立ち読みコーナー
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愛とは与えるものだから ……7
あとがき        ……252
「先生〜、飯喰いに来たぞ〜」
 いったん診療所を後にした斑目が再び姿を見せたのは、午後七時を過ぎる頃だった。仕事を片づけて二階で夕飯の支度をしていた坂下は、階段を上ってくる斑目を見て、みそ汁の鍋を温め始めた。
「あ、斑目さん。いらっしゃい」
 右肩から左脇に向かって斜めに紐がかかっているのに気づき、なんだろうと思ってよく見てみると、ウクレレを背負っている。子供の頃に見たテレビ番組でギターを背負った格好いいヒーローがいたが、小さな楽器は逆三角形の躰にすっぽり隠れてしまっていて、こちらはなんだかおかしい。
「また持ってきたんですか?」
「飯喰った後に、俺が窓辺で先生に愛の歌を歌ってやろうと思ってな。ロマンチックな夜になりそうだろう?」
「どこがですか。どうせ変な歌しか歌わないくせに」
「変な歌って『あそこの歌』か? 聞きたいならそれも歌ってやるぞ〜」
 斑目はウクレレを畳の上に置くと、手に小さな袋を持ってシンクの前に立った。中から出したのは、新聞紙で包まれたものだ。どうやら陶器らしい。
「なんですそれ?」
「俺と先生の夫婦茶碗だ」
「わざわざ買ってきたんですか」
「おうよ。先生とのせっかくの夜だからな」
 斑目はそう言って茶碗を軽くすすいで、かけてあったふきんで水滴を拭き上げた。
 夫婦茶碗は中央にハートのマークが入ったデザインになっており、どう見ても若い新婚夫婦をターゲットにした商品としか思えなかった。これを男二人ちゃぶ台に向かい合って使うのかと、その様子を想像して眉間に皺を寄せる。
「気に入ったようだな」
「どこがですか。この顔のどこが気に入ったように見えるんですか」
「そう言うなって。どうせ食器もあんまりねぇんだし、この際ちょっとくれぇ増やしてもいいだろうが」
 確かに最低限の食器しかないため、種類はバラバラで中には端が欠けているものも少なくなかった。ハートマークは不本意だが、ありがたくいただくことにする。
「じゃあ、ありがたく使わせてもらいます。ところで、久住先生はどこに行ったんですかね。夕方までいたのに」
「また飲み歩いてんだろう」
「それじゃあ、先に食べてましょうか」
 坂下はみそ汁をつぐと、おかずの載った皿を次々とちゃぶ台に運んだ。缶詰を温めたものや残り物ばかりだが、これでもいつもより贅沢なほうだ。斑目のご飯はてんこ盛りにし、何度お代わりしてもいいように、炊飯ジャーはちゃぶ台の横に待機させる。
「いただきま〜す」
 斑目と二人でちゃぶ台を囲むのは、少し妙な気がした。これでは、本当に夫婦だ。なんだか少し照れ臭く、早く久住が帰ってこないかなんて考えてしまう。
「缶詰もこうして温めると旨いもんだな」
「ですよね。アサリの醤油煮ってお酒のつまみにもいいけど、ご飯に合いますよ」
 決して充実した食生活とは言えないが、誰かと食卓を囲むのはいい。久住が居候しているため、このところ一人で食べることも少なくなってきたからか、余計にそう思う。
「あ。お弁当も作りますからね。明日何時です?」
「弁当はいいよ。俺は朝早ぇから」
「おにぎり握ってくれって言ったじゃないですか」
「別のもん握ってくれりゃいいよ」
「だからそれは握りませんって言ったでしょ」
「そんなに堅ぇこと言うなって」
 愉しげに口許を緩めながら見つめられ、坂下は「また始まった……」と、斑目のペースに乗せられまいと視線を逸らして食事を続けた。相手にすると調子づくと思い、できるだけ冷たい口調で事務的に返事をする。
「握りません」
「握ってくれよ」
「握りませんからね」
「握ってくれって」
「握りませんって言ったでしょ」
「握ってくれよ〜」
「握りません!」
 夕飯を食べながら延々と握る握らないで押し問答をしているこの状況は、決して普通とは言えないが、すっかり慣れてしまっていることに気づかされる。順応性があるのはいいことかもしれないが、果たしてこれでいいのかと自問せずにはいられなかった。
 そしてふと、斑目が急に黙り込んだことに気がついて視線を上げた。すると、優しげな眼差しとぶつかり、心臓がトクンと小さく跳ねる。
「な、なんですか?」
「握ってくれ」
「にーぎーりーまーせんっ!」
 ロマンチックなことを口にしそうな表情だっただけに、同じことしか言わない斑目にそれまでなんとか保っていた平常心は奪われ、感情的に言い返してしまった。修行が足りないと反省するが、ひとたび崩れてしまうとあとは崩れっぱなしだ。
 しつこくお願いされ、終いには「見るだけでもいい」と言われ、斑目のふざけた態度に思わずちゃぶ台をひっくり返しそうになる。そんな坂下を見る斑目の目は、とんでもなく愉しそうで、それがまた癪だ。食事が終わる頃にはすっかり斑目のペースに巻き込まれてしまっていて、挽回のしようがない。
「ごちそうさま! 斑目さんはそこに座ってていいですからね!」
 食べ終わった食器を運ぶと、坂下は一人シンクの前に立った。仲良く並んで洗いものなんて、どんな悪戯をされるかわからない。
 けれども、そんな予防線も斑目を前にすれば意味をなさなくなる。
 ポロン、と背後からウクレレの音が聞こえてきた。また「あそこあそこ」と自作の歌を歌い出すのかと思い、今度こそ斑目のペースに乗せられまいと無視を決め込むが、背後から聞こえてきたのは予想とは違うものだ。
「あなたの〜熱い〜唇で〜、わたしの〜名前を〜呼んで〜」
 坂下は、洗いものをする手を一瞬止めた。慌てて再開するが、斑目の歌声は容赦なく耳に流れ込んでくる。
「あなたの〜熱い〜瞳で〜、わたしを〜見つめていてぇ〜〜」
 それは、世界的にも有名な愛の歌だった。
 もともとは外国の歌だったものに日本語の歌詞をつけ、女性のシャンソン歌手が歌ったことで日本でも知れ渡ることとなった。実力のあるシンガーたちの手により、何度もカバーされている。二年ほど前に若者に人気の女性アーティストが歌ったものがCMソングになったことから、再注目されたのをよく覚えている。
 秘めた情熱を歌い上げるアーティストたちのパフォーマンスはどれもすばらしいものだったが、斑目の歌声もまた聴く者の心に響くものだった。
「あの空よりも〜、この大地よりも〜、あなたのその腕が〜、わたしの望み〜、あなたのその腕に抱かれることが〜、わたし〜の〜、望み〜」
 愛する男性に対する女性の気持ちを歌ったものだが、斑目が歌うと自分の奥に眠る本音を代弁されているような気がする。
 あの空よりも。
 この大地よりも。
 あなたのその腕がわたしの望み。
 あなたのその腕に抱かれることが、わたしの望み。
 溢れるほどの想いが感じられ、坂下は高鳴る心臓を抑えることができずに、食器がきれいになっても延々と水を流していた。
 まさか、本気の歌声を聴かされるとは思っていなかった。不真面目に歌っても、斑目の熱い胸板に反響して聞こえる声は深みがあり、思わず聞き惚れそうになるというのに。
 こんなのは反則だ。
 坂下は心の中で斑目に抗議した。
 こんなのは、反則だ。