立ち読みコーナー
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運命のベータはアルファの溺愛に咲く   7
あとがき                260
「な、なにするんですか!」
「キスするだけだ。傷が早く治る」
「キスするだけって、あ、足に……っ、ツ……っ」
 ちゅっ、と本当に唇が触れてくる。血を吸われる感触にぴりぴりした痛みが走ったが、舌で撫でられると少しずつその痛みがやわらいだ。
 アレクシスはほかの部分にも順に口づけていく。指の先や付け根の部分の水ぶくれも、優しくキスされると不快な熱や痛みが引いた。
 本当なんだ、と明希は思った。子供園で、アルファは誰でも癒しの力を持っていて、口づけることで多少の傷や病気は治してしまえると教わって、すごいなあ、と感心したものだけれど。
(……こんなところも、違うんだ)
 同じ天使だ、といくら思ってみたところで、実際に違うことはたくさんある。
 それはきっと、努力してもどうにもならないことだ。
 ぽろっと涙が零れて、明希は頬をごしごしと拭った。自分のしていることはどうせ無駄だ、と思うのは虚しい。泣くまいと思っても涙はどんどん零れ、震えた吐息を漏らしてしまうと、アレクシスが顔を上げた。濡れた明希の頬を見て、ぎょっとしたような表情になる。
「なんで泣いてるんだ。痛かったか?」
「……違うんです」
 明希は拭うのを諦めて、目元を手で覆った。
「ただ、僕がベータじゃなければよかったと思って。今までは、ベータだって大切な存在で、天界のためにいなくてはならないんだって、思ってたんです。でもあなたに連れてこられて、僕は本当に─アルファの方にとっては目に入らないくらい、どうでもいい存在でしかないんだなって、実感しました」
「それは……だが、おまえは俺のつがいじゃないか。自信を持てばいい」
「持てません。あなただって、僕じゃなければよかったんでしょう」
「─」
 困ったようにアレクシスが黙り込み、明希は自分を鎮めるために深く息を吸った。
「運命なら、受け入れなければならないのはわかっています。だからちゃんと─言われたことはします。行儀作法もだいぶ覚えてきたし、ダンスも……たぶん、ちょっとはましになっているはずです。だから」
 だから、の先をどう続けたいのか、自分でもわからなかった。明希は力の抜けたアレクシスの手から足をどけ、身体に引きつけるように膝を立てた。
「あとは自分で手当てしますから。明日からはちゃんとしますので、今はひとりにしてもらえませんか?」
「─そういうわけにはいかない」
 アレクシスは唸るように言って、明希はまた泣きたくなった。ひとりにもしてもらえないのか。普段はいやいや一緒にいるくせに。
「こんなにひどい怪我を放っておけば、明日はレッスンどころじゃないだろう」
 ふたたび足を持ち上げられ、明希は首を左右に振った。アレクシスはかまわず唇をつけてきて、やんわり皮膚を吸ったあと、ため息まじりの声を出した。
「悪かった」
 びくっ、と肩が揺れてしまった。アレクシスは明希の顔を一瞥し、皮の剥けた小指のつけねに口づける。
「コルツベルク家が特殊だと頭ではわかってるんだ。俺にとっての世界は、アルファだけでできていたといってもいい。うちでは執事長もアルファで、ベータも屋敷では働いていたが……個人的に話したことは一度もなかった。命令はするが、それに対しての返事くらいしか、彼らからは返ってこない。だから空気みたいなものだった。オメガも、アルファの義務として屋敷で数人預かっているのは知っていたが、別館に住んでいるからな。この学園に入るまでは見たことがなくて─正直、ベータやオメガに名前があると思ったこともない」
「……」
 いっそ清々しいほどの内容だった。黙り込むとアレクシスはわずかに苦笑めいた表情を見せた。
「だからさっき、おまえに御者のことを言われて、びっくりした。御者が存在していることも頭になかったから」
 いてもいなくても同じだ、と明言されているのに、今回はがっかりしなかった。彼と自分は生まれも育ちも違う存在で、明希がアレクシスを見て驚くのと同じように、アレクシスもベータに対してびっくりしていても、それは当然で、仕方ないことなのだろう。
 アレクシスは傷のなくなった右足を丁寧に下ろした。
「俺のつがいがおまえなのは、ある意味、神様からの警告かもしれないな。俺の傲慢さを意識させるための─アルファならベータなど気にもとめないのが当たり前で、多少有能なベータでも自分たちより劣ると考えていたが、それも、当たり前ではないのかもしれない」
 どうだろう、と明希は思う。マンフレートをはじめとする学園の生徒たちを見るかぎり、アレクシスと大差ない認識のようだから、アレクシスの言うとおり神様の警告なら、彼らのつがいはみんなベータになりそうなものだ。
 アレクシスは今度は左足を持ち上げた。
「おまえが努力してくれているのはよくわかった。このマメの数じゃ、何日か前から痛かったんだろう?普通は、こんなに血まみれになる前に音を上げるぞ」
「─」
「次どこか痛めたらすぐに言え。治してやるから」
 明希は咄嗟に答えられなかった。ただでさえ厄介者扱いなのに、怪我したくらいで頼ったら余計に疎まれはしないだろうか。
 黙っているとアレクシスはふっと身を乗り出した。整った顔が間近に近づき、どきりとするのとほぼ同時に、目元にぎこちなく唇が押し当てられる。涙を吸われて、明希は何度もまばたきした。
 なぐさめてくれているような仕草だけれど、本当にそうか自信がなかった。だって、あんなにはっきり嫌われていたのだから。
 ぽかんと見つめる明希にアレクシスは困ったように眉を寄せ、唇にもキスしてくれた。
「そんな不思議そうな顔をするな。おまえは俺のつがいなんだから、遠慮はいらない」