立ち読みコーナー
目次
0ページ
 ワケアリ
 帝王
あとがき
 印象的な眼差(まなざ)しの青年だった。
 浮世離れをしているといっていいのか、時折遠くを見るような目をし、何を考えているかわからないところがある。むさくるしい男で溢(あふ)れるこの場所には不釣り合いで、浮いた存在だった。口許(くちもと)にはいつも微笑を浮かべており、咥(くわ)えタバコで流し目なんか送られると男とわかっていてもついドキリとしてしまう。
 社交的で人づき合いをそつなくこなすタイプだが、ある一定のところからは他人を踏み込ませない。謎(なぞ)めいた雰囲気が、知りたいという好奇心を煽(あお)る。
「おい、お前」
「え?」
「お前、あんま日焼けしてねぇな。この辺りは思ったより日差しが強いんだ。もろ肌脱いでると後で泣くぞ。シャツくらい着とけ」
「浅倉(あさくら)船長(キャプテン)は脱いでるじゃないですか」
「俺はもう焼けてるからいいんだよ。急激に焼くなって言ってるんだ」
 浅倉の言葉に、青年は下心のない親切を喜んでいるかのように「後で着ておきますよ」と笑った。鮮やかな笑みである。
 青年の名を菅原(すがわら)志岐(しき)といった。
 船員手帳によると年齢は二十五歳。どこか飄々(ひょうひょう)としているのは、猫背気味の細身の躰(からだ)と歌うような喋(しゃべ)り方のせいだろう。
 海風に吹かれて気持ちよさそうに目を細める表情にはわずかながら少年っぽさが残っており、海の神が使いでもよこしたのではないかというほど絵になる。
 頭は小さくスタイルもいい志岐には、女形(おやま)の役者が持つような色気があった。これほど恵まれた容姿をしているのなら、こんな汗臭いところに稼ぎに来ずともいくらでも割りのいい仕事は見つかりそうだが、金にはあまり興味がなさそうに見える。
 通帳を眺めている姿がまったく思い浮かばないのだ。ゼロの数がいくつに増えたかなんて、この青年には遠く離れた日本の明日の天気より興味のないことだろう。
 そんなことを考えていると、突然「ぅげぇぇぇぇ……っ」とオカルト映画さながらの凄(すさ)まじい声が甲板(デッキ)にこだまし、浅倉の思考の邪魔をした。内臓まで吐き出してしまうのではないかというほど豪快に嘔吐(おうと)をしているのは、甲板員のサイードだ。漁場に着くまで甲板では流れ作業で漁具の準備をするのだが、黙々と仕事をしている中、時折思い出したように海に吐瀉物(としゃぶつ)をぶちまける。
「あの人、大丈夫なんですかね」
「初心者は船酔いとの戦いだ。漁場に着く頃には慣れるだろ。お前は平気なのか?」
「俺? ……ああ、平気みたいです。案外、海の男の素質があるんですかね」
 志岐はそう言って漁具の入った箱を軽々と肩に担ぎ上げ、それを指定の場所に運んだ。あれで軽く五十キロはあるというのに、どこにそんな腕力が隠されているのかと浅倉は目を見張る。細身の躰が軽々と重い荷物を運んでいる姿には、感動すら覚えた。
(挑発的なケツしてやがるな……)
 引き締まった腰から尻(しり)にかけてのラインは見事なもので、鑑賞に値する。
 ここは海の上。マグロ延縄(はえなわ)漁船第六十四豊永丸(ほうえいまる)。
 短くて半年。通常だと一年から二年ほどだが、長い時には数年を海の上で過ごし、回遊するマグロを追いながら漁をするのが乗組員たちの仕事である。
 気分屋ですぐに表情を変える海は扱い難い女のように厄介で、腹を空かせて牙(きば)を剥(む)く捕食者のように狂暴だ。ひとたび気を抜くと、あっという間に海の中に引きずり込まれてしまう。
 しかも、荒れている時だけ気をつけていればいいというものではない。時化(しけ)で大荒れの時より凪(な)いでいる時の方が事故に遭いやすく、神隠しにでも遭ったかのように人が突然いなくなったりするのだ。気の緩みから海に転落するケースがほとんどだが、事故なんて起きそうにない静かな海に船員が呑(の)み込まれるのを見ると、海そのものに意思があるような錯覚を覚える。
 海の男が縁起を担ぎたがるのも、こういったことを多く経験するからだ。
 浅倉は、船でトップである漁労長の次に偉い船長という位置についている。
 浅黒く潮焼けした肌と無精髭(ぶしょうひげ)。彫(ほ)りの深い顔立ちは野生的で、脂肪の削(そ)ぎ落とされた躰には船の上で負った傷があちこちに刻まれていた。この躰と目つきの悪さを見て喧嘩(けんか)を挑んでくる酔狂な人間は、滅多にいない。
