立ち読みコーナー
目次
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カミナリの行方  ……7
あとがき     ……252
 黒羽の泊まる宿の一室で、草弥が身支度を整えている。
 いつも身につけている上衣と山袴を脱ぎ、濃紺の着物に袖(そで)を通した草弥は、墨色の帯を締めながら目の前に置かれた姿身に視線を移す。
(……ひどい顔してるな)
 ほんの数時間前に牙狼たちと戦ったばかりの自分は、青褪(あおざ)めてげっそりとした顔をしている。いや、げっそりしているのは別に理由があるのかもしれないが。
(なんだって男の俺がこんなことを……)
 時間稼ぎをするようにギリギリと帯を締めながら、草弥は眉間に深い縦皺を刻む。
 牙狼たちを残らず討ち取った後、黒羽は何も言わずに宿に帰ってしまった。改めてその真意を問う機会も草弥に与えずに。だからもう行くしかない、と覚悟を決めて草弥は宿にやってきたのだ。
 夜伽というからにはやはりそういうことをするんだろうと風呂(ふろ)に入って身を清め、こうして着物に着替えたものの、草弥は深い溜息をつく。
(それにしたってなんで俺なんだよ……あの人本気でこんないかつい男相手にする気か?)
 鏡に映る自分はどう見ても女には見えない。骨太の成人男子だ。黒羽の言う通り、女性より当然体力はあるが、それだけの理由で夜伽の相手にしようという黒羽の気が知れなかった。
 それでも、約束は約束だ。黒羽は言葉通り牙狼を倒し、この村を守った。
 帯を締めた草弥は、ふと後ろで無理やり結んだ髪に気づいて後頭部に手を回す。
 紐(ひも)を解けばギリギリ髪が肩につく。下ろしていった方がいいだろうか、と鏡に顔を近づけて、草弥はハッと身を引いた。
(どうでもいいだろ髪型なんて! なんで俺がそこまで気を遣わなきゃいけないんだ!)
 女性のように身だしなみに気をつけてしまった自分が忌々しく、草弥は足音も荒く廊下に出ると黒羽の部屋に向かった。
(もう俺は布団の上に転がって何もしないぞ! 夜伽の相手にしたければ勝手にしろ!)
 ドスドスと廊下に足音を響かせて黒羽の部屋の前に立つと、草弥は拳(こぶし)で襖を叩き、返事を待たずに戸を開けた。
「失礼します! お約束通り参上いたしました!」
 完全な喧嘩(けんか)腰で部屋に乗り込んだ草弥だったが、襖を開けて目を瞬かせた。
 黒羽はいつかのように窓辺の壁に背を凭せかけ、すでに宿の浴衣に着替えて窓の外を見ていた。しかも、草弥がやってきても一瞥(いちべつ)しただけで、入れともなんとも言わない。
 草弥は一瞬躊躇したものの、すぐに思い直して部屋に入ると黒羽の前に置かれた卓袱台(ちやぶだい)の向かいに腰を下ろした。
 こんなときどうすればいいかなんて草弥にはわからない。三つ指ついて「よろしくお願いします」なんて、口が裂けても言う気になれない。やりたければやればいいと黒羽の前にドカリと座り込んだ草弥を、ようやく黒羽が正面から見た。
 自分と同じく、つい先刻獣たちと戦ったばかりとは思えないほど黒羽は平素と変わらぬ顔をしている。緩くはだけた胸元や露(あら)わになった腕を見ても、傷ひとつ負っていないようだ。
 自分よりよほど白い、滑らかに筋肉のついた黒羽の肌を見るともなしに見ながら、草弥はまたじわりと悔しくなる。都の守人ともなれば連日獣の退治依頼が絶えないだろうにこれだけ傷が少ないということは、やはり黒羽は一流の守人なのだ。
 また微かに自尊心を刺激されそうになり草弥が畳に視線を転じると、向かいから溜息と呆れの混じった声がした。
「……本当に来たのか」
 その言葉に、ビシリと草弥の横顔が強張(こわば)る。男の矜持(きようじ)を砕きに砕いて覚悟を決め、足を引きずるようにしてここまでやってきた相手に対し、それはあまりにも無責任な言い種だ。
 次の瞬間、草弥は相手が自分より格上であることも忘れて正面から怒鳴りつけていた。
「本当も何も、アンタが来いって言ったんでしょうが!」
「村長に泣きついて代替案でも持ってくるかと思ってたんだが」
 しれっとした顔でそんなことを言われ、草弥は思い切り卓袱台を拳で叩いた。
「俺はそんな腰抜けじゃありません!」
 黒羽が口を噤んで草弥を見る。
 草弥とて、男のくせに夜伽を引き受けることが腰抜けでないと言い張れるのか自分でもよくわからなかったが、目を逸らしたら負けてしまう気がして真正面から黒羽の顔を睨みつける。
 室内に沈黙が落ちる。どちらも身動きしないまま、時間だけが無為に過ぎていく。
 しばらくして、黒羽が投げ出した足の片方を立て、小さく首を傾げた。
「で?」
「……は?」
 立てた膝の上に手を置きながら、黒羽がゆっくりとした瞬きをする。それでも黒羽の言わんとすることがわからず草弥が黙り込んでいると、黒羽がまた小さな溜息をついた。
「そういうことなら、その気にさせろ。……誘い方も知らないのか?」