立ち読みコーナー
目次
258ページ
隠し事ができません     7
あとがき          251
39ページ~
(な、なんか言い訳しとくべきか……? あの夜のこと——……)
 身じろぎもせず背後の気配を窺っていると、それまでガサガサと室内に響いていた紙のこすれ合う音が唐突にやんだ。
「何してんですか、先輩」
 ひっ、と妙な声が喉から漏れた。大袈裟に肩が跳ねたのも隠せない。おっかなびっくり振り返れば、机に寄りかかった秋吉が腕を組んでこちらを見ている。
「な、何って……何が……」
 秋吉に背中を向けたまま目一杯首だけねじって尋ねると、グッと秋吉の眉間が狭まった。滅多に表情が変わらないだけに、些細(ささい)な変化でも秋吉の心情がダイレクトに伝わってくる。どうやら秋吉は、随分と機嫌が悪いようだ。
(キ、キスしたこと怒ってんのか……? いや、でも、あれは未遂だったし……)
 秋吉を見ていられず壁際にうろうろと視線をさまよわせていると、目の端で秋吉がのそりと机から離れるのが見えた。
「いくら先輩がゲイだからって、ひとり暮らしの女の子の家にそう簡単に上がり込むのはどうかと思いますけどね」
 秋吉が近づいてきたことにギョッとして、最初の言葉を聞き逃しかけた。が、頭が理解するより体が反応する方が早い。気がつけばキャスターつきの椅子から音を立てて立ち上がっていた。
「ゲ…っ…ゲイって……!」
「そうでしょう。それともまさか、バイですか」
 他人にそれを指摘されたのは生まれて初めてで、夏目は汗ばんだ手をジーンズの腿の辺りで拭う。それでも手を落ち着けていられず、首筋に強く掌を押しつけた。室内は冷房が効いているというのに、やたらと首から上が熱い。
「お、お前には関係ないだろ、そんなこと。そもそも俺、ゲイじゃねぇし……」
「俺のこと好きなんじゃなかったんですか?」
 淡々とした質問に、心臓が妙な具合に跳ね上がった。ドキリとしたのかギクリとしたのか、自分でも判断がつかない。半端に伸びた髪の下で首筋に触れていた指先が、蜘蛛のようにさわさわと耳の後ろに這い上がる。動揺が指元に伝わってしまったかのように、手を止めておくことができない。
「俺にあんなことしたじゃないですか。それなのに?」
 何も言わない夏目に焦れたのか、秋吉の声が低くなる。不機嫌さをにじませたその響きに驚いて、うっかり体ごと秋吉に向けてしまった。
 秋吉は何にこんなに苛立っているのか。夏目が秋吉にキスを迫ったことだろうか。それとも、そんなことをしたにもかかわらず、別の誰かに手を出したからか。
(まさか……ないだろ、そんな……嫉妬みたいな……)
 あり得ない思いつきに、心臓が下からドンと突き上げられたようになった。それを否定するのに忙しく夏目が口も利けないでいると、秋吉は珍しく苛立ちも露わに短い息を吐いた。
「本当に、どっちなんですか。本気で他意もなく野々原さんの家に上がり込もうとしたわけじゃないでしょうね?」
「え……」
「それともやっぱり女もイケるんですか。野々原さんのこと、いつからそういう目で見てたんです?」
 秋吉の詰問口調にぽかんとして、夏目は耳に当てていた手をずるりと体の脇に下ろした。
 秋吉の物言いからは、自身のことよりむしろ野々原に関心が集中していることが窺える。
 どうやら秋吉がささくれ立っている原因はあの夜のことではなく、夏目が野々原に軽々しく声をかけたかららしい。その言動からは、秋吉が野々原に気があることが透けて見えた。
 わかった瞬間、猛烈な羞恥が湧き上がってきて夏目は力一杯指先を握り込んだ。
(あ…っ…たり前だろ! どんな勘違いしてんだよ、俺!)
 一瞬でも、秋吉は自分に気があるのではないかと思ってしまった。
 男同士でそんなこと、あるわけもないのに。
「——だったら、なんだよ? 問題あんのか?」
 羞恥を押し殺そうと全身に力を込めたら喉までふさがってしまい、ひどく低い声が出た。
 秋吉は意外な言葉を耳にしたとばかり、わずかに片方の眉を上げる。
「ありますよ。先輩、ゲイでしょう?」
「ゲイは女とつき合っちゃいけないのか」
 つっけんどんな口調になってしまったのは、妙な勘違いをした自分に対する呆れや怒りが秋吉に向いてしまったせいだ。詰まる話が、八つ当たりである。
 どうせ前回キスを迫った時点で、秋吉にこちらの性癖はばれている。そう思えばごまかす気も失せ、夏目は胸の前できつく腕を組み挑むように秋吉を睨み上げる。
「それに、つき合ってみたら好きになることもあるかもしれないだろ?」
 本気で野々原とつき合ってみようと思っていたわけでもないが、勢いに任せて先程ちらりと頭に浮かんだことを口にする。と、たちまち秋吉の表情が険しくなった。秋吉と出会って以来、一番顕著に表情が変わった瞬間だったかもしれない。
「……そんな実験に彼女をつき合わせるのは、可哀相でしょう」
 かつてないほど低い声で秋吉が呟く。相手を威嚇するようなその声音からは、野々原を守ろうとする秋吉の想いが伝わってくるようだ。と同時に、年下に正論で言い負かされて、身の置き所を失った。
 秋吉は本当に野々原のことが好きなのだな、と思い、そんなふうに臆面もなく誰かに想いを寄せられる秋吉を、ほんの少し羨ましいと思った。同性しか恋愛の対象にならない自分には、とても真似のできないことだ。
 自然と夏目の視線が下がる。自分がひどく惨めな顔をしている気がして、秋吉の顔を直視できない。
「……だとしても、お前には関係ないだろ。本当に好きになる可能性だってないわけじゃない」
 本心では秋吉の言葉の正しさをわかっていながら、素直に引き下がる気にはなれず反駁した。心にもない言葉は我ながら白々しく、言った側から余計なことを言うのではなかったと後悔する。その間も、チリチリと焦げるほど強い秋吉の視線が頬に痛い。
 下がりっぱなしの視界の中、腕時計の文字盤が窓からの光を反射した。大きな窓からは気の早い夏の日差しが射し込んでくる。
 目の前の現実から逃避するように場違いなことを考えていたら、いきなり秋吉に肩を掴まれた。
 秋吉の指は思いがけず力強く、鈍い痛みを覚えるほどで、さすがに驚いて顔を上げたら、想定よりずっと近くに秋吉の顔があった。
 秋吉が、長身を屈めてこちらの顔を覗き込んでいる。それにしても近い。近すぎる。
 よほど怒らせたかと息を呑んだら、さらに秋吉の顔が近づいた。
 顔を背ける暇もなく、秋吉の唇が夏目の顎先に触れる。ちょうど酔った夏目が自室で秋吉にキスをしようとしたのと同じ場所だ。
 仕返しか、それとも当てつけのつもりか。怒るべきか謝るべきかもとっさにはわからず次の行動に移れないでいたら、秋吉の唇が夏目の唇を乱暴にふさいできた。
「……っ!」