 若い頃は暴力団の構成員として肩で風を切っていた時期もあったが、暴対法の施行以来ヤクザ社会は変貌(へんぼう)を遂げ、フロント企業なんて言葉が出てきた頃から少しずつ弾(はじ)き出されていった。
 いわゆる、裏社会にすら馴染(なじ)めないアウトローである。
 当てもなくフラフラと日雇いの仕事で喰(く)い繋(つな)いでいた浅倉は、当時まだ二等航海士(セコンドッサー)だった犬山(いぬやま)漁労長に誘われて遠洋船の漁師になった。キャリアは十二年。海は慣れたものだ。性にも合っている。
 だが、昨今のマグロ漁事情は随分と変わった。少し前は一回の航海で一人当たり稼ぐ金は一千万とも言われており、借金のカタにマグロ漁船に乗せられるなんて話がゴロゴロ転がっていたが、今は違う。その船の水揚げ量にもよるが、資源の減少による漁獲制限や原油の高騰のため、幹部以外の一般乗組員の平均年収はせいぜい五百万といったところだ。
 劣悪な環境と過酷な労働を考えると決して割りのいい仕事ではなく、かつては一攫(いっかく)千金を狙(ねら)う若者で溢れていた海は、今や安い賃金でよく働く東南アジア系の外国人に乗っ取られつつある。
 それでも、平の甲板員として乗ってくる日本人はいることにはいた。将来幹部になろうとする奴か、海が好きでたまらない奴。
 そして、ワケアリで乗ってくる奴。
 時折紛れ込むのは、陸(オカ)にいられなくなり、逃げるようにして乗り込んでくる人間だ。
「ところでお前、陸では何やってたんだ?」
 戻ってきた志岐に浅倉はさりげなくそう聞いたが、志岐は咥えタバコのまま隣に座る浅倉に視線をやるだけで答えを返そうとはしない。口許に微笑を浮かべ、意味深な視線を残してすぐさま作業を再開する。
 過去に触れるなと強く拒絶するわけでもなく、だからと言ってどこまでも許すわけでもなく――。
(やけに雰囲気のある奴だな……)
 浅倉はそう思い、再び作業に戻る。
 菅原志岐からは、明らかにワケアリの匂(にお)いがしていた。

 深夜二時。
 凪いでいた海は荒れに荒れ、激しい横揺れ(ローリング)が始まった。風が笛のように甲高い音を立て、波の間に潜む魔物たちが獲物を見つけたと仲間に合図しているように聞こえる。
「今から投縄を始める! 神のご加護を!」
 今年五十二になる漁労長の潮嗄(しおが)れした声が、海風を引き裂くようによく響いた。クリスチャンである男の船内放送は、言葉を吐き捨てているようにいつも乱暴だ。
 日本のマグロ漁船は、延縄漁と言われる漁法を取っている。全長約百五十キロメートルにも及ぶ幹縄に三千本前後の枝縄(ブラン)をスナップで装着し、その先端にイカやアジなどの餌(えさ)を仕掛けるのだ。幹縄には数メートル間隔で浮きがついており、それを海に流して枝縄の先端につけた餌にマグロが喰いつくのを待つ。
 投縄は五人一組で順番に行い、その間に他(ほか)の船員たちはそれぞれ食事や休憩を取って数時間後の揚縄に備えることになっている。
「浅倉ぁ~、あいつなんとかしてくれぇ~」
 浅倉が食堂で飯をかき込んでいると、今年三十九歳になるコック長の浜(はま)やんが、情けない声で泣きついてきた。
 赤黒い肌。丸い輪郭と丸い鼻。つぶらな瞳(ひとみ)はバンビのようで、ずんぐりとした躰も特徴的な愛嬌(あいきょう)のあるおっさんである。
「あいつって志岐のことか?」
「そうだよ志岐の野郎だよ。男のくせにいい匂いがしやがんだよ~。俺にはなぁ、陸に愛(いと)しいかーちゃんがいるんだぁ~」
 乗組員二十三人ぶんの飯の世話をする浜やんは愛妻家で通っているが、このところ志岐の色香にやられてしまったらしく、日々己の欲望と葛藤(かっとう)している。浜やんご贔屓(ひいき)のグラビアアイドルに顔が似ているのが、運の尽きといったところだろう。
「そんなこと言われてもな……」
 浅倉は人差し指で無精髭の生えた顎(あご)をポリポリと掻(か)いた。いい歳(とし)をしたおっさんが若い男に翻弄(ほんろう)されているというのもおかしな話だが、ここはむくつけき男たちが押し込められた隔絶された世界なのである。そういう意味では刑務所のようなところと言ってもいい。
 ひとたび漁が始まると十数時間ぶっ通しで仕事をすることもめずらしくないが、移動中など暇が続く時には続く。今日が初めての漁で、日本を出てここに来るまでほとんど甲板作業と操舵室(ブリッジ)の当直(ワッチ)しか仕事をしていないことを考えると、今が一番危険な時だとも言えた。
