立ち読みコーナー
目次
258ページ
初恋の神様     7
あとがき      253
 いきなりドンと背中を押されたような、うっかり前に数歩足を出してしまうくらい強い風が背後から吹きつけてきた。
 突然の強風は周囲の木々を大きく揺らし、深い緑が一斉に境内に倒れ込んでくるような錯覚に環は息を呑む。環の背後、本殿から吹きつけてきた風は勢いを増し、前触れもなく風向きが変わった。それまで環の頬に貼りついていた髪の先が上を向く。風は参道の途中でうねりを上げて、真下から突き上げるように上空に吹き抜ける。
 風の動きは目に見えない。それどころか、強風に前髪を煽られ視界さえ奪われた環にそれが見えるはずもない。けれど確かに空に向かって風が吹き上げていったと思ったのは、拝殿の前の鈴が今まで聞いたことのない音を立てたからだ。
 聞き慣れた、ガランガランと左右に揺れる音とは違う、ガガガッと上下に揺さぶられたような音だった。
 ガラァン、と、最後に一際大きな音を立てて鈴が鳴り、環は乱れた前髪の下で恐る恐る目を開けた。
 すでに風は収まって、周囲の木々は普段通りの顔でさらさらと静かに揺れている。乱れた髪を手櫛で整え参道に視線を戻すと、朝よりずっと多くの葉が落ちていた。また最初から掃除のやり直しだ。
 溜息をつくつもりで大きく息を吸い込んで、環は境内の入口にある鳥居に目を向ける。それきり、吐きかけていた息を止めてしまった。
 風が吹く前は階段を上っていた人物が、鳥居をくぐって参道を歩いている。背の高い男性だ。強風に怯んだ様子もなく近づいてくるが、社務所の裏にいる環には気づいていないらしい。
 見慣れぬ服装をした男だった。黒い立て襟の上着と黒のズボンは、一瞬学ランのように見えなくもないが、それにしては上着の裾が長い。膝を隠してしまうくらいだ。
 さほど早く歩いているようには見えないが、歩幅が広いせいか男はあっという間に環に近づいてくる。それに伴い男の胸元でロザリオが揺れているのが見え、神父さんだ、と頭の片隅で思った。けれど環の思考の大半は、もっと別の方に向いている。
 環自身、自分が何に気を取られているのかとっさにはわからなかった。わからないのに、社務所の前を通り過ぎ、真っ直ぐ拝殿に歩いていく神父らしき男から目を逸らせない。
 賽銭箱の前で男が立ち止まり、環の目はその広い背中に釘づけになる。
 似ている、と思った。何に、と自問して、環はあっと息を呑む。
 拝殿の前にいる男の立ち姿は、環がたびたび夢で見る男性とそっくりだったのだ。
(い、いや、そっくりって言ったってそんな、実在の人でもないのに——……)
 でも似ている。何しろ十年以上も見続けてきた夢だ。夢に現れる人物の体のラインは、目を閉じれば鮮明に頭に思い浮かぶ。
 あれは単なる自分の理想像ではなかったのかと思いかけ、環はハッとした。
 ということはつまり、今目の前にいる人物こそが、自分の理想を完璧に体現した男ということになるのではないか。
(いや、でもそんな……後ろ姿を見たくらいで、顔だってよくわからないのに)
 実際は参道を歩いてくる男の顔を見ているはずなのに、どうしてか環の頭からその映像はすこんと抜け落ちている。きっと夢に出てくる人物は顔立ちがはっきりしないので、見覚えのある体の方にばかり目がいってしまったせいだろう。
 夢と現実を混同するなんてどうかしていると強いて自分を笑い飛ばし、環は拝殿の前に立つ男の様子を見守る。男は先刻からずっと同じ体勢のままで、鈴を鳴らすでもなければ賽銭を入れるでもなく、両手を合わせる様子すらない。
(神父さんだから、異教の神様に手は合わせないのかな……でも、だったらどうしてここに来たんだろう?)
