立ち読みコーナー
目次
258ページ
強面の純情と腹黒の初恋  ……7
三か月目の憂鬱      ……189
あとがき         ……251
(54ページ〜)
(……楽しい)
 傍目にはそんなことを考えているとはとてもわからない無表情で双葉は思う。梓馬がいつまでも敬語なのと甲斐甲斐しく動いてくれるおかげで、なんだか気心の知れた後輩とでも一緒にいるようだ。だからつい、もう少し、あと少し、と梓馬の帰る時間を先延ばしにしているうちに、思いがけず深酒になっていたらしい。
 何度目かのトイレに立った双葉が部屋に戻ってみると、さほど長く席を外したつもりもなかったのに梓馬が床に寝転がって寝息を立てていた。
 双葉は酔ってフワフワした頭で室内を見回す。締めに雑炊までした鍋の中身はもうすっかり空になっていて、テーブルの周りにはビールの空き缶が幾つも転がっていた。時計を見上げると、すでに終電も過ぎた時刻だ。
 とりあえずテーブルの上を簡単に片づけると、双葉は梓馬の傍らに膝をついてその肩を揺さぶった。だが、生返事があるばかりで瞼の上がる様子はない。
 よくよく考えれば梓馬はコーラやジンジャーエールを補充するために何度かアパートと自動販売機を往復している。酒を飲んだ状態で階段を上ったり下りたりしたのだから、酔いが回るのも早かったのだろう。
 終電も逃してしまったことだし今夜は部屋に梓馬を泊めることにして、双葉はクローゼットから夏用の肌かけを取り出した。それを梓馬の体にかけてやり、さすがにこれだけでは寒いだろうかと室内を見回す。と、ふいに床についていた手首を梓馬に掴まれた。
 アルコールのせいかやけに熱い梓馬の指先に驚いて視線を下げると、梓馬は肌かけで鼻から下を隠した状態で薄く目を開けて双葉を見ていた。切れ長の聡明な目が、酔いのせいか少し赤い。
 双葉の手首を掴んだまま、梓馬が肌かけの下で何か呟く。何? と訊き返すがくぐもってよく聞こえず、双葉は上体を倒して梓馬の顔に耳を近づけた。梓馬は双葉の手首を掴んでいない方の手で緩慢に肌かけを払いのけると、ふらりとその手を天井に伸ばした。
 梓馬の手の行方を追い一緒に斜め上を見上げると、その手が双葉の首の後ろに回された。
 グッと引き寄せられ、体が傾く。酔った頭ではわずかな傾斜も随分と急に感じて息が止まる。やにわに梓馬の顔が急接近して、次の瞬間、唇に温かなものが押しつけられた。
 目の前に、梓馬の目元が大写しになる。呼吸の音がやけに大きい。
 鼻先をアルコールの匂いが通り過ぎ、唇には何か温かなものが触れたままで、それが微かに動いたと思ったら皮膚の表面を柔らかな吐息が掠めた。
 首の後ろに回されていた手がズルリと落ちて、双葉の手首を掴んでいた梓馬の手からも力が抜けた。その後室内に響いたのは、規則正しい梓馬の寝息だ。
 双葉は長いこと梓馬に覆いかぶさる体勢のまま動けなかった。
 しばらくしてゆっくりと身を起こすと、双葉はぺたりとその場に正座をした。
 見下ろした梓馬はやはりよく寝ている。名前を呼ぼうとして、でも声が出なかった。
 たった今、自分の身に起きたことがまだ理解できない。唇に触れたあれはなんだ。梓馬は一体自分に何をした?
 呆然とその場に座り込み、どれほどの時間が経っただろう。
 潮が引くように酔いが醒めていく頭の中に、やけに冷静な自分の声が響いた。
(……今の、俺のファーストキスじゃないか?)