が停車するJRの駅があり、その駅前のにぎわいを大事な基盤にしながら、若頭・田原祥司が立ち上げた「ミネルバ商事」というフロント企業も年々規模を大きくしてきている。ミネルバ商事では組長が社長を、田原が専務を、若頭補佐が営業部長を務め、裕たちヒラ組員は社でもヒラ社員だった。
 昇竜会の組長はもう七十に手が届こうという老人だったが、「素人(しろうと)さんに迷惑をかけない」「クスリは売るのもやるのもご法度」「組員は家族」の三点を徹底した組織を作り、その組長の理念を忠実に守る田原が今では高齢の組長に代わって組を取り仕切っている。
 組長は早く田原にすべてを譲って楽隠居を決め込みたい様子だったが、
「オヤジあっての昇竜会です。俺はまだまだその器じゃありません」
 と、田原は頑として跡目相続に応じないでいる。
 その田原が結婚するという。今朝、事務所に「出勤」して、裕はその吉報を知らされた。祝福ムードに浮かれた事務所のなかで裕は仲間たちに合わせて笑顔で過ごしたが、本当はトイレに駆け込んで泣きたかった。
『兄貴……』
 田原祥司は高校を中退してハンパをしていた裕がこの世界に入るきっかけを作ってくれた男だった。この兄貴のもとで男になりたいと裕は昇竜会構成員となったのだ。
 出会いは裕が十七の時。それから六年、裕の憧れはいつしか恋心にまで育っていたが、田原にアプローチしたことは一度もない。周りからは「いい顔してる」とか「綺麗(きれい)な顔だ」とよく言われる裕だったが、もともと色事は苦手で遊び半分のナンパでさえ緊張してしまいがちだった。敬愛する兄貴である田原に恋心をほのめかす自分など、想像するだけで汗が出た。
 それに――田原は普通に異性が好きな男だった。結婚相手である女性と出会うまでは来る者拒まず去る者追わずの自然体で、つきあう女性が途切れたことがない。
 ただ、それをいえば裕自身も自分がゲイなのかどうか、わからなかった。顔を見てドキドキする同性は田原が最初で、今のところただ一人の相手だったからだ。
 見ているだけの六年間。チンピラ上がりのヒラ組員と組長につぐナンバー2の地位である若頭、二人の関係は単純にそれだけで、ほかにはなんの接点もない。裕にとっては人生の一大転機となった田原との出会い――それさえ田原が覚えてくれているのか、あやしかった。
 こんな関係では失恋だと嘆く権利もないのかもしれない。
 それでもその夜、裕は行きつけの飲み屋で自棄酒(やけざけ)をあおらずにはいられなかった。アパートから近い「稲穂(いなほ)」は、いつも仏頂面のハゲた大将とでっぷり太ったおかみさんが切り盛りする古い小さな居酒屋だったが、安くて美味(おい)しいという素晴らしい利点があった。
 裕はアパートの家賃を自分で払っていない。安井(やすい)という兄貴分の男が借りているアパートで世話になる代わりに家事一切をやり、仕事でも顎(あご)で使われている。今日は安井が女を連れ込んでいて帰ってくるなと言われているから、裕は店で好きなだけ自棄酒をくらい、最後は公園のベンチででも夜を明かすつもりでいた。季節は五月。凍える心配はなかった。
 最初から潰(つぶ)れるつもりの酒はペースが速い。
「おばちゃん、おかーり」
 おかわり、の呂律(ろれつ)さえあやしいが、かまわずに日本酒の入っていたガラスのコップをカウンターに音立てて置く。
「もう今日は呑(の)みすぎじゃない?」
 おかみさんがさすがに心配そうに言ってくれるのを手を振って打ち消す。
「だーじょーぶ。だって……やってらんないじゃん……呑まねーとさ……」
 酔いの回った裕の口から愚痴がこぼれる。
「結婚しちゃうんだってさ……結婚」
「あらまあ、おめでたい話ねえ」
「めでたくねえよ!」
 ぐらりと揺れる視界のなかでおかみさんの丸い顔を捉えて、裕は噛(か)みついた。
「なぁんで結婚しちゃうかなあ……なんかさあ……結婚って、つれぇよ……もうさあ、ずえったい手が届かないってカンジすんじゃん……はい終わり! あんたは絶対ダメ! みたいなさあ……ねえ……」
「あらま、片思い? それはつらいわねえ」