 見た目がよければ、性欲の向かう先が男でも不思議ではない。
「あいつ、イイ匂いがするよな、冷凍長」
「志岐やろ? ありゃ魔性ばい、魔性。い~匂いがするけんフラッと来るっちゃんね」
 マグロの保管責任者である下田(しもだ)冷凍長が、そんな言葉で浜やんを煽る。浅倉は呆(あき)れながらも、黙々と箸(はし)を動かして二人の会話に耳を傾けていた。
(いい歳したオヤジが二人揃(そろ)って、いったいどんな会話してやがんだ……)
 確かに、男の中にも生まれつき甘い体臭を持つ奴はいる。十年ほど前、浅倉の乗る船に似たタイプの若い男が乗り込んできたことがあった。エロ本の類(たぐい)を一冊も持ち込んでいなかったことから目をつけられ、ある時エンジン室で一等航海士(チョッサー)らにマワされた。
 男はホモだった。
 しかし、だからといって誰(だれ)とでも寝たいと思っているわけではないだろう。その航海中、男はずっと連中のオンナにされたが、中心となって男を犯していたのが船の幹部だったため誰も口出しすることはできず、最後は海の転落事故で死んだ。浅倉は、今でも奴の死は自殺だと思っている。
 後味の悪い過去の出来事を思い出し、様子だけでも見に行ってみるかと食器を所定の場所に戻してから食堂を出た。途中、甲板員のフィリピン人とすれ違い、志岐を見なかったか聞いてみる。
「シキ? アッチいました。剛三(ごうぞう)サン、一緒デシタ」
「剛三が?」
 嫌な予感がし、浅倉は歩調を早めた。
 剛三というのは甲板員として乗り込んできた男なのだが、無口で自分のことは一切喋らない変わり者だ。いかにも凶悪を絵に描いたような顔をしており、剛三からもワケアリの匂いがした。
 誰かを刺して逃げてきたなんて言われても驚かない。
(マズいことになってなきゃいいがな)
 機関室の方へ行くと、油とペンキの匂いが鼻を掠める。食堂の方はまだマシだが、この辺りはエンジン音が真下から響いてくるため、一種異様な雰囲気が漂っていた。すぐに慣れるが、浅倉はこの音を聞くとマワされた男のことを思い出す。心ない男たちに、公衆便所のように使われた哀れな青年。
 幅が狭くて急勾配(きゅうこうばい)になっている階段をカンカンカン、と鳴らしながら下のエンジン室へ行き、周りを見渡す。中はかなりの熱気で、出入口付近だというのに汗が滲(にじ)み出てくる。
 浅倉は、思わず足を止めた。
(マジか……)
 志岐がいた。剛三と二人で何やらこそこそ話しているのだ。どう見ても、迫られているようにしか見えない。まだ出航して二週間だというのに早くもトラブル発生かと気色ばみ、少し強い口調で二人を呼ぶ。
「――おい!」
 その声に剛三はすぐに志岐から躰を離し、浅倉を振り返った。
「何してる?」
「いや、なんでもねぇ。悪かったな、志岐」
 剛三は志岐の肩をポン、と叩(たた)いて踵(きびす)を返した。志岐の二回りほどの体格があり、身長も浅倉と同じくらいだ。
 あれに襲われたら、ひとたまりもない。
「大丈夫か?」
 浅倉は立ち去るその背中を見ながら、無意識に剛三から守るように志岐の前に立った。海の上では自分の身は自分で守るのが鉄則だが、弱者がむざむざと餌食(えじき)にされるのを見るのは気分のいいものではない。
 だが、怯(おび)えているのかと思いきや、志岐は平然と構えていた。
「どうかしたんですか、船長」
 言いながら口許に笑みを浮かべ、浅倉を意味深な目で見上げる。せっかく人が気を利かせてぼかした聞き方をしてやっているのにと、浅倉のこめかみに血管が浮かんだ。
「何かされなかったかって聞いてるんだよ」
「何かって、俺の貞操の心配でもしてくれてるんですか?」
 明らかに、浅倉の反応を楽しんでいる様子である。ムッとして、志岐の腕を掴(つか)むと引きずるようにしてそこから二階上にある居住区(ハウス)の自分の部屋へと向かった。
「ちょっと、なんです?」
「いいから来い」
 志岐たち一般の船員はタコ部屋さながらの四人部屋だが、幹部たちの部屋は個室になっている。部屋に入って扉を閉めると後ろ手で鍵(かぎ)をかけ、志岐を睨(にら)んだ。取りようによっては、これから押し倒してよからぬことをいたそうとしているようでもあるが、ここまでしても志岐は顔色一つ変えない。
 まったく、可愛(かわい)くない男だ。
「こんなところに連れ込んで……浅倉さん、やーらしいなぁ」
「お前な、俺をおちょくってんのか?」
「冗談ですよ、冗談」
 志岐は笑いながら首の後ろを手で掻いた。
(本当に犯すぞ……)