立ち読みコーナー
目次
258ページ
初恋の諸症状        7
あとがき          251
181ページ〜
「だ……だったら、薬が効いたというのも嘘なのか!」
 だとしたら、少しでも久我の役に立てたと喜んでいた自分が間抜けすぎる。久我の目にもどれほど滑稽に映っていただろうと想像して羞恥に奥歯を噛み締めた秋人だったが、久我から返ってきた答えは予想と大きく違っていた。
「いや、薬が効いたのは本当。最近ほとんど幻聴は聞こえてない」
「でも、薬は偽物だとわかっていたんだろう?」
 自分と違って久我は嘘をつくのが上手い。気を遣って口から出任せを言っているのではないかと疑ってみるが、久我はどこまでも自然な表情で首を振った。
「それでも効いた。薬っていうか……お前が一生懸命励ましてくれてる言葉に、救われた」
 秋人の手首を掴んだまま長い廊下を歩き、久我はしみじみとした口調で言う。
「お前がこれだけ必死になってフォローしてくれる俺って、もしかして自分で思うよりもちょっと凄いんじゃない? なんて思ったら、急に幻聴が小さくなった」
「そ、そんなことでか……?」
 思わず声に疑いをにじませてしまった秋人に、久我は子供っぽく口を尖らせる。
「そんなこととか言うなよ。俺にとっては凄く自信になったんだから」
「す……すまない、本気で言ったのは間違いないんだが……」
 それにしてもそんな他愛のないことで幻聴が治まってしまうのが信じられず、しどろもどろに秋人が言葉を選んでいると、久我がフッと表情を緩ませた。
「わかってる。本気で言ってくれてるのがわかったから幻聴だって引っ込んだんだ」
 廊下を抜けてロビーに出ると、ずるいよなー、と久我は間延びした声を上げた。
「お前、薬の概要話してるときは絶対こっち見ないくせに、『お前なら大丈夫だ』って言うときだけは何がなんでも俺から目ぇ逸らさないんだぞ?」
 そりゃ信じちゃうだろ、と秋人の前を歩く久我がぼそりと呟き、秋人は小さく喉を鳴らした。信じてくれたのか、と思ったらじわじわと胸が疼く。
 久我が自分の言葉を受け入れてくれた。少しでも力になれた。それが嬉しい。薬を渡した夜、わざわざ研究室まで戻ってきて礼を言ってくれた久我が、薬に対してではなく自分の言動に対して「ありがとう」と頭を下げてくれていたことを知って泣きそうになった。
 堪えきれず、秋人は久我に掴まれた手の指を伸ばした。一度宙を掻いた指先が久我のスーツの袖口に絡み、たどたどしい仕種で久我の手首を握り返す。
 もう抑えようもなく、久我に触れたいと思った。次の瞬間この手を振り払われてしまっても構わないから、今だけはどうしても触れたかった。
 秋人の指先の動きに気づいて、ロビーを横切る久我の歩調が鈍る。肌を通して伝わってくるかもしれない久我のためらいや嫌悪を覚悟して秋人が深く俯くと、玄関の扉が開く気配とともに真正面から夏の乾いた空気が吹きつけてきた。
 屋外に出ると、前触れもなく強く久我に腕を引かれた。勢い余って前につんのめり、秋人は久我の背中に顔から激突してしまう。広い背にしたたか鼻を打ちつけ、ついでに久我の匂いにも反応して大きなくしゃみをすると、上から久我の快活な笑い声が降ってきた。
 よろけた勢いで久我の手首から指をほどいた秋人の手を、久我が力強く握り締める。驚いて見上げた顔に嫌悪の色はなく、久我は真夏の大きな青空を背に屈託なく笑って言った。
「俺には薬より、お前の言葉の方が効くみたいだ」