 もしや参拝が目的ではなく、神社の人間に用事があるのだろうか。そう思いついた環は慌ただしく視線を巡らせ、境内に自分しかいないのを確認すると、意を決して参道に出た。
 神父服を着た男性に、環は一歩一歩近づいていく。それだけなのに、かつてなく緊張が高まって心拍数が急上昇した。あと一歩というところまで男に近づき口を開くと、草履の裏が石畳を蹴る音が聞こえたのか、男の方が先にこちらを向いた。
 あの、と言いかけた口の形もそのままに男の顔を見た環は、本気で腰を抜かすかと思った。
 男の顔は、どう見ても日本人のそれではなかった。髪が黒いので後ろから見たときは気づかなかったが、瞳の色はヘーゼルで、瞬きをすると虹彩に微かに緑の光が混ざる。鼻梁が高く彫りも深い。けれどわずかに日本人に通じる雰囲気が目鼻の間に漂っていて、もしかすると多少は日系の血も混じっているのかもしれない。
 だが環が驚いた理由は、それだけではなかった。
 夢の中に出てくる人物は、背の高さや胸の広さ、指の長さなど細部はかなり克明に思い出せるのに、どうしても顔の印象を掴むことができなかった。だから振り返った男の顔を見た瞬間、その後ろ姿を目で追っていたときのように、似ている、とは環も思わなかった。代わりに胸に転がり落ちたのは、こんな言葉だ。
(——……この人だ)
 夢の中に出てきたのはこの人だ、と思ったのか、理想の人はこの人だ、と思ったのか。自分でも正確にはわからなかったがその思いは環の体の芯を打ち、それで震え上がって腰を抜かしそうになったのである。
 肩越しにこちらを振り返った神父らしき男が、ゆっくり環に向き直る。年の頃は二十代の後半といったところだろうか。きちんと整えられた髪が秀でた額の上で揺れ、神父が瞬きをするとまた瞳の表面に緑の光が瞬いた。
 自分が相手を見ているということは、相手もまた自分を見ているのだという当たり前の事実に思い至り急速に我に返った環だが、まだ神父の顔を見た衝撃から立ち直れず、口にすべき言葉も見つからない。ただ、相手は外国の人だから日本語は通じないととっさに思い、ついでに神父が拝殿の前で微動だにしなかったのを思い出し、前のめりになって口を開いた。
「キ、キャンユー……」
 参拝の方法はわかりますか? と尋ねようとしたのだが、参拝という単語も方法という言い回しもまったく頭に思い浮かばず、環はぱくぱくと唇を上下させる。その間も神父はじっと環を見ていて、それだけで首筋から頭のてっぺんまでカーッと血が上った。
「オ……オッケー……?」
 自分の目線よりも高いところにある神父の目が軽く見開かれる。何を言われたのか理解できなかったのかもしれない。環も口にしてから頭を抱えたくなった。自分でも何がオッケーなのかさっぱりわからない。
 環はぎこちなく右手を上げると、顔の前で力なく手を振る。そうじゃない、もっと的確な言葉があったはずだと頭ではわかっているが、訂正するべき言葉も見当たらない。
(い……今時中学生だってもっとましなこと言うだろうに……)
 よっぽど頭が悪いと思われたのではないかと恐る恐る神父の顔を見上げると、それまで目を丸くして環を見ていた神父が、ふいにふわりと微笑んだ。
 茶色い瞳が優しく細められ、肉厚な唇が笑みで引き伸ばされる。神父は笑みを浮かべたまま、自身の語彙力に落胆する環に向かってわずかに顎を引き頷いた。ありがとう、とも、大丈夫、とも言っているような表情で。
 その顔を見て、初めて環も気がついた。目の前で笑う神父が、この辺りでは稀な美丈夫だということに。
 なぜ今まで気づかなかったのかと、またしても環は腰を抜かしそうになる。
 唐突に現れた神父の纏う雰囲気が夢に出てくる人物と酷似していたものだから、そこに気を取られてうっかり見逃していた。視界一杯に映り込んだ大写真の全体像が掴めず、一歩引いてみてようやくそこに美しいものが映っていたと気づいたようなものだ。
 秀麗な顔に見惚れて声も出ない環に、神父は軽い一礼をする。最後に一瞬だけ環と視線を合わせた神父は来たときと同じようにゆったりとした足取りで参道を歩き、車道に至る階段を下りていってしまった。
 環は片手にほうきを握り締めたまま、黒い神父服に包まれた広い背中を見送る。
 階段の向こうに神父の足から腰が消えていき、さらに背中、肩、頭のてっぺんまで見えなくなって、境内に元の静けさが戻っても、環はほうきの柄を握り締めたまま、神父が去っていった方から目を逸らすことができなかった。