立ち読みコーナー
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花火と絆と未来地図 ~いばきょ&まんちー4~ 7

あとがき                   206
77ページ~
お考えになったことがないんですか?一度も?」
楢崎は、居心地悪そうに身じろぎする。
「一度もということはないが、真剣に考えたことはない。仕事は好きだが、淡々とやり続けることに特に不満はなくてな。知識や技術のアップデートは欠かしたくないが、地位向上には一切興味がないんだ」
茨木は「おやまあ」と、とぼけた相づちを打った。そんな茨木の飄々とした態度に、楢崎は忌々しそうにつっけんどんな物言いをした。
「甲斐性がないとでも言いたげだな」
「いえいえ。今のままでも、患者さんには頼りにされておいでですし、十分に稼いでいらっしゃるでしょう。そうではなく、先生は意外と今どきなのだなと思っていました」
「今どき?」
「多いらしいですよ、出世したくないと言って上司を困らせる若者たちが」
「……ほう?」
「仕事は好きだけれど、出世して、給料はさほど上がらないのに責任だけが重くなり、余計な仕事が増えるのは嫌なんだそうです」
「まさにそれだ」
「ね、今どきでしょう?」
「別に、流行りに乗ったわけじゃない。むしろ先取りしていたということだな」
こんなことにまで負けず嫌いの楢崎に、茨木は危ういところで噴き出しそうになるのをこらえた。平静を装って、「そうですね」と肯定しておく。
「僕は会社に留まれるなら、もう少しだけ出世したいですね。今のプロジェクトリーダーがいちばん激務のポジションですから、その一段上に……現場に指示を出す役職に就けたら、もっとゆとりのある人生を送れるのではないかと。ただ、京橋先生には、それは退屈すぎるだろうと言われましたが」
「退屈?」
「研究職は、なんだかんだ言って現場が好きですからね。確かにそうかもしれません。ただ、いくら好きな仕事といっても、忙殺される状況がしばらく続いているので、少し疲弊し始めている気もするんです」
楢崎は少し驚いて、茨木の、確かにややくたびれた笑顔を見た。
「トルコであんな酷い目に遭ったというのに、考慮してもらえないのか?」
「しばらくは。ですが、社内でも、プロジェクトをまとめられる人間は、そう多くないんです。いつまでも遊ばせておいてはくれませんよ」
「……いずこもせちがらいな」
「まったくです」
同意して小さく笑ったあと、茨木はこうつけ加えた。
「先生のところは、間坂君はあの定食屋さんを継ぐんでしょう?」
「ああ、今から色々とそのときのことを考えているようだ」
「間坂君は、豪胆と見えて細心ですからね。うちも、京橋先生のほうは、いずれ開業するか、市中病院へ移ることを考えるとおっしゃっていました」
「チロが?そうか、あいつは耳鼻咽喉科だし、専門はアレルギーだから、開業しやすいといえばしやすいな」
茨木は頷く。
「そうなんですよ。出世して部下を育てたり、人脈を広げたり、医局のやりくりを考えたり……いわゆる政治をするようなタイプではないとおっしゃって」
「確かにそうだな。市中病院なら、耳鼻科、特にアレルギーに強い医者は歓迎されるだろう。花粉症の患者は、増えこそすれ減りはしないからな」
茨木は興味深そうに、楢崎の話に耳を傾ける。
「なるほど」
「とはいえ、待遇はよく吟味する必要はあるぞ。給与と労働条件が上手く折り合う病院を探すのは、思うより難しいと聞く。開業も、このあたりでは、競合する医院がけっこうありそうだ」
「……確かに。色々と難しいものですね。僕たちはみんな、人生の舵を一度切り直す年齢に差しかかっているのかもしれません」
「そうだな」
珍しく茨木の意見に素直に賛成し、楢崎は小さな溜め息をついた。
「厄介なものだ。ほどよく働き、ほどよく遊び、深すぎない人間関係をキープして自由に生きたいと思っていたのに、気づけばまったく違う人生を生きている」
「でも、その『まったく違う人生』が、嫌ではないのでしょう?」
「嫌でないから厄介なんだ」
茨木の言う「人生」が万次郎と出会ったことを指していると承知の上で、楢崎はムスッとした顔でのろけも同然の発言をする。
茨木はそんな楢崎に、今度は容赦なくいい笑顔を向け、こう言った。
「せっかくご縁があって出会った大切な人と、よりよき人生を共に送るための舵取りです。どうにか上手く、波を読みたいものですね」
「…………」
さすがに、それに「そうだな」と同意すると、堂々と万次郎をパートナーと認めることになってしまうと警戒したのか、楢崎は何も言わなかった。
だが、代わりに彼は独り言のようにこう呟いた。
「まんじの奴が、一国一城の主になると腹を括っているんだ。俺も、男として中途半端な姿は見せたくないな……」