立ち読みコーナー
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夏の夜の悪夢  ……7
あとがき    ……220
「なんてことはない話、ああ、つまり医師の守秘義務には抵触しない話という意味ですよね? でしたら、なおさらお聞きしたいですね。楢崎先生が、大事なあなたにいったいどんなちょっかいを出したのかというあたりを、重点的に」
「いや、そんなに気合いを入れるような大した話じゃないんだって。てか、そろそろ手を、さあ。歯磨きの続きとかも……したいし」
 京橋は猛獣を宥める調教師のような口ぶりで茨木に話かけながら、さりげなく右手を引き抜こうとした。だがそんな涙ぐましい京橋の努力をさらりと無視して、茨木は片手で京橋の右手を捕らえたまま、もう一方の手をTシャツの腰に回した。グイと引き寄せられて、京橋は長い夜を覚悟せざるを得なくなる。
(あああ……俺、なんだってこのタイミングで楢崎先輩の名前なんか出しちゃったんだよ)
 事ここに至っては、どんなに後悔しても後の祭りである。
 もちろん、苛立ったからといって、京橋に暴力を振るうようなことは決してしない茨木だが、こうなると、午後の特別病棟での出来事をすべて京橋から聞き出すまで納得しないだろう。
「歯磨きの続きは、あとでシャワーのついでになさればいいですよ」
 あくまでも優しい口調でそう言い、茨木は京橋の腰に回した手の指先に、微妙な力をこめた。敏感な脇腹を服の上から軽く引っかかれて、京橋の身体がピクッと小さく震える。
 そのまま明らかな意図を持って背筋を辿る指の動きに、京橋は、それこそ楢崎が見たら「途方に暮れた小犬」と評しそうな困り顔で、長身の茨木の顔を上目遣いに見た。
「……やっぱ、そういう気分にさせちゃった?」
 今度は極上の笑顔で、パジャマ姿の茨木は頷く。
「はい。とはいえ、明日も通常勤務のあなたにご負担をかけられません。最後までするつもりはありませんよ。……ただ、僕の子供っぽい嫉妬心を宥めて、安らかに眠るお手伝いをしてくださいませんか? もちろん、昼にお聞きになったという怖い話の件も、是非ともお聞かせいただきたいと」
「……両方なんだ?」
「ええ、あなたに関してだけは、僕はたいそう欲張りですから」
 そう言いながら、茨木はようやく京橋の手を解放し、空いた手で二人分の眼鏡を器用に外した。そして互いの額をこつんとぶつけ、至近距離で京橋に囁きかける。
「……でも、もしあなたが本当に嫌なら、無理強いはしません。触れ合うことも、話をお聞きすることも。我が儘を反省して、背中を丸めて寝るとしますよ」
 少しだけ切なそうに微笑む茨木の顔には、さっきの迫力は微塵も感じられず、むしろ甘えるように半歩退かれて、京橋はウッと言葉に詰まった。その口から「ずるいよ」という恨み言がこぼれる。
「ずるい、ですか?」
「ずるい。俺がその顔に弱いの、わかってるくせに」
 眼鏡を外すと、茨木の顔は不思議なまでに男っぽさを増す。まるで眼鏡が、彼の本能を覆い隠す仮面の役目を果たしているようだ。
 そのいつもよりずっと色気のある顔を近づけ、恋人らしい甘い声で囁かれては、及び腰だった京橋も、ついほだされてしまう。
「その顔、とは?」
 嬉しそうに訊ねて、茨木は京橋の鼻に小さなキスを落とす。
「……その、俺が大事で仕方ないって顔! こっちもつられて嬉しくなっちまうだろ!」
 膨れっ面にそぐわないそんな睦言を投げつけ、京橋は自分がまさに夏の虫になった気分で、「だってそれは本当に……」と言いかけた茨木の唇を、自分の唇で荒っぽく塞いだ。