立ち読みコーナー
目次
258ページ
恋心はくちびるで   7
あとがき       256
193ページ~
うわー。やっぱり。また桜庭さん、落ち込んじゃったりしてるのかな?参ったなと焦りつつ、今回は違うのだと説明しようとする俺に、梓さんは手にしていた紙袋を差し出した。見覚えのあるそれに何が入っているのか、すぐにわかる。
「え…あのケーキですか?」
「そうよ。コズが買ってこいっていうから、よ~うやく仕事が終わって疲れ果てた身体でわ~ざわざ表参道にまで行って買ってきたのよ。そしたら、今度はあんたのとこへ持っていけですって。相手がコズじゃなかったら殴ってるわ」
「はあ…」
はい…と渡され、ありがとうございますと礼を言ってケーキの箱を受け取る。これって…やっぱり、お詫びのつもりなのかなと思う俺に、梓さんが静かな口調で尋ねた。
「コズがあんたに謝って欲しいって。…何かあったの?」
「……」
何か…あったけど、前みたいに桜庭さんが一方的に悪いっていう思いはなかった。緩く首を横に振り、なんでもないのだと答える。だが、それは梓さんにとって十分な回答ではなかったようだ。
「何にもないのにケーキ持って謝ってこいっていうのもおかしいでしょう?」
「いや…何もなかったわけじゃないんですが…」
「じゃ、何よ?」
「……桜庭さんだけが悪いんじゃないっていうか……」
それ以上、具体的な話はできず、沈黙せざるを得ない俺を、梓さんは興味深げな目で見る。
「どういう意味?ものすごく意味深に聞こえるんだけど。あたしには」
「ち…違います。梓さんが考えてるようなことは……」
ない…とは言い切れないのか。キスしただけって言っても、偶然唇が触れ合っただけみたいな、他愛のないものじゃなかった。お互いが欲望を抱かなければありえなかったような…激しいキスを思い出すと、思わず頬が熱くなる。
そんな俺の反応を敏感に察した梓さんが「ちょっと!?」と高い声で言った時だ。
「また詠太を苛めにきたのか!? 悪霊退散!さっさと消え失せろ!」
「悪霊はあんたの方でしょ。うざいわね、相変わらず」
「俺よりお前の方が百万倍うざいぞ!」
「その小学生男子じみた言い返しがうざいって言ってんのよ!」
梓さんが来ているのに気づいた泰史が出てきて、俺を庇おうとしてくれるのだが、犬猿の仲である二人の罵り合いはエスカレートする一方で、俺との話はそっちのけになってしまった。まあ、それは結果的には俺を救って。
「こいつが出てくると話にならないわ!またね!」
「あ…ありがとうございました。桜庭さんにもよろしくお伝えください」
「伝えとくわよ!」
「二度と来るな!バーカ!」
バーカって…。あかんべえまでしそうな勢いの泰史は、本当に梓さん相手だと、小学生に戻ったみたいになるな。呆れつつも、迷惑をかけたのを詫び、玄関の鍵をかけて一緒に居間へ戻る。
「あいつ、何しに来たんだよ?」
「ケーキを持ってきてくれたんだよ」
ほら…と言って箱を見せ、泰史の好物であるミルクレープだと教えると、険しかった表情が途端に緩んだ。梓さんに邪険な態度を取ったのも少し後悔しているようで、「だったら」と唇を尖らせて言う。
「言ってくれれば…。あいつ、厭な奴だけど気の利くところあるよな」
泰史の現金さに苦笑しつつ、食べるかと聞くと、すぐに頷く。泰史は居間のテレビでゲームをしていたので、用意してそっちへ持っていくと言い、キッチンへ運んだ。
皿とフォークを取り出し、ピンク色の箱を開ける。ふわりと漂った甘い匂いはイブの時にも嗅いだもので、自然と桜庭さんの顔が思い出された。
「……」
桜庭さんは…昨日一日、一昨日の夜のことを一人悶々と後悔し続けていたのだろうか。きっとそうに違いない。イブの時だって、翌朝に見た桜庭さんは一睡もしてない感じにやつれていた。
会社も休みに入ってしまったので、俺に謝るきっかけ作りのために梓さんにケーキを頼み、でも自分で渡す勇気が出なかったのかな。クールな外見や職場での様子からは考えられないほど、本当に桜庭さんは……。