立ち読みコーナー
目次
290ページ
家計簿課長と日記王子  ……7
ラブソファー      ……255
あとがき        ……286
「女の人って怖いですね」
 水音の響く給湯室に自分のものではない声が響いて、周平はギョッとして顎を撥ね上げた。振り返ると入口に立っていたのは、先程さんざんやり玉に挙げられていた伏見だ。
 泡立ったスポンジを手にしたまま硬直する周平を横目に給湯室へ足を踏み入れた伏見は、ごく軽い口調で言った。
「なんか中で賑やかな声がすると思ったから廊下で待ってたんですけど、結構声が漏れるんですよ、ここ」
「あ、わ、悪いね、待たせて」
 慌ただしい手つきで弁当箱を洗う周平の後ろを通り過ぎ、いいえ、と伏見は短く答えて部屋の奥に置かれたコーヒーサーバーの前に立った。
 周平は洗剤の泡を洗い流しながら、横目で伏見の背中を見る。
 先程エレベーターホールで見かけたときはきちんとジャケットを着ていたが、今はワイシャツ一枚纏っただけだ。それでもなお、伏見の背中は大きく見える。
 実際伏見は体格がいい。こうしてシャツ一枚になるとよくわかるが、肩幅が広く、背中が厚い。身長も、もしかすると百八十以上あるだろうか。営業部の中では一番の長身だ。
 ちなみに周平は百六十五センチ。特に体を鍛えたこともないので筋肉もついておらず、伏見とは一回りも二回りも体格に差がある。ここまで違うと羨む気にもなれない。
 そろりと伏見から視線を逸らしながら、一体いつから伏見は給湯室の前に立っていたのだろうと思う。廊下まで声が漏れていたというが、もしかすると伏見にまつわる黒い噂から何から全部聞いていたのだろうか。自分は一言も口を挟まなかったが、同じ空間にいただけに陰口を本人に聞かれてしまったようでいたたまれない。
(僕は別に、伏見君のことをそういうふうに見たことは――……)
「課長もああいうふうに思いますか」
 周平が胸中で言い訳めいたことをこぼしたのとほぼ同時に伏見が口を開き、心の声を聞かれた気分で周平は慌てて振り返った。
「い、いや! 僕は決して、そんなふうには……!」
 うっかり声が大きくなる。ホルダーつきの紙コップにコーヒーを注いでいた伏見は周平の剣幕に驚いたのか一瞬口を噤み、それからすぐ、ですよね、と頷いた。
「どれだけ相手に好きになったと言われても、こちらが好きにならないことだって十分あり得ますよね」
 あ、と間の抜けた声を上げ、周平はごまかすように空咳をした。
(そ、そっちの話か……)
 しかしさすが王子、言うことが違う。きっと過去たくさんの告白を受け、もうすっかり心が動かなくなっているに違いない。
 周平は自分の目線より高いところにある伏見の横顔を見上げ、それもそうだと納得する。
 伏見を王子と呼びたくなる女子社員たちの気持ちもわかる。伏見は顔立ちが整っているのはもちろんのこと、ガチガチの筋肉質ではないがスーツを着たとき見栄えがするくらい体に厚みがあり、それでいてあまり男臭いところがない。男臭さの具体例を挙げるのは難しいが、髭が濃いとか汗臭いとか眉毛が太いとか顎が割れているとか、つまりそういう事象から縁遠い。そしてすれ違うと微かに清涼な香りがする。まさに王子だ。
 紙コップの中を見詰める伏見の涼し気な目元に、黒髪がさらりと落ちる。うるさそうに目を眇めると少し酷薄な印象になって、でも妙に艶っぽい。
鑿で削ったように真っ直ぐな鼻梁のラインをしげしげと見詰めていたら、ふいに伏見が目線だけこちらによこした。
 美形の流し目は破壊力抜群だ。心臓が飛び上がるのと呼応して周平の上半身がびくりと揺れた。
 十近く年下の相手に何をびくついているんだと自分を叱咤していると、伏見はコーヒーの入った紙コップを手にしながら独り言のように呟いた。
「好きって言われたから好きになって、それでうっかり結婚までいってしまったら、真相を知った相手はさぞ複雑な心境になるでしょうね」
 伏見は踵を返しながら言って、最後の言葉はほとんど体が給湯室から出ている状態で口から漏れていた。端から周平の返事など期待しているようではなかったから、もしかすると本当に独り言だったのかもしれない。
 唐突に静けさを取り戻した給湯室で、周平はぼんやりと汚れた壁に視線を漂わせた。
(そう言われても、結婚なんてまるで想像がつかないし……)
 自分が結婚をすることは生涯ないだろうと覚悟しているだけに、考える気にもならない。この年になってまだ恋人を作ったことすらないのだ。そもそも恋人がいたところで、やっぱり結婚には至らないだろう。
(日本で同性婚が認められるとも思えないしなぁ……)
 出しっぱなしだった水を止め、濡れた弁当箱を小さく振る。女性陣に男扱いされないのは小柄だ童顔だという見た目の問題だけでなく、この性癖も由来しているのかもしれない。
 周平の恋愛の対象は物心ついたときから一貫して、自分と同じ男性だ。