立ち読みコーナー
目次
234ページ
美・MENSパーティ この美メン、潔癖につき  7
あとがき                    227
16ページ~
「!」
 眼前にいたのが、先の猛烈手洗いの男性で息を呑む。彼のほうも、碧羽を視界に捉えて凜々しい眉を片方、わずかに上げた。
 つい数分前に会ったばかりと悟ったに違いない。
 そのときは目につかなかった身分証が胸元で揺れていた。おそらく、手洗いの邪魔にならぬよう胸ポケットにでも突っ込んでいたと思われる。
 案の定、彼がさきほどの対面を念頭に置いた自己紹介を切り出す。
「さっき、お目にかかりましたね」
「ど、どうも失礼しました」
「いえ。では、あらためまして。このたび、きみの担当講師をすることになった桐谷瑛哲と申します」
「は、い。…あの、宇田川碧羽です」
 思わぬ顔合わせになった。鋭い眼差しで射抜かれ、碧羽が頬を強張らせる。
 桐谷がそこはかとなく醸し出す、氷点下のクールな気配に怯んだ。
 直ちに帰りたい衝動に駆られたが、『一見、取っつきにくいけど、根はいいやつだから』との従兄の言葉を胸に思い留まった。
 たしか、年齢も三十二歳と聞いている。服装のせいか、五歳は若く見えた。
 内心、びくびくしながらも、勇気を出す。膝の上の両手を、きつく握った。
 緊張がピークに達すると、碧羽は小刻みに震えてしまう。それを隠したくて、現状も拳をつくったのだ。
 若葉には『ぷるぷる碧羽』とからかわれている。友人らも、『ぷるっているときの碧羽が最も齧歯類(げつしるい)系でキュート』と認めるも、黙っていた。
 可愛いと頼りないは同義語と、本人が気にしていると承知ゆえだ。
 桐谷にわからないよう、深呼吸をそっと何度も繰り返した。
 やがて、通常の音量とはいかないまでも、どうにか小声を絞り出す。
「…どうぞ、よろしくお願いいたします」
 声が震えたのは、従兄のもうひとつの忠告が脳裏をよぎったせいだ。
 樋口いわく、桐谷はかなりの潔癖症らしかった。厳密には『病的な』と言われた。身近にそういう人がいないので、対処の仕方に窮する。それでも、手術前の外科医ばりに肘まで手を洗っていた例の一件は、腑に落ちた。
 彼がまとう冷淡な雰囲気とも合わさり、気が気でない。
 蛇に睨まれた蛙状態で固まる碧羽に、桐谷が答える。
「こちらこそ、よろしくお願いします。勉強についてはもちろん、当校でわからないことがあれば、なんでも訊いてください」
「…ありがとうございます」
 案外、口調がソフトで、冷ややかな態度とのギャップに戸惑った。その反面、心なしか和らいだ目つきに胸を撫で下ろす。
 まさか、自分が彼から『さっきも、きちんと三十秒以上、爪と指の間まで石鹸で洗っていたしな』だの、『清潔感があっていい。感心な子だ』だのと及第点をつけられていたとは知るよしもなかった。
 いささか肩の力を抜いた碧羽へ、桐谷が淡々と訊いてくる。
「宇田川くんは、樋口先生の親戚と伺いましたが?」
「従兄弟になります」
「なるほど。ところで、希望教科の指導法に関してですが」
「はい」
「ドSとS、どちらの教え方にしますか?」
「え!?」
 まるで、ファストフード店でメニューを単品にするか、セットで頼むかを確認するマニュアルのように流暢な口ぶりだった。
 一瞬、そちらに気を取られた碧羽に、彼がつづける。
「わたしの受講者には全員、訊ねている質問です。あいにく、この二択しかありませんので、あしからず」
「……はあ」
「参考までに。残念ながら過去一度も、ドSを選んだ受講者はいません」
「そうですか…」
「いかがです、宇田川くん?」