 酔客のあしらいに慣れたおかみさんの相槌(あいづち)に、裕はカウンターに突っ伏した。
「そう……つれーの……」
「……つらいというのは」
 後ろからほかの客に話しかけられた。低く落ち着いた男の声だった。
「好きな人が結婚してしまうせいか?」
「ん、そう!」
 カウンターに額をつけたまま、うなずく。
「そうか」
 やたらと響きのいい声が今度はすぐ隣から聞こえた。男は裕の隣に座ったらしい。
「おまえは振られたわけか」
「振られたっつーんじゃねーよ……」
 まさかその一言が窮地を呼ぶとも知らず、裕は男の言葉を否定した。
「振られたっつーのはさ……」
 ちゃんとつきあったあとの話だろ、と続けようとした言葉は、
「じゃあ、まだつきあいが続いているのか?」
 険を含んだ男の声にさえぎられた。
『いや、ちがうって』
 きちんと説明しようと顔を上げた裕は、思わず「あ?」と目を見張った。
「あ、あんた……」
 酔いが少し醒(さ)めた。隣にいたのは見知った男だったのだ。自分がクダを巻いていた相手が誰(だれ)だったのかを知り、裕は慌てた。
「あ……す、すんません、先生……失礼を」
「いや、いい」
 男は気障(きざ)な仕草で片手を上げると裕を制する。
 声をかけてきたのは、今朝(けさ)も事務所で挨拶(あいさつ)した社の顧問弁護士、高木だった。名は確か……少しばかり醒めたとはいえ、まだまだ酩酊(めいてい)感の残る頭で裕は記憶を探る。確か、高木巌(いわお)――。
 高木は昇竜会がフロント企業として経営しているミネルバ商事の顧問弁護士だった。一般企業の体裁はとっているものの実質的にはヤクザの事務所と変わらないミネルバ商事で、高木はなにもかも含んだ上で堂々と顧問弁護士として仕事をしてくれている。聞いた話では都内に立派な個人事務所を持ち、なかなか羽振りよくやっているらしい。
 裕は改めて高木を見た。こんな安い居酒屋にいるのが、どうにも似合わない男を。
 手触りのよさそうな布地で、ラインも美しく仕立てられたスーツ、ぴしりとプレスのきいたシャツ、落ち着いた光沢のある品のいいデザインのネクタイ、居酒屋の油じみた床を踏ませておくのがもったいないような渋い艶(つや)を放つ靴――いつも事務所に現れる時と同じ、一分の隙(すき)もない上質な装い。
 そして上質なのは着ているものばかりではなかった。正確な年齢は知らないが、田原よりは少し若い、おそらく三十代前半だろう。落ち着いた物腰と、穏やかな眼差(まなざ)しを持ちながら、いったん戦闘態勢に入ったら情け容赦なく敵を薙(な)ぎ倒しそうな、底力を感じさせる男。背が高く、肩幅があり、胸板が厚く、大人の男として申し分ない体格を持ち、さらに容貌(ようぼう)も彫りの深い西洋的な顔立ちで人目を惹(ひ)く。漆黒の瞳と髪も男の生まれと育ちのよさを示すように艶やかだ。
「ええっとぉ……」
 裕のようなヒラ社員が顧問弁護士である高木と親しく口をきく機会などない。高木は月に何回かは裕が毎日「出勤」している事務所に現れるが、会社では専務の肩書きの田原も社長である組長も「先生、先生」と下にも置かぬ扱いだ。
 裕はきょろきょろと周囲を見回した。
「先生、どうしてこんなとこに……」
「こんなとことはご挨拶ねえ」
 すかさずおかみさんからツッコミが入る。「あ、すんません」と裕が頭を下げると、高木がおもむろに口を開いた。
「おまえに会いに来たんだ」
「お、俺に?」
 つい自分の顔を自分で指差してしまう。
「今朝はずいぶんと寂しげな顔をしていただろう? これはチャンスだと思ったんだが……振られたわけじゃないなら、方針を変えないとな」
「…………あ?」
 わけがわからない。高木の発言のどこを問いただせばいいのか。
「あの、先生、チャンスって……?」
「おかわりは? おごろう」
 裕の疑問は無視して、高木は裕の空いたコップを指差す。
「あー……どうも」
 今夜はもうずいぶん呑んでいる。大丈夫かなとちらりと思ったが、目上の者の酒を拒否できるヤクザはいない。
 裕は高木が勧めるままに、杯を重ねた。